スイスを震撼させたツーク州議会銃乱射事件
フリードリヒ・ライバッハーがツーク州議会に乗り込み、銃を乱射したのはちょうど20年前。被害は死者14人、重傷者15人に至る。のちの捜査で、犯人は当時、完全に責任能力があったことが判明した。スイスのトラウマとなったこの乱射事件は、保安に対する考え方に転機をもたらすことになった。
ツーク州議会で無差別殺人事件が発生したとき、ニューヨークのツインタワーに飛行機が突入した同時多発テロ事件からわずか2週間余りしか経っていなかった。この事件はツーク州のみならず、スイス全土を悪夢に突き落とし、現代的な保安コンセプトの必要性を初めて認識させることになった。政治機関がそれまでのコンセプトを見直したところ、一部は驚くような結果だった。ベルンの連邦議会議事堂でも状況への適応を図り、手荷物を透視するスキャナーを設置するなどの対策を取った。誰でも簡単に出入りできた牧歌的なスイスの議会ホールののどかさは、こうして姿を消した。
この悲劇で独自の教訓を得たツーク州は、当局と市民の間に発生した衝突の仲立ちをする苦情調査窓口を新設した。ドイツの社会学者ウルリヒ・ベック氏のことばを借りると、スイスはアメリカとほぼ同時に「現代的なリスク社会」なる新時代に足を踏み入れたのだった。
だが、その端緒はいったいどこにあったのだろうか。税政策で国際的に名を上げたこの裕福な地域の悲劇を食い止めることができなくなった「回帰不能点」はどこだったのか。
バス運転手とのいさかい
銃乱射事件の数年前、ライバッハーはあるバス運転手とひともんちゃくを起こした。それが、言ってみれば樽から水をあふれさせる最後の一滴となったのだろうか。ライバッハーは当時、運転手が酒に酔っていたと主張した。この一件は裁判となったが、だらだらといつまでも続いた挙句、無益のままに終わった。
一見なんでもなさそうなこの出来事が、裁判官であれ政治家であれ、はたまた一介のバス運転手であれ、公的組織に属する人間は金輪際、信用してはならないと、ライバッハーに確信させることになったのだろうか。彼自身が述べているように、彼らは皆「人民に仕える者」であるかのように見せかけているだけで、実はエゴイストなやくざ者、結局は揃いも揃って「ツーク・マフィア」なのだ、と。
この問いかけに対する答えを得ることはないだろう。分かっていることは、ライバッハーが単独で行動し、無差別殺人を意図的に計画したということだ。彼は財産を整理し、持ち家を売り、母親宛てに遺書を書き、遺言書を作成しただけでなく、葬儀屋に火葬の依頼まで行っていた。
後にライバッハー事件を引き継いだローラント・シュヴィーター特別捜査官によると、ライバッハーが犯罪グループに属していた事跡や形跡は一切ない。いったい何が起こったのか。公官庁や政治家、司法機関に対するライバッハーの敵意はどこから来たのか。アサルトライフル90やシグザウエルP232ピストルなど、種々の銃器で身を固めた(合法ではあった)彼に、91発も乱射させた理由はどこにあったのか。
友人のための闘い
バス運転手との争いは、無差別殺人という悲劇で締めくくられた数々のエピソードの中の1つだ。それ以前にも、トルコに時計を密輸しようとして現地で逮捕されたこともあれば、ある友人と共謀しさまざまな会社にビジネス電話帳に載せると偽って請求書を送りつけたこともある。さらに消費者雑誌ベオバハターによると、不法に武器を持ち込んだり、児童虐待のかどで有罪判決を受けたりもしている。
バス運転手の一件で、特にライバッハーの攻撃の的となったのが、当時ツーク州参事を務めていたロベルト・ビシク氏だった。ライバッハーは、州立企業ツーガーラント交通に勤める「いい加減な運転手」を擁護し、自分をクレーマーだと誹謗したと、ビシク氏をとがめた。
だが、ライバッハーはスキャンダルを引き起こすばかりでもなかった。友人のエルマー・ヴェンガーさん(仮名)のために、まだ子供だった彼がさまざまな児童施設や孤児院で受けた不正や損害の補償をツーク州に求めるという行動も起こしていたのだ。ライバッハーにしてみれば、ヴェンガーさんはスイスの古臭い社会制度の犠牲者だった。
ヴェンガーさんは3歳のとき、母親から引き離されてカプチン会慈善団体「天使の恵み(Seraphisches Liebeswerk)」に連れて行かれた。その後、孤児院を転々と移され、最終的に「知恵遅れ」という診断とともに鑑別所に送られた。
当局の指示で、いわゆる「機能不全家族」から取り上げられ、「将来に向けた強制措置」の枠内で「しつけ直す」ために、いくらか裕福で恵まれた家庭に強制奉公に出された子供たちの存在は、今もなお汚点としてスイス史に薄黒く付着している。
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しかし州当局は非を認めようとせず、補償金を支払う意思を示すこともなかった。闘いはずるずると何年も続き、当局に対するライバッハーの憎しみは増すばかりだった。
ライバッハーは闘いの動機や要求を雑誌ベオバハターへの手紙に綴り、編集部を「ツーク・マフィア」との闘いの同盟者にしようと試みた。手紙には「私がヴェンガーのために闘っているのは、主観的にそれが正しいと思うからだ」と書かれていた。
「クレームの1つでも認められていれば」
ツークで起こったこの悲しい出来事は、1つの点で他の多くの乱射事件と異なっている。ツークの事件は、責任能力のない人間が感情に駆られて引き起こしたのではないということだ。原動力となったのは、政治や裁判などの機関の間違った対応ばかりがライバッハーの目に移り、それに対して湧いた冷たい憎しみだった。ベオバハターによると、ヴェンガーさんはのちに「彼のクレームの1つでも認められていれば、こんなことにはならなかっただろう」と語っている。
しかし、ツーク州裁は2001年9月26日、ライバッハーの訴えをすべて退けた。その翌日、彼は車を州議会議事堂へと走らせ、「これから、あいつら全員に思い知らせてやる」と口走りながら、建物に足を踏み入れた。ツーク州警科学捜査課を率いるゲルハルト・シュペンゲラー氏はのちにその時の詳細をすべてまとめ、専門誌「犯罪学」に発表した。
建物のロビーに踏み込んだライバッハーはそこにいた議員数人を狙い撃ちすると、その足で議場に乗り込み、13人を射殺、20人以上の議員とメディア関係者に一部重傷の傷を負わせた。それから、銃を使って自殺した。襲撃にかかった時間はわずか2分34秒。ライバッハーの本来の標的だったビシク氏は無傷で生き延びた。
パルムラン連邦大統領が犠牲者を悼む
この乱射事件は20年が経過した今も、痛ましい記憶としてスイスの人々の胸に残っている。ツーク州で行われる記念行事にはギー・パルムラン連邦大統領も出席する予定だ。
州政府広報担当官はswissinfo.chに対し、「この悲劇の想起は大切なことだ。この事件は自由な社会が持つリベラルな価値観に対する攻撃でもあるからだ。9月27日に起こったこの出来事はまた、どんな形の暴力も受け入れられないという警告ともなるだろう」と強く語った。
ツーク事件以来、スイスでは政治制度に対する同様の攻撃は発生していない。
(独語からの翻訳・小山千早 )
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