スイスアルプスに響くジェンダーの鐘
スイスの絵本「ウルスリのすず」によって世界的に有名になった春の行事「チャランダマルツ」。伝統行事の最後の砦となったこの祭りに女の子も参加するというので、スイスの山岳地帯がざわめいている。伝統とジェンダー問題の狭間にある村ツォーツを訪ねた。
スイスの山岳地帯と聞いて外国人が思い浮かべる風景が、ツォーツにはある。村の中心部には瀟洒(しょうしゃ)な壁画が施されたエンガディン様式の立派な建物が建ち並ぶ。広場には花で飾られた泉があり、その周りを校舎や役場が取り囲む。住宅地から山を仰ぐと、世界に名高い寄宿学校リツェウム・アルピーヌムが見える。
だがそんな牧歌的風景とは裏腹に、このアルプスの村では1年近く反目が続いていた。その中心にあるのは今や世界中に広がる、伝統とジェンダー政策の摩擦だ。
ツォーツでは、エンガディン地方で最も有名な祭り、チャランダマルツが揺れている。3月1日に男の子たちがカウベルを鳴らして村内を練り歩き、冬を追い払う行事だ。
参加するのは男の子だけ。それが問題になっていた。これまでは。
解放の物語
絵本「ウルスリのすず」はチャランダマルツを世界的に有名にした。1945年、終戦直後に出版されたこの物語はアイコニックな挿絵の表現力もあいまって、「ハイジ」にこそ及ばぬものの、その後数十年にわたりスイスの児童書ベストセラー第2位の地位を占めた。この作品は英語、日本語、中国語を含む8カ国語に翻訳されている。
小さなウルスリがチャランダマルツに参加するのに渡されたのは、山羊用のちっぽけなベルだった。村の男の子たちはウルスリを笑いものにする。ベルが小さいと行列の最後尾を歩かされるからだ。
ウルスリはそんな不名誉に甘んじるつもりはなく、深い雪をかき分けて巨大なカウベルが吊り下げられた山小屋にたどり着く。翌日、携えて戻ったカウベルが村一番の大きさとわかり、行列の先頭に立つことを許される。
これは男の子だけの集団内で差別的な状況から解放される物語だ。ウルスリにはフルリーナという妹がいるが、村の女の子たちと同じく行列には参加できない。
1940年代にこのような性差別を気にする人はいなかっただろう。長い間変わらぬ伝統を守ってきたツォーツで、この問題が議論の焦点になった。
論争を引き起こしたのはこの風習に風穴を開けようという村長の熱意だ。女の子も行列に参加して一緒に歌い、男女が平等に同じ青い野良着を着て赤い帽子をかぶるという案が示された。
平等規則は連邦憲法に定められ、スイスの全ての学校に義務づけられている。また、エンガディン地方の他の自治体とは異なり男の子だけという伝統を守るツォーツで、チャランダマルツは学校の必須科目だ。
ところが、この改革に反対の声が上がった。昨年6月にタウンミーティングで行われた投票の結果を後日インターネットで見る限り、村には深い溝が刻まれている。
女の子の参加に賛成したのは主に女性だ。だが出席者の中には、女の子が参加するならそれはもはやチャランダマルツではないと断言する人もいた。女の子は「大広間の飾り付けなど」別の役割で参加すればいいという意見もあった。
村長はとっさの機転で改革案を撤回し、見直すことにしたが、村には対立が残った。
昨年の夏の終わり、swissinfo.chはツォーツを訪れた。ある地元の女性は、自分は改革に賛成だが、家族との食事中にこの話題は避けていると明かした。他の人々は男性も女性も首を振り、エンガディンの風習がよそ者のジェンダー活動家にひっくり返されるなんてばかげていると話す。
垣間見える闇の側面
文化科学者でチューリヒ大学講師のミシャ・ガラティ氏は、ツォーツの人々が懐疑的なことに驚かない。この行事は男女の役割がはっきり分けられていた時代に生まれており、そこへ踏み込むと風習の持つ二元性も危うくなるからだ。「それは恐れと結びついている。伝承された型に回帰する防御の姿勢だ」
だが同氏にとってこれは対立の一局面に過ぎない。タウンミーティングは対立全体が代理論争でもあることを示している。「風習には闇の側面もある。それは常に排除と関係する。つまりそこでは、だれが権力を持ち、だれがそれに属しているかということが問題になる」という。
スイスの多くの山村と同様、ツォーツでも地元民と新参者は対立している。対立が際だって見えるのはこの地域で少数言語ロマンシュ語が話されるからだ。移住者の多くは、ロマンシュ語を習得しようとしない。
ガラティ氏はどんなに抵抗があろうと伝統が変化するのは自明だと考える。今回初めて変わったわけでもない。風習とは繰り返すことで自己を確認するツールなのだ。
チャランダマルツの起源は、季節の移り変わりが何よりも重要だった農耕社会にさかのぼる。同氏は「この儀式は農耕を中心として形作られたが、今や新しい中身に入れ替えられる」と指摘する。
「ウルスリのすず」の作家の息子、故スタイバン・リウン・コンツ氏の夫人であるアンドレア・コンツ氏は今回の変革に批判的だ。伝統は進化するものだが、「近代化に関して私が最も危惧(きぐ)するのは、風習の裏にある象徴的意味が理解されなくなってしまうことだ」と話す。
同氏によれば、チャランダマルツは生殖のサイクルを表し、大きなカウベルは男根の象徴だ。「女の子が身につける意味があるのだろうか」
また、ツォーツでの議論には文化闘争が含まれるとも指摘する。平等への圧力はよそから来た母親たちが村に持ち込んだといい、そのような「母親たちは自分の娘が参加できないなんてありえないと主張する」。こうした「白か黒か」という要求に同氏は納得しない。
同じように「ウルスリのすず」行列が行われるグアルダに長く暮らす同氏の娘は、かつてチャランダマルツに参加しようとしたことがあった。1990年代のことで、エンガディンの他の自治体と同様、グアルダではその数年前から女の子の参加について議論されていた。「けれども当時のジェンダー論争は今ほど非常識ではなかった」
多様性は外見にとらわれ過ぎ、平等は画一化とすり替えられた、と同氏は言う。多くの村で男の子とは違う役割を女の子に持たせることもできたはずだ、と。
そこには伝統に背くことなく変革できる可能性がある。「女の子の役割を軽視するのではなく、男の子に対するのと同等の注意を向けることだ」
新たな始まり
ツォーツはスイスらしいともらしくないとも言えない方法でこのジレンマから抜け出した。今年は初めて女の子も行列に参加できる。服装も男の子と同じ。ただしカウベルは持たないというやり方で。
村長の委託を受けて専門委員会が自らの責任でこの妥協案を作成し、改正案は再度民意を問われることなく実行された。直接民主制のスイスではまれなことだ。
副委員長で臨時村長のラウム・ラッティ氏は、女の子も参加すべきという意見が村の「大多数を占めた」と述べた。装いを新たにした祭りで、村に平和が取り戻せるという。
チャランダマルツは団結や帰属意識を強める重要な行事だが、同氏は低地、つまり村の外部からの圧力も感じている。「広い目で見れば私たちは少数派だ」
ジェンダー論争は避けて通れない。「伝統はよく考えた上で進化させるべきだ」。それは昔からずっとそうだったと同氏は言う。
「ツォーツに青い野良着と赤い帽子が登場したのは戦後になってから」で、風習の役割は変わったと言う。「以前は傭兵と結びついた祭りで、冬を追い払うと同時に村の男の子をお披露目するための行事だった」
今や祭りの主役は子供たちだ。同氏はそのことが自分の考えに影響したと言う。「私の娘は自分が参加できると喜んだ」
独語からの翻訳:井口富美子
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