巨大な作品と「ハイパーリアリズム」の代表として知られるスイス人画家、フランツ・ゲルチュが21日、92歳で死去した。自然から多くの発想を得、日本から取り寄せた顔料や越前和紙を使った作品も多く遺した。
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死の直前まで制作にあたった。フランツ・ゲルチュを象徴する巨大作品に照らして驚くほど小さなアトリエで。芸術家的な混沌(こんとん)とは無縁で、常に整理整頓された作業場だった。
ドアの横には寝椅子が置かれ、その上には若かりしゲルチュが描いた絵画が飾られている。ピンク、紫、青で描かれたベルンの街並みの抽象画は、ゲルチュが16歳の時の作品だ。
職業は画家、精神は音楽家
歌手の父を持つゲルチュは、若い頃は音楽家を志していた。少年時代にピアノを弾き始め、青年期にはピアノ教師の資格を得ようと考えていた。画家では食べていけないと恐れたからだ。
だが実際は違った。フランツ・ゲルチュは芸術の道を選び、ベルンにあるマックス・フォン・ミューレネン絵画学校に通った。ゲルチュは絵画とピアノ演奏の間に明確な類似点があると考えていた。目に見える自然は、「ピアノ奏者にとっての音符」のように画家が解釈しなければならないものだった。
ハイパーリアリズム
フランツ・ゲルチュはポップアート的な絵で最初の成功を収めた。平面的なモチーフを強烈な色で描いたが、すぐにこの印象的な絵画スタイルは自分に合わないと気づいた。もっと躍動感のある絵を描きたいと考えていたが、1960~70年代の時代精神にとらわれていた。
やがて、写真をもとに徹底的に写実的に描く「ハイパーリアリズム」を採り入れ、日常的でありきたりな場面の人々を描く大型作品を制作するようになった。一部に蛍光色を利用し、モチーフが立体的に見えるような画風も使った。
1970年代半ば、妻のマリアや子供たちを連れ、ベルン州シュヴァルツェンブルガー地方のリューシェックにある古い農家に引っ越した。ここの自然はゲルチュにとって大きな存在感を放ち、晩年の作品で中心的な役割を占めるようになった。
散歩する画家
自然の成長やあるがままの姿が持つ神秘性に、フランツ・ゲルチュは魅了された。「この自然が持つ多様性はいかにして成立するのか?この雪を被った木もそうだ。この構造、この動きを成立させるほどの創造力を持っているのは誰なのか?」
後にゲルチュが作品の題材にしたものの多くは、家のごく近所に存在した。シュヴァルツヴァッサー川は彼の作品で永遠の命を吹き込まれた。日々の散歩で発見した身の周りの植物や森の産物も多く描かれた。
自宅近くにあるこの小さな森で、ゲルチュは2007~11年に制作した四季シリーズの素材となる写真を撮った。スイスのどこにでもある、取り立てるところもない森の一部だ。美術館への来場者は作品の前で自分が散歩した時のことを思い出した、とゲルチュは語った。
自然へのまなざし
フランツ・ゲルチュにとっても、散歩は内省と観察をするために行うものだった。生命の表現としての自然を視覚的、精神的に体験すること―それは作品のテーマでもあった。
ゲルチュはただの葉っぱや流れる川の水面と同様に、人間の顔にも関心を持っていた。それは自然の本質であり、ゲルチュが作品の中に捕えようとしていたものだった。
日本も度々訪れた。ゲルチュの公式ホームページ外部リンクによると、初めて訪日したのは1987年。越前和紙職人の岩野平三郎外部リンクを訪ね、以後の木版画に越前和紙を採り入れた。京都では「水の色」「花の色」といった名を冠した顔料を豊富に扱う店に遭遇し、詳しい知識もないまま一通り買いそろえた。1988年の作品「NataschaⅣ(ナターシャⅣ)」には既に京都で入手した顔料で木版画を刷った。
日本では1995年に愛知県美術館外部リンクで初めてフランツ・ゲルチュ展が紹介された。
独語からの翻訳・追加情報:ムートゥ朋子
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名作「ウルスリのすず」出版70周年 芸術家カリジェに光をあてる
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絵本「ウルスリのすず」は原作に使われたロマンシュ語の他に、英語、日本語、アフリカーンス語など、幅広い言語に訳され親しまれている。こうした絵本の人気にも関わらず、もしくはそのような人気ゆえか、絵本のイラストを担当したアロイス・カリジェは画家として認められることを求めていたという。
ずっと遠く、高い山のおくに、みなさんのような男の子が住んでいます…。このようなかたちで始まる「ウルスリのすず」の冒頭部分は、子どもたちの間ではおなじみの文章だ。しかし、この作品が何十年もの間、子どものベッドタイムのお気に入りの絵本として愛され続けたのは、アロイス・カリジェ独特のイラストのお陰だ。絵本では、クルクル天然パーマの髪の毛の上に、ちょこんと小さなとんがり帽子をのせた主人公の男の子ウルスリが、村の春を迎える祭りで先頭を歩くために、大きな鈴を捜しに出かけていく…。
1945年の出版以来、少なくとも100万部が売れ、ゼリーナ・ヘンツ原作のこの物語は9カ国語に訳された。ドイツ語版はロマンシュ語と同時に出版された。
カリジェは「フルリーナと山の鳥」など他にも絵本を制作しているが、どの作品も「ウルスリのすず」ほど人気を博していない。66年、カリジェは国際アンデルセン賞の画家賞を受賞している。
2015年の今年、絵本「ウルスリのすず」は出版70周年記念を迎える。またカリジェ没後30年にあたる年でもあり、新しく製作された映画「ウルスリのすず」も秋に公開を控えている。こうしたことからチューリヒ国立博物館では現在、絵本のイラストだけにとどまらない、カリジェのさまざまな作品の魅力をとらえる時だとしてカリジェの展覧会を開催している。
マルチタレント
「カリジェは単なる『ウルスリのすず』の生みの父というわけではなく、ただの画家というわけでもない。彼は素晴らしいグラフィックデザイナー、舞台美術家であり、『キャバレー・コルニション』の共同創業者でもある」と話すのは、パスカル・メイヤーさんだ。同館で15年6月10日~16年1月まで開催される「アロイス・カリジェ アート・グラフィックアート・ウルスリのすず」展の学芸員を務めている。
カリジェは1902年、11人兄弟の7番目としてグラウビュンデン州南東部のトゥルンに生まれた。カリジェ本人によれば、当時はまだ貧しかった同州の田舎の山奥でのどかな幼年期を過ごし、その後、家族と共に州都クールへ引っ越したという。また、家族とはロマンシュ語で話していた。
室内装飾を学んだカリジェだが、独学で学び広告デザイナーとしても活躍。観光業界や、39年に開催されたスイス博覧会のポスターにも作品が使われた。「カリジェの作品はウィットとユーモアに富んでいる。スイスの偉大なグラフィックデザイナーの一人だ」とメイヤーさんは話す。
またカリジェは、34年にオープンし51年に閉店した伝説の「キャバレー・コルニション」の舞台美術も担当した。メンバーの中には当時俳優としてよく知られていた、カリジェの兄弟のサーリ・カリジェもいた。
だが、カリジェの心のよりどころはやはり芸術だった。39年、カリジェは画業に専念するため、郷里グラウビュンデン州の山奥へと移る。
カリジェのアート
アロイス・カリジェ展の開催にあたり、カリジェの初期の作品をいくつか貸し出したグラウビュンデンの州立美術館(ビュンドナー美術館)のステファン・クンツ館長は、カリジェは自身が作り上げたイメージである「グラウビュンデン州出身の貴重な芸術家」として知られていたが、同時に「カリジェは州の境界線を越えた、一人の重要な芸術家としても評価されていた」と話す。
カリジェは独自のスタイルを生み出し、それを洗練していった。自分のまわりにあるモチーフを使い、躍動感や力強さあふれる構図に取り入れていった。近所の人々にとって、カリジェは時に何を考えているかわからない人物だったと、クンツ館長は話す。「隣人たちの日々の生活とはかけ離れたことをする存在だったが、農業を営み畑を耕す、ごく普通の人々である隣人に、カリジェは敬意を払っていた。彼らがカリジェに、なぜいつも牛を赤色で描くのかと質問すると、カリジェはこう答えた。『私は芸術家だから、少し頭がおかしいんだ』。しかし隣人たちもまた、常にカリジェに敬意を払っていた」
51年、チューリヒで描いた巨大壁画をきっかけに、カリジェは画家として世間に名を知られるようになる。しかし、その頃すでに得ていたイラストレーターとしての名声だけでなく、グラフィックデザイナーとして制作した多くの作品が、カリジェの芸術家としての名声を損じてしまった、とクンツ館長は話す。
故郷や伝統をモチーフにするスタイルもそれに拍車を掛けた。物ごとがもっとシンプルだった時代を振り返るウルスリの絵本が、戦後の保守的な考え方が見直されていたこの時期に出版されたのは偶然ではない。
「だが芸術家、画家としての彼の作品を見れば、そこにはまた他の良さがみえる。カリジェは素晴らしい画家になった」と、カリジェの作品にみられる遠近法や絵画空間の処理の仕方を例に挙げながら、クンツ館長は高く評価した。
ウルスリのアピール
はじめのうち、カリジェは画業に専念することを理由に、ウルスリの絵本のイラスト制作の依頼を断っていた。また主人公のイラスト制作に長い間苦戦したため、制作に取り掛かってから出版されるまで、5年の年月が掛かった。
しかしドイツ語とロマンシュ語の二つの方言で同時に出版されるやいなや、ウルスリの絵本の人気に火がついた。「今や定番の絵本になった」と、71年から「ウルスリのすず」の出版権をもつオレル・フュースリ出版社のロニー・フォースターさんは話す。
絵本はこれまでに9カ国語に訳され、近々ペルシャ語の出版も控えている。英語版に関しては、素朴でのどかなスイスを感じられるおみやげを買いたい観光客がよく購入していくという。
また、日本では特に人気があり、73年の出版開始からこれまでに4万2千部が売られた。「この数字だけでは、ものすごい販売部数だと思えないかもしれない。しかし、日本の出版社によれば、これほどコンスタントに一定の売り上げを保っている絵本は他に無いという。これは興味深い」とフォースターさんは話す。
開催中の展覧会では「ウルスリのすず」や他の絵本に加え、7番目の作品で未出版の、野生の赤ちゃんヤギを描いた物語「Krickel(カモシカの角)」のスケッチも初めて展示される。これらの作品がカリジェの他の才能に影を落とす原因だった可能性はあるにしろ、カリジェが絵本作家としての活動から得られた喜びはとてつもなく大きなものだったといえる。
絵本作家としての活動を止めたあとも、子どもたちがウルスリの絵本を枕元に置いて寝ているという話を聞くと、うれしそうな顔を見せたカリジェ。
のちにカリジェは、こう書いている。「『街の灰色の道と家』に囲まれた子どもたちに、『山々にある光と輝きにあふれた幼少時代』を届けることが、私にとって重要だった」
カリジェとロマンシュ語
カリジェはロマンシュ語を母国語として育った。ロマンシュ語はラテン語が元になった言語で、特にグラウビュンデン地方で話されている。現在、ロマンシュ語で会話ができる人口は6万人といわれている。1938年よりロマンシュ語はスイスの四つ目の公用語に認められている。
カリジェがロマンシュ語を保護する取り組みに参加することはなかったが、ロマンシュ語の文化や、知識人たちとの交流があった、とロマンシュ語研究者のリコ・ヴァレーさんは言う。「カリジェの作品は時にロマンシュ語というものを想起させる。それはロマンシュ語を話す人たちのアイデンティティーや、他の人たちのロマンシュ語を話す人たちへの理解にも影響を与えた」
特に影響を与えたのは「ウルスリのすず」だが、カリジェは大人向けの本の挿絵も多く描いており、それらはカリジェとロマンシュ語文化を強く結びつけた。
カリジェにとってロマンシュ語とは、家族を想起させるものだった。「カリジェは『ウルスリのすず』をロマンシュ語の原文で読んだとき、自分の幼少時代と、過ごした素晴らしい時の数々を想ったと語った」(ヴァレーさん)
もっと読む 名作「ウルスリのすず」出版70周年 芸術家カリジェに光をあてる
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