ヌーシャテルの新研究センター 時計業界に革命を起こせるか?
スイス時計産業の中心地ヌーシャテルに新しくオープンした研究施設「マイクロシティー」。その野望は、マイクロエンジニアリング(マイクロ工学)のグローバル・ハブとなり、時計製造技術に革命を起こすことだ。しかし、地域経済の弱点がその妨げになるかもしれない。
ここはマイクロシティー内の新しい研究室。部屋の中央に置かれたテーブルの上では、電源やセンサーにつながれた小さな金属の立方体が静かに回転している。
一見、特別なものには見えないかもしれない。しかし、シモン・エナン教授率いる研究室「インスタントラボ(Instant-Lab)」は、この試作品が機械時計の効率と精確性を革命的に向上させるものだと期待している。
機械時計の基本的構造は18世紀末以来変わっていないという。「この発明は小さな改良ではなく、機械時計の製造技術を一新する可能性を秘めている」とエナン教授は説明する。
この金属製の装置は「アイゾスプリング(IsoSpring)」と呼ばれ、中で振動子が同じ方向に絶えず回転している。この装置が斬新なのは、時計機構の中で最も複雑で繊細な「脱進機(エスケープメント)」という部品を使わずに動くところだ。ちなみに、時計がカチカチと時を刻むのは脱進機の働きによる。
この新装置によって、非常に精確な時計が作れる可能性があると発明者たちは話す。
「カチカチと鳴る昔ながらの脱進機は無駄な音が多く、駆動効率はわずか35%に過ぎない。これは試作品だが、最適化したり潤滑油をさしたりしなくても1日に1秒しか遅れない。つまり、今の段階で既に、一部の高価な振り子時計より精確だということだ」と、上級研究員イラン・ヴァルディさんは説明する。
エナン教授と研究チームは、この新技術の特許を取得した今、開発を続けるために産業界のパートナーとの交渉を計画している。次の課題は、腕時計に組み込める大きさまで小型化することだ。
国の出資を受けたマイクロシティーは、5月8日に正式にオープンした。ここでの研究に関心を示している時計メーカーはパテック・フィリップだけではない。カルティエ、ジャガー・ルクルト、ピアジェなどの高級時計を製造するラグジュアリー・グループのリシュモンもEPFLと提携し、4月に「マルチスケール製造技術」研究での教授職の創設を発表した。
伝統的な機械加工や金属プレス工程は今でも時計製造で重要な役割を果たしているが、一方でレーザー加工や3D印刷、プラズマエッチングといった新技術に対する期待も高まっている。
「要求が高く洗練された顧客、激化する競争、絶え間ない技術の進化。これが今私たちを取り巻く状況だ。新技術を用いれば、今後の業界の要求に幅広く応えていけるだろう」と、リシュモンのリシャール・ルプ共同最高経営責任者は話す。
スイスの大手時計アクセサリーメーカー、PXグループも、年間50万フラン(約5665万円)を出資して熱機械金属学の教授職を設け、研究を支援している。
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ただし、マイクロシティーの研究者たちは「研究はスポンサーのためだけに行われるのではなく、学術的に完全に独立したものだ」と強調する。
経済を盛り返す起爆剤に
スイスの時計産業の起こりは、16世紀のジュネーブとジュラ地域。その後、ヌーシャテル州、ベルン州、ソロトゥルン州へ広がり、さらに現在は、国際時計見本市「バーゼルワールド」が開催されるバーゼルまで広がった。2013年9月の時点で、時計産業およびマイクロエンジニアリング産業の企業は572社で、従業員は5万7千人。そのうち1万5500人がヌーシャテル州で働いている。
また、ヌーシャテルのマイクロシティーの近くにはスイスCSEM社があり、合わせて600人の研究者が集まる。こうした地理的な近さが相乗効果を生むことで、スイスの時計産業や経済全体に追い風が吹くのではと業界関係者は期待している。
時計産業は特に中国で需要が落ち込んだために売り上げが減少している。それを顕著に表しているのが、市場規模の指標として最適なスイスの時計輸出額だ。昨年は1.9%増加して218億フランとなったが、近年の2桁の伸びに比べると成長率は著しく低い。
「マイクロシティーは時計産業の中心地にある。優秀な人材や研究プロジェクトが集まり、競争が刺激され時計業界全体に良い影響を与えるだろう」と、スイス時計協会FHのジャン・ダニエル・パッシュ代表は話す。
「特に時計業界の礎(いしずえ)であるマイクロテクノロジー分野において、たゆまずイノベーションを続けていかなければならない」
ヌーシャテル市の研究施設「マイクロシティー」の落成式が5月8日に行われた。建築費用は7100万フラン(約80億4500万円)。建物はヌーシャテル州の所有だが、連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)が管理。スイスのマイクロエンジニアリングの中心となることを目指す。このEPFLの遠隔キャンパスと近隣のスイスCSEMを合わせると、12の研究室と600人の研究者を擁し、ベンチャー企業支援機構「Neode」もある。
ヌーシャテルのマイクロエンジニアリング研究所(IMT)の活動がこの建物に全て集結する。IMTは現在、グリーン(環境に優しい)製造技術、超低消費モーター、薄膜太陽電池などのプロジェクトに注力しているが、時計産業との強い結びつきを維持しつつ活動の幅を広げていく計画だ。
またマイクロシティーは、応用研究と製造業間の相乗効果を生み出すことを目指す。ラグジュアリー企業グループのリシュモンや時計メーカーのパテック・フィリップ、時計アクセサリーメーカーのPXグループなどの企業が出資し、「チェア」という特別教授職を設けて研究や教育を支援している。
この地域は、17世紀から時計製造の専門技術の中心地として、また近年ではマイクロテクノロジーが盛んなことで知られている。
州の弱点
スイス国外からも、この試みを支持する声が上がっている。
「マイクロシティーは、ヌーシャテル地域ないしはスイスの成長を押し上げ、マイクロエンジニアリング分野において、欧州だけでなく世界的にトップレベルの地位を確立する一助になるだろう」と、ドイツの国際マイクロ・ナノテクノロジー企業ネットワーク組織「イーファム(IVAM)」の経済研究マネージャー、イリス・レーマンさんは話す。
「イーファムは近年、欧州全域のマイクロ・ナノテクノロジー産業の動向を観察してきた。ヌーシャテル地域は欧州でもマイクロテクノロジーが特に盛んだ。時計製造や精密工学のような伝統産業が、極めて革新的な先端技術に移行できることを示す素晴らしい例だ」
しかし、手放しで称賛する意見ばかりではない。スイスの金融大手UBSのアナリスト、エリアス・ハフナーさんは、このプロジェクトは「地域経済の特徴にマッチして」おり、ヌーシャテルの競争力に弾みをつけ、さらに発展させる可能性がありそうだと報告している。だが一方で「マイクロシティーは、欧州で、さらにスイス国内で比較しても非常に規模が小さい」とも指摘する。
マイクロエンジニアリングは、ヌーシャテルに近いジュラ山脈のフランス側やドイツでも盛んだ。スイス国内では、チューリヒとの競争がある。チューリヒは連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)と連邦マテリアル科学技術センター(Empa)を中心に、マイクロエンジニアリングとナノテクノロジーの研究が盛んに行われている。
多様性の欠如
ヌーシャテルはUBSの2014年競争力指標で、26州中20位だった。「イノベーション」で4位、「活力」では2位だったが、「多様性」と「労働市場」で振るわなかった。
「州がこのようなプロジェクトに過剰に出資し、過剰な期待をかければ、他の重要な問題への対処がおろそかになるリスクがある」とハフナーさんは警告する。「ヌーシャテル州は、輸出も多く優良企業もある。特許件数の多さで分かるようにイノベーション力にも優れていて、表面的には力があるように見える。しかし内面的には弱点が見られる」
ハフナーさんが特に懸念するのは、州の「基礎体力」が弱まっていることだ。「ヌーシャテル州の若年層の失業率はスイスで最も高く、高所得者が他州へ移住している。それに州の債務も比較的多く、公的年金は財源不足だ。州には財政的な余裕がないため、今後、州の魅力を上げるのが難しくなるだろう。こういった問題への対応がより重視されるべきだ」
連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)のヌーシャテル・キャンパスは、EPFLのハブ分散計画の実施第1号だ。その他には、ジュネーブで神経科学を研究する「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」があり、またヴァレー(ヴァリス)州シオンには応用エネルギー・保健研究専門の11の研究室からなる研究施設が2015年にオープン予定だ。建設技術と建築を専門とするフリブールの「スマートリビング研究所」も設立が予定されている。
EPFLとスイス西部の州(ヴォー、ヴァレー、フリブール、ヌーシャテル)は、このハブ分散計画が将来的に、連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)や他の地域と共同で設立される国立イノベーションパークの一環となるよう期待している。
(英語からの翻訳 西田英恵、編集 スイスインフォ)
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