「伝説のマフィア」の陰で暗躍したスイス銀行の運び屋
「伝説のマフィア王」の異名を持つマイヤー・ランスキーは1930年代、スイスで何百万ドルもの犯罪資金を洗浄するマネーロンダリング・システムを作り上げた。米当局の圧力を受けてスイスも捜査に乗り出したが、その真相は当局の手によって闇に葬られた。
マイェル・スホフラニスキ少年がチャールズ・ルチアーノ青年に出会ったのは1915年、悪名高いニューヨークのロウアー・イーストサイドでのことだった。スホフラニスキは数学の天才、ルチアーノは野心家だった。2人の少年は生涯にわたる友情を築いた。
やがてスホフラニスキは「マイヤー・ランスキー」の名で米暗黒街を支配するギャングに、ルチアーノはイタリアマフィア組織「コーザ・ノストラ」のトップの上りつめた。
そして遠いスイスのレマン湖畔で何百万ドルもの資金を洗浄するようになる。
米内国歳入庁(IRS)がマフィアを追い詰めていた当時、2人は汚れた金を秘かに、かつ効率的に洗浄する方法を見つける必要があった。そこでラスベガス初の「フラミンゴ」を始めとするカジノを次々にオープンし、汚れた金はギャンブラーの金に見事に紛れた。残るは税金の問題だ。高額な徴税をどうすれば免れられるか?アタッシュケースに隠したカジノマネーをどこに隠すか?
スイスの銀行秘密を専門とするローザンヌ大学のセバスチャン・ゲー名誉教授は、「当時、巨額の資金を生み出していた大規模な犯罪組織、いわゆるマフィアが抱えていた問題は、どうやって資金を洗浄するかだった」と説明する。「つまり、出所の不正な資金をいかに合法に見せかけて循環させるか、ということだった」
ランスキーはスイスに目をつけた。スイスはその秘密主義で知られ、何よりも米国税務当局から遠く離れた国だ。その上スイスの銀行は、「巡礼者」と呼ばれるアタッシュケースの運び屋を手配して現金の輸送も請け負った。ランスキーらにうってつけの存在だった。
「銀行の外交員が自らスイスに資金を運び、厄介な国境越えも引き受けた。顧客には安全と匿名性が保証された」(ゲー氏)
ジュネーブ・コネクション
こうしてランスキーとルチアーノの資金は、ジュネーブの銀行クレディ・インターナショナルの金庫に収まっていく。同行は、戦時中に命からがらナチスから逃れて中立国スイスに避難していた、ハンガリー人のティボール・ローゼンバウムが所有していた。ランスキーとローゼンバウムの出会いの経緯はほとんど知られていないが、この銀行は10年もの間、ジュネーブに大量のドル紙幣を移動させ、洗浄した。誰にも知られることなく。
スイスに資金を預けることで、問題の一部は解決した。残るはそれをどうやって米国に戻すかだ。
ローゼンバウムとランスキーは実に巧妙なシステムを考案する。ジュネーブに預けられた資金は、「銀行融資」に形を変えてマフィアが経営する米国企業に支払われた。融資先は主に、フロリダの高級不動産やカジノを建設する企業だった。その上、借入金の利子は所得から控除できるため、納税額も減らせる。完璧なシステムだった。だが、あることをきっかけに崩壊し、スイスの評判をも脅かした。
スキャンダルの発覚
1967年9月1日、米雑誌「ライフ」がローゼンバウムとランスキーの秘密のシステムを大々的に取り上げた。11ページにわたる特集で、写真入りでこの犯罪帝国の全てを明らかにした。そこには、数十億ドルを売り上げるカジノから、ジュネーブのクレディ・インターナショナルにアタッシュケースを運ぶ外交員に至るまでが描かれていた。
発覚のきっかけは、同行員のシルヴァン・フェルドマンが犯したミスだった。現金の移動に使ったレンタカーを返却した際に、ポケットから「MARAL2812」と書かれた1枚の紙きれを落とした。それはクレディ・インターナショナルにある複数の秘密口座のうちの1つだった。レンタカー会社の従業員が発見し、米連邦捜査局(FBI)に渡したとされる。
ゲー氏は、「理論的に考えて、ライフ誌の記事は自ら調査したものではなく、米国の最高当局が秘かに情報提供したのは間違いない」と言う。
ベルンに介入するワシントン
スイスにとって不穏な記事だった。米国がマフィアの口座を一掃したいとしても、一方のスイスは資金洗浄を看過することに問題はなかった。米国当局に協力する義務は一切ない。スイス当局が他国の協力要請に同意するのは、「刑法」が適用される場合のみだ。だが当時スイスでは、脱税は刑事犯罪ではなかった。
それでもこの問題は波紋を呼んだ。swissinfo.chは、スイス連邦公文書館に保管された在ワシントン・スイス大使の書簡を閲覧した。ライフ誌が記事を掲載した数日後に、ベルンの連邦外務省「本省」宛てに送られたものだ。
そこには、「ニューヨークのユダヤ系とイタリア系のマフィアが、ジュネーブの銀行を支配するようになったのは事実と思われる。この事件は、我が国の銀行制度が持つ国際的側面の一面と、それがスイス当局にもたらす問題を顕著に示すものである。本件を放置すれば、米国との良好な関係に好ましくない影響を及ぼす可能性がある」と綴られている。
この情報を受けて、スイス当局も動き出した。危機感を抱いたローゼンバウムは、ジュネーブで即座に弁護士を雇った。そして、この記事を掲載しようとしていたスイスの雑誌「リリュストレ」を相手取り、名誉棄損で訴えた。最終的に、同誌を発行する「ランジエ・グループ」に対し記事の掲載中止と引き換えに5万フラン(当時)の支払いを提案し、ライフ誌のフランス語版記事は、ごみ箱行きとなった。
スイスの捜査
同じころ、スイス警察が捜査を開始した。ジュネーブ州警察のピエール・ラペルーザ刑事が捜査を担当し、半年後の1968年3月、約30ページに及ぶ捜査報告書を発表した。swissinfo.chはこれを閲覧した。
報告書では、コーザ・ノストラのトップが何年も前からレマン湖畔に拠点を置いていたことが明らかにされていた。ランスキーと十数人の近親者や側近が、ビジネスのために毎年ジュネーブを訪れていた。実業家や「カポ」(幹部)、あるいはボス、その妻たち、時には愛人たちが滞在していた。
報告書はスイス全土の警察当局に回覧されたが、何も起こらなかった。ラペルーザ刑事の上司が捜査を妨害し、報告書は引き出しの奥へとしまい込まれた。
「スイスは時間稼ぎを図り、この問題を闇に葬り去ろうとした。その後の数年間はそれが彼らの見せた態度だった」(ゲー氏)
無罪放免
ローゼンバウムとその銀行の頭を悩ませるものはなくなった。アタッシュケースを運んでいたシルヴァン・フェルドマンも同様だ。ランスキーは米国の税務当局から逃れるため、しばらくの間イスラエルに逃亡するが、病気を患って米国に戻る。裁判では米税務当局が、ランスキーはスイスなどの「タックスヘイブン(租税回避地)」に3億ドルという巨額の資産を隠していると主張した。だが税務申告書を見る限り、彼は無一文だった。1974年、ランスキーは無罪放免となる。フロリダに隠居し、1982年に肺がんで死去した。
swissinfo.chは、SNS上で「マイヤー・ランスキー2世」と名乗るランスキーの孫に連絡を試みたが、取材依頼は拒否された。
仏語からの翻訳:由比かおり
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