原爆投下から70年。この節目の年に、スイスの赤十字国際委員会は、長崎の赤十字原爆病院関係者や被爆者にインタビューし、4本のビデオを制作した。この中で描かれているのは、長崎と広島の赤十字原爆病院が、今でも年間に何千人もの被爆者の治療に当たっていること。がんやその他の疾患と被爆との因果関係がはっきりしてきたことだ。また、ビデオを補う形で両病院の詳細な研究データも発表された。
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被爆者で現在生存している人の数は約20万人。しかし、このうち多くの人ががんだけではなく、その他のさまざまな疾患に苦しんでおり、2014年度だけで、被爆者と認定され広島赤十字・原爆病院で治療を受けた人の数は4657人。日本赤十字社長崎原爆病院では6030人に上った。
1946年以降に発生した、放射線による人体への影響を「原爆後障害」というが、この原爆後障害で亡くなった人の死因の約6割が、両病院においてがんだった。(下記枠内参照)
また、長崎赤十字原爆病院の朝長万左男(ともなが まさお)院長は、赤十字国際委員会(ICRC外部リンク)外部リンクが制作した以下のビデオの中で、「それまで心筋梗塞や心筋症などの血管病と被爆との関係はないと思われてきたが、実は因果関係があることが被爆線量を解析することではっきり出てきた」と語っている。
「70年もたちながら、長崎と広島の二つの日本赤十字原爆病院はいまだに多くの被爆者の治療に当たり、またがんや白血病だけでなく、他の多様な病気と被爆との因果関係も明らかにした。こうした報告は、日本だけでなく世界の多くの人々にショックを与えるだろう」とICRCの広報担当、フランシス・マルクスさんは言う。
「こうした身体的疾患に加え、精神的トラウマも忘れてはならない。うつ病や不安障害に苦しみ、また親が被爆した第2世代においては、将来病気になるのではないかという不安が心に大きな負担を課している」と、付け加える。
朝長院長も以下のビデオの中で、精神的影響について詳しく語り「被爆者は戦後ずっと死と隣り合わせの心理状態で生きてきた」と言う。
被爆との因果関係
ところで、こうした被爆と原爆後障害との因果関係だが、福島第一原発事故後にそうしたことが否定される中、朝長院長の「因果関係がある」という発表は、新たな一歩を踏み出したようにみえるがとマルクスさんに聞いた。
答えはこうだ。「福島第一原発事故とは切り離したほうが良い。長崎・広島の医師たちが研究を続けた結果、ここ10年で少しずつ因果関係が明らかになった。当時10歳の人が70歳、80歳になり色々な症状が出てきたということだ」。「またここ数年で、そういう因果関係が世界的に知られるようになったことも大きい。日本の医師たちが孤立しているわけではなく、こうした世界的な動きに支えられているからだと思う」
この世界的な動きの一つの例として、マルクスさんは計3回開催された世界会議「核兵器の人道的影響に関する会議」を挙げる。これは2013年3月のノルウェー・オスロを皮切りに、14年2月にメキシコ・ナジャリット、同年12月にウィーンで開催されている。そこではICRCはもちろん、各国の政府関係者やNGO、医療専門家などが研究成果を持ち寄って情報交換や討論を行っている。
核兵器廃絶に向けて
ICRCが今回、こうした原爆後障害に苦しむ人々の姿やデータを発表した理由は、原爆の長期にわたる影響を知ってもらうことで、世界の人々が原爆の脅威に対する認識を高め、ひいてはそのことで少しでも核兵器廃絶へ向けて行動してくれることを望むからだ。
「今、核保有国が所有する核弾頭は約1600個もあり、威力は広島・長崎のものより10倍もある。現在なお、これだけ被爆者が苦しんでいることは大きなショックなのに、さらにもし威力の高い核爆弾が使われたらと思うと、それはもう想像を絶する」とマルクスさん。
実は今春、核兵器不拡散条約(NPT)の再検討会議が、約1カ月間の議論の成果を記載した最終文書を採択せずに閉幕している。「しかし、たとえこうした結果に落胆はしても、それは核廃絶に向けての努力をあきらめるということではない」とマルクスさんは、あくまでポジティブに次のように続ける。
「核兵器をめぐるリスクにはさまざまなものがある。身体・精神への影響は、広島・長崎の例が示すようにもちろん大きい。またもう一度使用されれば世界的な規模で気候変動が起こるといったこともある。他にも事故で偶然に核爆弾が起爆するリスクもある。それを予防すること、つまり『すぐ使用できる状態をやめること』は、核保有国ができる努力の一つではないか」
今後もICRCは、身体・精神への影響を伝えていくという意味で、被爆者の現状を発表していくのだろうか?
「原爆後障害で苦しんでいる人々にとっては毎日の苦しみであって、70周年が終わったからといって苦しみが終わるわけではない。また第2世代の人々の苦しみ、不安もある。よって、恐らくICRCは継続して伝えていくだろう。世界の若い世代に事実を知ってもらい、核兵器廃絶に向けて行動してもらいたいからだ」
赤十字国際委員会(ICRC)、国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)、日本赤十字社
ICRCは、世界の紛争や紛争時の犠牲者の保護に、中立的立場で介入する国際機関。本部はジュネーブ。核兵器や化学兵器などに関しては主に法的な立場から助言などを行う。
一方、世界各国には赤十字社があり、各国の情勢に応じたさまざまな人道活動を行っている。日本には日本赤十字社がある。
さらに第3の機関として、こうした各国の赤十字社をまとめる「国際赤十字・ 赤新月社連盟(IFRC)」がある。IFRCは主に自然災害での救援・支援を目的としている。
ICRCとIFRCは、お互いに連携して活動することも多い。今回原爆投下後70周年の企画もそうした連携の一環だった。
原爆投下から70年、長崎・広島の赤十字原爆病院研究データの一部
日本赤十字社は、被爆者の治療に当たるため、広島に1956年、長崎に58年、赤十字原爆病院を開設した。以来、2015年3月31日までに二つの病院で外来患者250万人余を受け入れた。入院患者は260万人余にも上る。
生存している被爆者の数は現在約20万人。うち、約120万人が原爆投下時に直接被爆。約4万5千人がその後街に入り被爆した。
被爆者のうち、広島赤十字・原爆病院で治療を受けた人は2014年度で4657人。日本赤十字社長崎原爆病院では6030人に上る。
2014年3月に広島の原爆病院で命を落とした被爆者の約3分の2(63%)は、がんが死因。内訳は、肺がん(20%)、胃がん(18%)、肝がん(14%)、白血病(8%)、腸がん(7%)など。一方、長崎の原爆病院で同時期に亡くなった人の56%も、やはり死因はがんだった。内訳は、肺がん(18%)、肝がん(12%)胃がん(9%)など。長崎の原爆病院によれば、子どものとき被爆した人は、全身に被爆するため、全身の臓器にがん細胞を引き起こしやすく、そのため多種のがんにかかるという。
広島の恩人、ジュノー博士の映画上映会
原爆投下後70周年の企画として、スイスでアニメ「ジュノー」が上映される。ICRCの職員だったジュノー博士は、中立的立場で原爆投下後の広島に15トンの医薬品を提供するよう、マッカーサー総司令官に交渉した。また自ら広島に入り治療に当たった人物。
上映会の開催場所・日時は、 バーゼルで9月8日18時(場所 Stadtkino Basel)。詳細はスイス・日本協会のホームページ参照。http://www.suisse-japon.ch/外部リンク
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「太陽が落ちた日」、広島と福島をつなぐ反核を人の生き方で描く
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ロカルノ映画祭のドキュメンタリー部門にノミネートされた「太陽が落ちた日」は、原爆投下時に広島赤十字病院の医師だった監督の祖父を映画製作の出発点にしながら、当時の看護婦や肥田舜太郎医師の「原爆のその後を生き抜く姿」を丁寧に紡いだ作品だ。チューリヒ在住のドメーニグ綾監督(42)は、「娘やその孫のために作った。私の家族の歴史であり、同時に反核を含む私の世界観が凝縮している作品」と語る。広島と福島をつなぐ重いテーマでありながら、登場人物がユーモラスに生き生きと描かれている。
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原爆投下 ジュノー博士の勇気と信念
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「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
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