Christian Beutler/Keystone
オーストリアのブレゲンツァーヴァルトで今、スイス人建築家ピーター・ズントーの作品40点が自身の設計した施設で展示されている。スイス南部グラウビュンデン州の事務所で作成された模型たちは、ズントー作品において素材がいかに重要な意味を持つかを物語る。
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2023/08/12 08:30
ズントーは2023年春、家族に囲まれて80歳の誕生日を祝った。新型コロナウイルスのパンデミックが起きる前、80歳の誕生日会は米ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)で開く計画を立てていた。3人の子供と6人の孫にとっては長い旅程になったはずだが、それが理由で母国スイスでのお祝いに変えたわけではない。
ル・コルビュジエを超える
swissinfo.chではこの夏、この100年の建築史に名を残すべきスイス人建築家たちを紹介する。彼らの空間に対する考え方や世界に残した足跡、そして人々に影響を与える建物を見てみよう。
コロナ禍による輸送問題や、LACMA敷地内にある天然アスファルトの湧出地「タールピット」での考古学的発見、その他の遅延が原因となり、ロス市民はズントー最大の建物の完成を現在も待ち詫びている。
ズントーの故郷バーゼルにあるバイエラー美術館と同じように、LACMAが完成するのは早くとも2025年になりそうだ。
輝ける石
LACMAもバイエラー美術館も石造りだ。LACMAは打ちっぱなしのコンクリートで作られた腎臓のような形の建物で、バイエラーはジュラ紀産石灰岩で鋳造された一枚岩を使っている。光を伴う静寂から輝きを引き出し、芸術のための空間を形作る。ファサードや建設工程だけでなく、施設全体にも類似点がある。2館とも、ズントーの建物はイタリアのプリツカー賞建築家レンツォ・ピアノが数十年前に設計した建物の向かい側にあるのだ。
ズントーも2009年、建築界最高峰とされるプリツカー賞をピアノより11年遅れで受賞。66歳だったズントーに世界から注文が殺到する契機になった。世界的な評価の高さとは無縁に、ズントーはグラウビュンデン州クール郊外のハルデンシュタインにある小さな事務所を拠点としている。絵のように美しい山を背景にした城のある村だ。
ロサンゼルスに増築中の美術館の模型
Atelier Peter Zumthor
ズントーは1970年代以来、生まれ育ったバーゼルで同僚や家族のために家を建て、それからまもなくして自分の建築事務所を置いた。国際的な知名度を高めたのは1990年代半ば、地元の採掘企業トルファーが掘り出した岩をあしらった「テルメ・ヴァルス外部リンク 」だ。日本人建築家隈研吾が設計したトルファー本社「Anti Object外部リンク 」が「空飛ぶ石の家」と呼ばれるのとは対照的に、ズントー作の温泉はあたかも岩から直接切り出したかのように地面に置かれ、石の層が為す無限の重力が浴槽に安定をもたらしている。
テルメ・ヴァルスの構造
Aldo Amoretti/Atelier Peter Zumthor
空間に響く音は静かで重く、よく反響する。これはズントーが思い入れを込めたポイントでもある。クール地方で半世紀にわたり仕事をしてきたズントーを、グラウビュンデン出身の建築家と思い込んでいる人も少なくない。ズントーはクールで知人・友人、本と音楽に囲まれ、山を一望する事務所で仕事に没頭している。
重力を操る建築家
重みのある石はズントー作品によく登場する素材の1つにすぎない。テルメ・ヴァルスに続いて国際的に注目を集めたのは、その10年後に完成した聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館だった。そこではあたかも光と石がともに重力に逆らうゲームに興じているかのようだ。
ズントーはあらゆる素材でこのゲームを試した。1989年にグラウビュンデン州スルセルヴァのソグン・ベネデット礼拝堂では木を題材にした。2000年ハノーファー万博のスイスパビリオンでは板を積み重ね、空間にリズムを生んだ。
ゲームにいつも勝てるわけではない。1993年、ナチス政権による残虐行為の記念碑をめぐるベルリンのコンペを勝ち抜いたものの、完成した碑はやがて廃墟と化し、大きな論争を引き起こした。取り壊しと補償という代償を払い、2004年にようやく幕引きとなった。
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ブラザー・クラウス野外礼拝堂。2005~2007年、ドイツ・メヒャーニッヒ
Lothar M. Peter/Keystone
ブラザー・クラウス野外礼拝堂
Lothar M. Peter/Keystone
魔女狩り記念碑。2011年、ノルウェー・フィンマルク郡ヴァルド
Max Galli/laif/Keystone
1996年に開業したテルメ・ヴァルスの露天風呂
Gaetan Bally/Keystone
テルメ・ヴァルス
Keystone
S.Bendetg礼拝堂。1989年、グラウビュンデン州Sumvitg村
Arno Balzarini/Keystone
左)聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館。右)サーペンタイン・ギャラリーのパビリオン(ロンドン)
laif/Keystone
重力と遊ぶ聖コロンバ教会のファサード
Gregor Hohenberg/laif/Keystone
サーペンタイン・ギャラリーのパビリオン。2011年、ロンドン
Keystone
1997年開業のブレゲンツ美術館。オーストリア
Christian Beutler/Keystone
2000年ハノーファー万博のスイスパビリオン
Sigi Tischler/Keystone
指名発注を受けたブラザー・クラウス野外礼拝堂(独ノルトライン・ヴェストファーレン州)も小さいながら世界的に有名だ。大量の突き固めコンクリートを高く積み上げ、100本超のトウヒを焦がして作り上げた内装は、描写しがたい雰囲気を醸し出している。黒く染められた幾何学模様の内壁には、ズントー作品に共通する官能と思索の空間が広がる。
物語る模型
ズントーの建築はいずれもパトス(悲哀)を避けない。繊細な音色を響かせ、その豊かな反響まで堪能できる。知覚器官で描かれる五感のための建築だ。素材は完成した建物だけでなく、建築過程でも重要な役割を担う。ズントーの事務所が生む模型は素材で表現されており、言葉に頼らずにプロジェクト工程を物語る。
ブレゲンツァーヴァルト(オーストリア)では現在、ピーター・ズントー自身が設計した建物で同氏の建築プロセスを知る展示が開かれている
Glas Marte/Werkraum
ブレゲンツァーヴァルトでの展示会
オーストリア・アンデルスブッフのブレゲンツァーヴァルトにある作業場ではピーター・ズントーの作品を紹介する展示「手仕事で考案された空間」が開かれている(2023年9月16日まで)。ズントーとフィンランド人建築家ハンネレ・グロンルンドと共にキュレートした。
作業場は2009年、素材にかける情熱においてズントーに共感したブレゲンツァーヴァルトの職人組合の依頼を受け、ズントーが設計した組合用イベントホール。700平方メートルの展示室では、素材やそのバリエーションを駆使した官能的な建築が多数紹介されている。
ズントーの扱う素材は幅広い。木や粘土のほか、初期の重要作品であるブレゲンツ美術館(KUB、1997年)のようにコンクリートがむき出しになっているものもある。エッチングガラスを使用したKUBでは、光が内外両壁の主役を演じている。外側では刻々と変化する空と周辺の空気を捉え、内側では生コンクリート作りの展示室の天井を均一に照らすよう光を取り込む。
ズントー事務所で作られた模型は素材の持つ役割を物語る
Dominic Kummer/Werkraum
ピーター・ズントーはブレゲンツで作品を展示しただけでなく、さらに重要なことに、自身の関心と人脈の全容をも明らかにしている。ズントーは2017年、KUBの設立20周年記念式典に文学、芸術、哲学各界の世界的重鎮を招待。そこで交わされた思考を「Dear to Me外部リンク 」(独・英語版、Scheidegger & Spiess、2021年)というタイトルの本にまとめて出版した。本で再現された建築家と芸術家・知識人との対話は、これまでにない方法で芸術の精神的世界と建築の物質的世界をつなぎ、調和させている。
模型は建築過程で素材がいかに重要かを言葉に頼らず物語る
Dominic Kummer/Werkraum
妥協しない
ズントーが建築に使う材料は物理的な素材ではなく光だ。同じように、テルメ・ヴァルスと聖コロンバ教会で石のバランスをとり、ハノーファー万博のパビリオンで木の板に浮遊感を与え、バーゼルとロサンゼルスの美術館で空間の輪郭をくっきりと浮かび上がらせるのは影だ。ただ最後の2者では影の効果が実際どうなるかは、その完成を待たなければならない。
80歳の誕生日に自身の作品が最高潮を迎えることは、設計・建築に長い期間を要する建築家ならではの特権と言えるだろう。国際的な賞を総なめにしてきたズントーだが、その作品は一貫性を失わない。それは決して妥協を許さない建築矜持の賜物だ。
筆者のザビーネ・フォン・フィッシャーは建築家・建築評論家。2023年10 に、日刊紙掲載コラムの抜粋集「Architektur kann mehr. Von Gemeinschaft fördern bis Klimawandel entschleunigen(仮訳:建築の可能性―協働促進から気候変動対策まで)」がBirkhäuser Verlag出版から刊行予定。
独語からの翻訳:ムートゥ朋子
シリーズ スイスの建築家
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スイスアルプスの山奥にたたずむブラウンヴァルト村。かつてはヨーロッパ中から裕福な観光客が訪れた由緒あるリゾート地だが、近年は衰退の一途をたどるばかりだ。このグラールス州のリーゾート地を立て直そうと、スイス人建築家ピーター・ズントー氏の指揮する「音楽的な」再興プロジェクトに、大きな期待がかかっている。
ハンガリーの生んだ作曲家ベーラ・バルトークが滞在し、スイスの健康食品ビルヒャー・ミューズリ(シリアル食品の一種)の発祥地でもあるブラウンヴァルト(Braunwald)。スイス初のクラシック音楽祭が開催され、パリからは直通電車でスキー客が押し寄せる。ケーブルカーでのみアクセスできるこの小さなスキーリゾート地にとって、このような輝かしい光景は、今となっては過去の思い出になってしまった。
ここはグラウビュンデン州とチューリヒ州の間に位置する、「日の当たるテラス」と呼ばれるドイツ語圏の高原地帯。標高1300メートル前後の中級山岳地帯にある多くのスキー場と同様、ブラウンヴァルトはより安定した積雪量のあるスキー場との競争や、インフラ不足などに苦しんでいる。住民も減り続け、ここ数年では宿泊施設のベッド数も1960年の500床から2013には380床と、劇的に減少した。
平野部で天候の悪い日が長引くと、一般のガソリン車の乗り入れが禁止されているこのリゾート地にもとたんにスキー客が詰め掛けるが、地元住民の表情は沈んでいる。1軒のホテルが廃業し、別の1軒は不審火による火災の被害に遭い、ある食料品店が店をたたんだ。
「私は若いころスキーのインストラクターをしていたが、毎年冬になると大勢のスキー客が村に上って来たのを覚えている。今となっては遠い昔の話だ」と話すのは、地元の写真家フリードリン・ヴァルヒャーさん。今日、インフラ不足の問題は深刻で、ホテルの従業員でさえ村に寝泊りすることができない。ほとんどの人が平野部に住み、毎朝ケーブルカーで仕事場まで足を運ぶ。ブラウンヴァルト(Braunwald)
スイスアルプスの他の地域同様、その栄華の時は20世紀に入りサナトリウム(療養所)とケーブルカーが建設されてから始まった。
1936年スイス初のクラシック音楽祭を開催。
サナトリウムを経営していたマクシミリアン・ビルヒャーにより、健康食品ビルヒャー・ミューズリが発明されたのも当地。
村に散在する有名建築家による建築も魅力の一つ。今日でも、建築家ハンス・ロイツィンガー氏の手がけたレストラン「オルトシュトックハウス」や数々のシャレー(山小屋風別荘)を見ようと、世界中から観光客が集まる。
ブラウンヴァルトは、スイス山岳クラブの山小屋第一号、最初のスキークラブ発足、スイスで第一回目のスキーレース開催、スキー工場第一号が生まれた地でもある。
輝かしい当時の様子を残す「グランドホテル(現メルヘンホテル・ベルビュー)」は、高級ホテル業の草分けヨゼフ・ドゥラーによって建設された。フランツ・ジョゼフ[m1] ・ブッヒャーと共に、ルツェルン湖畔にビュルゲンシュトックホテルを建設したのもドゥラーだ。栄華を誇った産業
一方、平野部を流れるリント川沿いには廃工場が立ち並び、過去の栄華を物語っている。スイスの産業革命はここグラールス州の繊維工業から始まったが、20世紀の終わりに工場は次々と閉鎖される。今日スイス全土で放置されたままの旧工業用地の約半分は、グラールス州にある。未だに全ての用地が再開発されていないのだ。
今ではグラールス州に「荒れ地」というイメージが定着してしまった。廃れた景観ゆえに、遠慮なくこの地域を「荒れ地」と呼ぶ人たちもいるほどだ。
グラールス州は、これまで25に分かれていた市町村を三つの自治体に合併するという先駆的な構造改革を実施したが、それでも「アルプスの荒れ地」というイメージは強まるばかりだ。建築コンペティション情報誌『ホッホパルテール(Hochparterre)』は10月末、ブラウンヴァルトに隣接するエルム村でシンポジウムを開催した。そこでは、この地域が「こん睡状態に陥っている」と言う人さえ見られた。
「『荒れ地』などと呼ばれるのは、とても差別的だと感じる。ここにも人が住んでいるというのに!水力発電をはじめ、この地域には永続的で自然に優しい観光事業を確立する有利な条件が存在する」と話すのは、ブラウンヴァルトの属する新しい自治体「南グラールス」のトーマス・ヘフティ自治体長だ。統合後にできた南グラールスは、スイスで最も面積の広い自治体となった。ピーター・ズントー(Peter Zumthor)氏
1943年バーゼル生まれ。代表的作品は、グラウビュンデン州ヴァルスの温泉スパ施設「テルメ・ヴァルス」、ブレゲンツ美術館(オーストリア)、聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館(ドイツ、ケルン)など。
「音楽ホテル」プロジェクトでは、コンサートホールを備えた客室数70室のホテル建設や、「国際的に影響力を持つ」音楽祭の企画が予定されている。プロジェクトが行われるグラールス州ブラウンヴァルト(Braunwald)はチューリヒから電車で1時間半。
計画推進のため、2012年3月に財団「ミュージックホテル・ブラウンヴァルト」を設立。
連邦政府は2012~14年地方政策費の名目で助成金6万フラン(約680万円)を支給。州政府も向こう3年間で6万フラン、ブラウンヴァルト村も12万フランを出資。また民間からも、財団により25万フランが集められた。
財団は「ホテルの建設と維持には『高度な文化レベルをもつスポンサー』を見つけなければならない」と話している。ピーター・ズントー氏を取り巻く人たち
グラールス州はこれから観光業の立て直しを図る計画だ。その切り札の一つが、ピーター・ズントー氏。グラウビュンデン州ヴァルス(Vals)に温泉スパ施設「テルメ・ヴァルス」を設計し、この山あいの小さな村を世界的に有名にしたスイス人建築家だ。2009年に、建築界のノーべル賞にたとえられるプリツカー賞を受賞したズントー氏は、「日の当たるテラス」ブラウンヴァルトに、次なる一大プロジェクト「音楽ホテル」の建設を構想中だ。
総工費3千万~4千万フラン(約34億250万~45億3600万円)と現在推定されているプロジェクトの準備のために、財団が作られた。理事長を務め、外交官でもあるベネディクト・ヴェヒスラー氏によると、ホテルは観客300人を収容できるコンサートホール、約70室の客室、スパ施設、そして良質だが誰でも気軽に入れるレストランを備える予定だという。財団のメンバーには、スイス出版最大手リンギエー社のオーナーの1人アネット・リンギエー氏など、スイスドイツ語圏の名士が名を連ねている。
2012年3月にプロジェクトが発表されて以来、ブラウンヴァルトの住人は次の展開を心待ちにしている。「ズントー氏は、アルプスの中でもブラウンヴァルトほどの、雄大で美しい風景を見たことがないと言っていた。今までにいくつもの美しい景色を見た人が言うのだ。まだいくつかの点を確認する必要があるが、今年中には建設予定地が決定するだろう」と住民のために開かれた説明会で、ヴェヒスラー氏は語った。
一方のズントー氏は、エルム村で開かれたシンポジウムで、ブラウンヴァルトの景観への情熱と同様に、その音楽への情熱もうかがわせた。討論会ではバックにアルバン・ベルク作曲の楽曲が流れていた。「『新ウィーン楽派』(アーノルト・シェーンベルク、アルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルンの3人の作曲家による楽派)が、私の心のふるさとだからだ」とズントー氏。
二番煎じでない独自の音楽祭
建築家ズントー氏は、ありきたりの「二番煎じの音楽祭」を望んでいるのではない。作曲家ベーラ・バルトーク(1881~1945年)がスイス人指揮者パウル・ザッハーの依頼によりここで作曲活動をしたように、「創作と冒険の場」を作ろうと考えているのだ。ハンガリー出身のピアニスト、バルトークは、1938年にブラウンヴァルトに数週間滞在した。またルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキルも、ここで素晴らしい演奏をした。
前出の写真家ヴァルヒャーさんはブラウンヴァルト生まれで、この小さな村に再び文化的生活をもたらすべく文化サロンで交流をはかっている。ヴァルヒャーさんにとって、「ズントー氏は確実にこの地域を再興してくれる人。腕の良い建築家であるというだけでなく、世界的に名が知られているからだ。ブラウンヴァルトに招待されない作曲家や音楽家が、どうして自分は呼ばれないのだろう、と不安になるくらいになればいい」
ズントー氏は「孤独な灯台」を作るのではなく、それが中心となって推進力がみなぎるような文化的施設の創造を目指しているという。また、ともすると忘れられがちな「もてなしの心」の重要さを強調する。「観光業に生きる地域では、人々は自分のアイデンティティーに情緒的なつながりを持たなくてはならない。自分がどこから来て、何を受け継いでいるのかを知る必要がある」と明言する。そして施設が「おそらく木造で、堂々とした、その土地の歴史にふさわしい建築」になるだろうと話した。
ズントー氏の音楽ホテルが実現するまでには、まだいくつものプロセスを踏まなくてはならず、また投資家を募るにも各当局からの許可を待たなければならない。その間に、ブラウンヴァルトと南グラールスが早急に対処しなければならない問題もある。11月末にはいくつかの学校の存続を問う住民投票が行われた。長い間受け身だった南グラールスは、今、目を覚まそうとしているようだ。もちろん、音楽と共に。
もっと読む 衰退リゾートの救世主、ピーター・ズントー氏
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