福島第一原発事故から6年目の3月11日、スイスでは福島で昨年撮影した写真やビデオに解説をつける形のプレゼンをフォトジャーナリストのファビアン・ビアジオさんが行なった。特にビデオからは東電の広報担当者や原発事故の避難者の声が流れ、臨場感溢れるものになった。6年後の今も原発事故は収束するどころか複雑な問題がますます増えていく。そのためプレゼンのタイトルは「終わりのない事故」と付けられた。講演直後、ビアジオさんにインタビューした。
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ビアジオさんが福島第一原発事故を知ったのは、チェルノブイリ原発事故の25周年を取材するためウクライナのホテルの一室にいたときだった。
福島には11年と16年に行き、昨年2月のときは、東京電力本社や福島県庁の除染対策課を訪れ復興の状況を取材している。同時に飯舘村で、飼っていた牛を処分し居住制限区域にある家にときどき帰ってくる長谷川健一さんに話を聞いている。
プレゼンのビデオの中で、福島県の除染対策課長は、今年3月に県内の除染が一通り完了するとし、また東電も着々と工程表通りに事故の後始末を行なっていると語っている。しかし、削り取られた除去土壌は袋に入ったまま放置され、中間貯蔵施設はまだ特定されていない。
福島県内に留まった母親たちは今もこの先も子供たちの被曝量を最小限に抑えようと食べ物に気をつけ、沖縄などへ一時保養に連れ出す。避難者は、家も仕事も、家族との団欒も地域との繋がりも全て失い「マッチ箱のような」仮設住宅での生活を余儀なくされ、今は除染後の故郷への帰還の選択に頭を悩ます。
スイスインフォ: 福島を取材して一番印象に残ったことは何でしたか?
ファビアン・ビアジオ: 除染を本気でやっており、除染ができると信じ除染によって事故に終止符を打てると思っていることだった。
僕は写真家なので、除染終了後の楢葉町に「楢葉町コンパクトタウン」を建てるための開幕式で、トラクターに日本国旗が掲げられた時のシーンが目に焼き付いている。この場面は、 硫黄島の日米の死闘戦で米軍兵士が星条旗を山上に立てたローゼンタールの有名な写真「硫黄島の星条旗」を思い起こさせた。これはアメリカが日本に対して戦う決意の象徴となったが、福島の日の丸の方は、日本が放射能と戦う決意の象徴のように思えた。
日本は除染を徹底してやるだろうし、またやらなければならないだろう。
しかし、こんな国はどこにもない。ロシアは、チェルノブイリの事故後、除染は不可能と判断している。住民を3日以内に避難させ、年間1ミリシーベルトのところに移住させ帰還政策はやっていない。
スイスインフォ: 除染に関しては、福島県庁の除染対策課課長の三浦俊二さんにインタビューされています。
ビアジオ: 三浦さんは、「県内の除染をしなくてはならないが、どうやってやったらいいのかわからず、まさに手探りの状態で始めた」と言っている。世界で初めての試みなので無理はない。その後自治体と国とで除染を進め、17年3月には全て終了。「ふるさとを守るという精神で」もとの環境を取り戻し、避難した人には帰還を勧めるという。
ただ、この除染で問題なのは、一度除染しても数十年後には森から再び放射能が戻ってくるということだ。それともう一つ、除染後も故郷に帰還したくない人に対し補償が打ち切られると聞いたが、これは僕の考えでは、また人権的観点からは、「犯罪」だと思う。補償は続けられるべきだろう。
また、子どもたちが帰還させられるのも問題だと思う。帰還でなくても放射線量の比較的高い場所に住む子どもたちの健康被害には胸が痛む。そもそも国が政策として子どもたちを疎開させないのは誠実さに欠けるし、子供の人権侵害だと感じる。子どもは自分の置かれている状況を理解できないし、疎開すべきかといった判断もできない。それなのに放射能の被害を一番受けるからだ。
スイスインフォ: 東電の東京本社でも取材されました。
ビアジオ: 事故に責任を持つ東電で広報担当者の岡村祐一さんに、復興の状況を聞いたことは、とてもフェアだったと思う。
彼は、溶けた燃料をしっかりと取り出し安全に貯蔵することに向かって日々努力を重ね、50年間で元通りの環境にすると語った。僕は心からそうなることを願っている。成功して欲しいと思っている。しかし、それは簡単ではないだろう。
他方、岡村さんはスイスの原発の安全性について聞いた質問に対し、個人的見解と前置きし、「今回の事故で安全性の一つの基準だけにとらわれていては、そこで思考が停止してしまう。だから常に新しいリスク・基準を考え、それに対応する方法を生み出し人材を磨いていけば、原子力は続けられると信じている」と言っているが、これは正しくない。原発は50年前の技術だ。安全性には限界がある。
スイスインフォ: 福島に行く前から原発には反対で、スイスの原発にも反対だということですが。
ビアジオ: チェルノブイリのそばのゴーストタウン、プリピャチを取材した僕は、福島の帰還困難区域に入ったとき「ああ、ここはプリピャチと同じだ」と思った。昨年発表された「原発事故の統計的分析外部リンク」という論文によれば、福島原発事故レベルないしはそれ以上の事故は60〜150年ごとに、だがスリーマイル島原発事故レベルないしはそれ以上のものは10〜20年ごとに起こるという。2児の父である僕にとって、原発が人類にとって危険な発電だということは明らかだ。リスクは事故だけではない。テロの標的にもなり得るし、核廃棄物の問題もある。
5基の原発があるスイスでは、核廃棄物の仮置場は決まっているが最終処理施設は決まらないままだ。どこの自治体も受け入れたくないからだ。また スイスでは(最近事故の多い)訓練中の戦闘機が間違って原発に突っ込むとあまりの高速のため、ドリルのように原発の格納容器にまで入るという研究もある。
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(飯舘村で酪農を営んでいた長谷川健一さん。家は年間線量が20ミリシーベルト以上の居住制限区域にあり、昼間にときどき帰れるだけだ。映像・ Fabian Biasio外部リンク)
スイスインフォ: 酪農家の長谷川健一さんの言葉は心に響くとプレゼンでおっしゃいました。
ビアシオ: 彼の言葉は一つ一つ心から滲み出たもので胸を打つ。深く物事を考えていて、まるで哲学者のようだ。
例えば、酪農を諦めた理由をこう語っている。「農家にもプライドがあるわけですよ。 『俺が育てた牛から絞った牛乳だ。うまいぞ、飲んでみろ』ということを、胸を張って言ってきたわけです。ところがこれだけ汚染されたところで作って、胸を張って同じことは言えないですよ。これが非常に虚しい。諦める一つの材料になったのだと思います」
原発事故が起こるまで、長谷川さんには、40キロも離れた丘の後ろにある福島第一原発のことなど頭になかった。農家の人だから天候には気をつけ、リスクマネージメントには慣れている。だが、原発のリスクなど想像さえしなかった。
父親が飯館村に入植して酪農を始め、自分でも農場を拡大し息子も継いでくれる。そういうことになっていた。そして全てを失った。62歳の長谷川さんは、「この歳だし親に申し訳ないので、除染後に避難指示が解除されれば1人で家に戻ってくる。だが息子たちには戻って欲しくない」と言っている。
こうした話しなど、今回の取材では、この原発事故はあまりに甚大で被害者を含む誰もが、未だに何が起きたのかはっきりと理解できないし、これからも何が起きていくのか分からない、そんな事故だと痛感した。この意味で、一緒に取材をした記者が彼女の本の中で使った「終わりのない事故」という表現は、まさに的を射たものだと心から思った。
ファビアン・ビアジオ(Fabian Biasio)さん略歴
1975年、チューリヒで生まれる。
1999年、MAZスイスジャーナリズムスクールの報道写真学科修了。
2001年より、フリーの写真家として活躍し、ハンブルグの写真エージェントFocus、スイスではKeystoneの会員。スイス国内及び世界の各国のルポ、ポートレイトなどを得意とする。数年前から、ビデオや写真などマルチメディアを駆使した記事をスイスの主要紙NZZのデジタル版などに掲載している。なお、今回のプレゼンとは別に、福島での取材記事をウェブサイト外部リンクに発表している。
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写真とイラストで震災後の福島で「生きる姿」を伝えるスイス人
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福島で震災が起きてまもなく6年。震災後の福島の様子を伝えようとするスイス人がいる。ジュネーブに住むマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさん。津波被害のあった海岸地区に未だに残る荒廃した光景や、福島第一原発事故により避難指示のあった町村へ帰還した人々の「生きる姿」を、イラストと写真を交えた「波の後―福島周辺」と題する本に映し出して海外に伝える。
福島では政府が提案していた避難指示が次第に解除され、帰還困難区域における復興政策が推し進められる。そんな中、イラストレーターのベルトさんは福島第一原発から15キロ圏内の立ち入り禁止区域に入り、「普通なら誰も行かない場所」での光景を白黒で、質朴な線で「事態の重大さ」を表現する。そして、一緒に報道の旅をした写真家のディ・シルベストロさんは、震災の跡をたどり、写真家にとって「誇張することのない現実」をカラー写真で紹介する。2人は『波の後―福島周辺』で、廃墟と化した町並みと共に避難解除によって帰還した住民がそこで「生きる姿」を紹介する。
まず目を奪われるのは、2014年3月に南相馬市小高区で撮った津波の威力を見せつけられる写真。津波によって三角形の防波堤のコンクリートが内陸3キロメートルのところまで打ち上げられている。この地域では、「ただ冷たい突風が吹いていて、壊れた家を吹き抜ける風の音が響き、たまにカラスの鳴き声があった。それ以外には何も無かった」と振り返って話す。そして、この放射能で汚染された地域で、ボランティア活動でゴミを拾う高齢者の方々に出会った。「荒廃した土地で一生懸命に掃除をするハノイさんという80代の女性に会った。『この土地で再び耕作することができるよう、後世代のために』と言って、何千年もかかるであろう無意味とも言える努力をしていた」とディ・シルベストロさんは語る。「しかし、この女性には普遍の笑顔があり、尊厳を感じた」とベルトさんが付け加える。
さらに2人は、「たとえ健康被害への危険性が高くても、将来への希望を持って、悲劇の後に再編成しようとする人々の日常生活」を描写する。当時、小高町で唯一開いていたという店での写真は、90歳近い女性が、客のいない店を清掃している。「店を閉じていてもしょうがないでしょ。生活が人生をもたらすのよ」と語ったのが印象的だったともディ・シルベストロさんは話す。
陸前高田でのイラストは、父親が赤ちゃんを抱きかかえ、母親が子供の手を引いて道路を渡ろうとする家族で、一見すると普通の日常の風景。だが、ベルトさんによると、背景にある海辺のカフェは震災の津波で完全に損壊したが、再び同じ場所に同じように再建されたもので、若い家族のシーンからは「生を感じて」描いたのだという。「イラストなので、角度を変えて時間をかけて何枚も撮る写真とは違って、さっとその場で感じたものを瞬時に描くことができた」
この報道をするため、何日間も「低放射能といわれる時期」を避難地区で過ごしたという2人。「危険でないとは言えない思う」と明かす。「低放射能を浴びるということで、今は健康被害がないかもしれない。でも、次世代への影響は分からない。分からないからこそ、危険だと思っている」と言う。
「この本は、人類がこれから先に抱えていく『課題の始まりの一つ』をちょっと報告するだけーー」
1969年にはスイスでもヴォー州リュサンの原子炉研究所で放射物質漏れが起きたことを忘れないで欲しい、と写真家は願いを込める。
『波の後―福島周辺』(Notari社出版)
ジュネーブ在住のマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさんが、震災後のフクシマの様子を白黒のイラストとカラー写真で伝える。ディ・シルベストロさんは、2013年3月から定期的に被災地を訪れているが、撮影は2014年3月にベルトさんと一緒に報道の旅をした時のもの。この本は、3月1日よりスイス仏語圏の書店で販売されているが、4月29、30日にジュネーブで開催されるブックフェアで紹介される。来月からはフランスを始め、カナダやベルギーの書店でも販売される予定。*3月11日には「波の後―福島周辺」に掲載されている写真とイラストの一部をギャラリーで、10カ国語にてご紹介します。
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