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口唇口蓋裂の医療アクセス、人工知能で容易に

口唇口蓋裂の患者を診察するスイスNGOの医師と外科医
口唇口蓋裂の患者を診察するスイスNGOの医師と外科医ら。キルギスにて Thomas Kern

口唇裂(こうしんれつ)や口蓋裂(こうがいれつ)、口唇口蓋裂を持つ子供の誕生は周囲に大きな動揺を与えることがある。特にその高額な治療費を払えない親にとっては大変な打撃だ。この度、バーゼル大学病院と連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)の研究者が人工知能(AI)技術を駆使したリスクのない低コストの新治療方法を開発した。貧困国の人々にも手が届く安価な治療が可能になるかもしれない。

バーゼル大学病院口唇裂・口蓋裂治療センターのアンドレアス・ミュラー所長は、口唇口蓋裂を持つ新生児の写真をスマートフォンで受信すると、それを特殊なソフトウェアで処理して口蓋のデジタルモデルを自動生成し、写真の送り主のインドの医師に送信した。このデジタルモデルをインドの3次元(3D)プリンターで出力すれば、術前矯正治療に使う口蓋プレート(口蓋床)が出来上がる。

このデジタルプロセス技術は、ミュラー氏がETHZコンピューターサイエンス学部の研究者と共同で開発した。口蓋プレートを使えば高額な手術を何度も繰り返す必要がない。だが通常のワークフローではプレートの作製に数週間かかる。そこで同技術を使えば、数回のボタン操作だけで、顔に先天異常のある新生児患者にフィットした個別の口蓋プレートを素早く作製できる。現在、インドとポーランド、スイスの病院で臨床実験が進められており、特に低所得国における治療の現状を改善できる可能性がある。

口唇裂や口蓋裂、あるいはこの2つが合併した口唇口蓋裂は、意外にも比較的よく見られる病気だ。87カ国で矯正手術を行う非営利団体「スマイル・トレイン外部リンク」によれば、この病気の出生頻度(ひんど)は世界中で700人に1人。先天性欠損症の中で最も高く、一番多いのは上唇が正しく形成されず割れ目が生じる口唇裂だ。口蓋裂は、胎児の発育過程で口蓋(口の中の天井部分)がうまく癒合されないために起こる。

口唇口蓋裂は見た目だけの問題ではない。無治療の場合、呼吸や吸引、嚥下(えんげ)、歯や発音の問題など、生涯様々な困難が付きまとう。小児科系の学術専門誌「JAMA Pediatrics」に発表された研究論文外部リンクによると、口蓋裂の患者には学習障害や不安障害、自閉症スペクトラム障害が高頻度で起こり、更には死亡リスクまで高くなる。

こうした困難は修復手術で間違いなく大幅に軽減される。修復手術の技術は20世紀半ばに格段に進歩したが、この先天異常を持つ子供は現在でもなお、乳幼児期から成人初期にかけて2〜4回もの外科手術を受けなければならない。

高コストな従来法

修復手術にかかる費用は、割れ目のタイプや必要な治療の種類によって異なる。ミュラー氏によると、スイスや米国では手術1回につき5千〜1万ドル(約67万〜134万円)、同様の手術がインドでは2300〜3500ドルかかる。インドの費用は富裕国と比べると安く感じるかもしれないが、低・中所得国の多くの家族にとってはかなり高額だ。口唇裂・口蓋裂はどの民族にも発生するが、頻度は異なる。米ネーションワイド・チルドレンズ・ホスピタル外部リンク(Nationwide Children’s Hospital)によると、アジア系の出生頻度が500人に1人と最も高く、アメリカ先住民とヒスパニック系がこれに続く。

口唇口蓋裂の外科手術を1回で済ませる方法を好む医師もいるが、それは学際的なチームの協力があって初めて実現できる。まず小児歯科医と外科医、麻酔医が協力して生後間もない赤ちゃんの口蓋の印象(口蓋型)を取り、それに石膏(せっこう)を流し固めて口蓋模型を作る。この模型を使って、熟練の歯科技工士がそれぞれの患者に合うプラスチックの口蓋プレートを作製する。次に矯正歯科医がそのプレートを赤ちゃんの口蓋にはめ込み、数カ月間かけて調整を繰り返す。口蓋裂の場合、上あごが鼻まで割れているが、このプレートによって口蓋が閉じられ、液体も飲み込みやすくなる。6〜8カ月経つと割れ目が小さくなり、舌の位置も矯正される。この状態になれば、1回の外科手術で修復が可能だ。

ミュラー氏は「だがこの作業ができるのは一部の限られたチームだけだ」とし、「医療資源や教育が不足し、医療従事者も少ない国では、多くの家族がこのような『贅沢』には手が届かない。そういった現実を考えると、医療者としてもどかしさを感じる」と語る。しかもこの手術にはリスクがないわけではない。新生児の呼吸器は十分に発達していないため、非常に稀ではあるが、シリコン材料で印象を取る際に気道を塞ぎ、窒息死させてしまう危険性がある。

写真から3Dプリンターへ

2020年にミュラー氏はETHZのチームと共同研究を開始した。目的は、口唇口蓋裂の修復手術をより簡単かつ安全に行えるようにすること、リスクなどをあらかじめ予測できるようにすること、患者や家族の負担を最小限に抑えることだ。だがそれを実現するための資金をどうやって調達するかは常に悩みの種だ。同氏は「口唇裂・口蓋裂の先天性異常の臨床研究者が大型研究資金を得られるのは比較的稀だ」と言う。

幸いミュラー氏のチームは2020年初めに、バーゼルにあるボトナー小児保健研究センター(バーゼル大学とETHZがボトナー財団の資金援助を受けて2018年に設立した新しい研究センター)から研究助成を得られた。助成対象となった研究課題は、口蓋裂を空間的に測定するデジタルプロセスの開発と口蓋プレート作製工程の簡略化だ。

先進国の病院では多くの場合、次のいずれかの方法で口蓋プレート型を作る。1つはシリコン材料で患者の口蓋の印象を取り石膏型を作製する方法。もう1つは口腔内スキャナーを使って口蓋のデジタル印象を取る方法だ。だが同チームのETHZグループは、よりコスト効率が良く、より迅速なプロセスを開発した。ETHZグループのバーバラ・ゾーレンターラー上級研究員は、将来は、スマートフォン、3Dプリンター、AIソフトウェアの3つさえあれば、医師がどこにいても、患者に合わせた口蓋プレートを作製できるようになるだろうと話す。同氏はデジタルヒューマン(人間の動きを模倣しコンピューター上で再現する技術)のシミュレーションや画像データからの3Dモデル化などを専門とする。

ゾーレンターラー氏らは、2D画像と石膏型・口蓋プレートの関係を機械学習させ、それを搭載したAIソフトウェアを開発した。2D画像・動画データを入力すれば実際の3D構造物を再構成できる。使用手順は簡単だ。まず患者の口蓋裂の写真または約30秒の動画を撮る。この2D画像・動画データを同ソフトウェアで処理すると、口蓋の3Dデジタルモデルが自動生成される。デジタルモデルを3Dプリンターで出力すれば口蓋プレートが完成する。口蓋の印象を取るために麻酔をしたりX線撮影をしたりする必要がないため、患者への負担も最小限で済む。

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低所得地域の医師や子供の負担を軽減

地理的な制約がない点もこのデジタルワークフローの強みだ。今夏に開始した臨床実験には、インドのベンガルールにあるバガヴァンマハバージャイン病院など6つの病院(インド3病院、ポーランド1病院、スイス2病院)の医師が参加している。バーゼルやチューリヒの研究室では、参加者から届く画像や動画から口蓋プレートの3Dデジタルモデルを作成して返信する。それを参加者の各病院で3D出力する。

さらに、このデジタルワークフローでは作業時間が短縮されるため、長期的に見れば理論的にコストを抑えられる。例えば、3Dプリンティング技術によって工程が自動化され、仕様通りに出力されるようになるため、医師が自ら装置を作るのに要する時間が節約できる。そう説明するのは、米国の顔の再建手術における3Dプリンティング技術の主要ユーザーである米シンシナティ大学医学部のイェン・シェイ助教と米ロサンゼルス小児病院のマリー・ロッツ・ティンバン医師だ。両氏は昨年、口唇裂・口蓋裂の治療などの顔の再建手術における3Dプリンティング利用の現状を体系的にまとめた総説論文外部リンクを発表した。

ミュラー氏らは今年8月に発表した論文の中で、このデジタルワークフローによって医療機関の手作業や人的介入の時間が2時間15分から1時間に短縮される可能性があると報告している。シェイ氏とティンバン氏は「ただし、その時間短縮が可能になるのは、導入時の医師の研修と3Dプリンター設置コストの関門を乗り越えてからだ」と指摘する。

低所得国の中には、政府の政策による制約がかかり、こうした装置を患者に使うことが難しいところもあるとシェイ氏とティンバン氏は話す。同技術を利用する医療機関の間で標準的な一定レベルの治療をどうやって維持するかという管理に関する課題もある。ティンバン氏は「(管理対象は)プリンターや材料、アルゴリズム、技術的な工程など、多岐にわたる。従来教育では臨床医はこの種の技術教育を受けていないため、導入は簡単ではない」と説明する。だがそれでも、3Dプリンティング技術には低所得国の医療アクセス問題を改善する大きな可能性があると同氏らは考えている。

この臨床実験は2024年まで実施する予定だ。実験期間中、ゾーレンターラー氏のグループでは、より多くの石膏型や口蓋プレートのデータを機械学習に取り込み、ソフトウェアの改良を重ねていく。

ミュラー氏はプロジェクトに成果が出始めたことを嬉しく思っている。「インドの病院の参加者から、以前よりも手術がずっと簡単になったと言われ、とても勇気づけられた」と手応えを語る。「低所得国では、経済的・医療資源の制約のせいで口唇裂・口蓋裂の専門的治療を受けられない子供が多い。この新しい治療方法が、特にこうした人たちに役立つことを期待している」

編集:Sabrina Weiss、英語からの翻訳:佐藤寛子

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