大きく揺れ動くスイスの銀行員
自分の名前が米司法当局に知らされ、大きな不安を抱えながら過ごしている銀行員は何千人にも上る。解雇されるかもしれないという不安から、名前の引き渡しに抵抗した人はごくわずかだ。
「スイスの銀行員はもうアメリカに入国することができないなどと報じる新聞もあるが、そんなことはもちろんない。アメリカがスイスの銀行員を全員逮捕して、刑務所に押し込もうとしているわけでは全くない」。このように述べるのは、スイスの銀行雇用主連盟(AGV)のバルツ・シュトュッケルベルガー事務局長だ。
「しかし、米司法当局から責任を問われる人が出てくる可能性はある」。確かにスイスの銀行員からは大きな動揺が感じられる。これを無視するわけにはいかないとシュトュッケルベルガー氏は言う。
このような状況は2年前から続いている。当時、何千人もの米人顧客の脱税をほう助し、結果的に米国の法律を犯した疑いがかかっていたスイスの銀行12行を、米司法省が訴えると発表した。米司法当局は口座の動きや商取引に関する情報の引き渡しを求めたが、その中には米人顧客にアドバイスをした銀行員の名前も含まれていた。
情報保護担当官の警告
この協力を拒めば、事実上、銀行は業務を行えなくなる。そのため、2012年4月、スイス政府はスイスの銀行に対し、米司法省に協力して「自己の利益を守るために必要な情報をすべて引き渡す」権限を認めた。
ローザンヌの行政大学研究所(IDHEAP)の講師で弁護士でもあるピエール・ルイ・マンフリーニ氏は次のように話す。「たとえアメリカに支店がなくても、銀行には必ずドル建ての取引がある。また国際市場でのビジネスには、ロンドンかニューヨークのクリアリングアカウントが必要だ。アメリカのブラックリストに載ってしまったら、その際の取り引きをドル建てで行えなくなる。そうなったら銀行はもう閉鎖するしかない」
昨年だけでも、スイスの銀行の元銀行員や現職の銀行員1万人の名前が米司法当局の手に渡ったといわれている。その多くは事前に何も連絡を受けておらず、法的手段を使った抵抗もままならなかった。スイス政府の情報保護担当官はそのため銀行に対し、情報引き渡しの際には情報保護法の決まりを順守するよう警告している。
2011年、米司法当局がスイスの銀行12行に対し捜査を開始したと発表。多数の米人顧客の脱税をほう助し、それによって米国の法律を犯したという疑い。
米司法省は、これらの銀行が米人顧客を相手に行った取引に関するすべての情報を要求。その中には米国関連のビジネス情報やそれに関与した銀行員の名前も含まれている。
2012年、スイス政府は各銀行に対し、米司法当局への協力および従業員の氏名や情報の引き渡しを認めた。関係銀行は要求された何千件もの情報を引き渡したが、事前に関係者に連絡しなかったケースがほとんどだった。
2013年、米司法省がさらに多くの情報を要求したため、スイス政府は米国への情報引き渡しを独自の法律で定めるよう提案(USA法)。
同年6月、議会はスイスの主権と折り合わないという理由でこの提案を否決。
7月3日、エヴェリン・ヴィトマー・シュルンプフ財務相が「プランB」を発表。それによると、銀行は政府の委任を得れば情報を引き渡すことができる。この案ではスイス刑法第271条(外国で禁止されている行為)を侵すこともない。
銀行員の保護を強化
雇用主連盟およびスイス銀行家協会(SwissBanking)との長い交渉の後、スイス銀行従業員協会(SBPV/ASEB)は5月末、米国への情報引き渡し後に問題が発生した場合に銀行員を保護するための同意に至った。
この同意を元に、雇用主は従業員の個人情報を引き渡す場合には、早めにその書類について本人に連絡する義務を負うことになった。また、米司法がそれらの従業員を相手に裁判を起こすことになった場合には、金銭的援助と法律上の保護の他、差別や解雇に対する保護も保証される。
スイス銀行従業員協会のデニス・シェルヴェ事務局長は次のように語る。「雇用主は情報保護や従業員の個人情報に関する決まりを守らなければならなくなった。今の問題は、解雇されるかもしれないという不安から従業員が異議を申し立てないことだ」。個人情報の引き渡しに対する異議申し立ては、これまで20件ほどしか出ていない。そのほとんどは元銀行員か、定年退職した銀行員によるものだ。
米国旅行のリスク
しかしこの協定では、米国内での刑事訴追に関する保護は全く与えていない。スイス政府はその努力も及ばず、世界共通の租税条約を米国と結ぶに至らなかった。この条約締結が実っていれば、このような問題も解決できたはずだった。米当局側は、独自の捜査で過去の洗い直しを図る意向だ。
雇用主連盟(AGV)およびスイス銀行家協会(SwissBanking)との長い交渉の後、スイス銀行従業員協会(SBPV/ASEB)は5月29日、米国に従業員の情報を引き渡した後に問題が発生した場合、従業員により良い保護を保証するための合意に至った。
政府はこの合意を銀行員の名前や情報が米国に引き渡される場合の基準と見なしている。米国に協力しない銀行は「従業員を最大限保護しなければならない」
特に従業員には早めに連絡し、法律上の保護、解雇に対する保護を保証しなければならない。
「アメリカの最大の関心は個人には向いていない。スイスの銀行と米人顧客間のビジネス情報が欲しいのだ。引き渡された情報はほとんどそのために使われている。それでも今の問題はとても深刻だ。銀行員にはまだリスクが残っている」とシュトュッケルベルガー氏は言う。
弁護士のマンフリーニ氏も同様の見方だ。「米当局に渡された名前の中には、上司に頼まれてEメールを送った秘書のものもある。米当局がこのような人物に関心を持つとは思えないが、アメリカを旅行中に何か問題が発生しないとも限らない。個人的には、このようなリストに名前を載せられた人は全員、国外には出ないほうがよいと思う」と助言する。
法的基礎の不足
スイス連邦議会がいわゆる「USA法(Lex USA)」を否決したため、銀行員の居心地の悪い状況は一向に改善されないままだ。スイス政府としてはこの法案を通過させ、情報引き渡しに関する大枠の法的条件を定めて米国との税金問題の終息を図りたいところだった。
7月初旬、エヴェリン・ヴィトマー・シュルンプフ財務相は「プランB」を発表した。この案では、特別な法律がなくても情報の引き渡しが可能になる。つまり、法律ではなく政令を制定するのだ。引き渡しの際には、各銀行が政府に全権委任を要求する。
だが、マンフリーニ氏はこのようなやり方には反対だ。「政府は米国への情報引き渡しをある法的基礎に基づいて行うために連邦議会に法案を提出した。議会はこれを蹴ったのに、それでも政府はこの引き渡しを認可しようとしている。これは甚大な法的問題をはらんでいると思う」
シェルヴェ事務局長も同意見だ。「連邦議会が『USA法』を否決した後の状況は前と少しも変わっていない。解雇されるのではと銀行員がおびえ続けるだけでなく、スイスの金融業界もまた危機的状況にある。スイスの金融業界には今、安心できる確実さが必要だ。これまでは常に強みだったこの安全性を取り戻すためにも、アメリカとの問題をできるだけ早く解決しなければならない」。しかし、現在はまだ、このプランBに対する米国の反応を待つしかない。
(独語からの翻訳 小山千早)
JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。