Emilien Itim
冷戦以来、スイスは核シェルターの建設と設置において世界で確固たる名声を築いてきた。だが国内では老朽化や未使用状態に悩むシェルターも多く、新しいシェルターの在り方が課題となっている。
このコンテンツが公開されたのは、
2023/08/06 08:30
ご存知だろうか?今日の世界で、住民1人1人が地下に避難所をもつ権利を有すると定められている国はスイスだけだ。1962年に定められたこの政策により、1人当たり1平方メートルの空間が保証されている。広島と長崎への原爆投下による不安と、特に冷戦の恐怖から要望が高まり、全ての新築住居への国民保護シェルターの設置が義務化。旗振り役として連邦国防省国民保護局が1963年に設立された。
そして今、ウクライナ戦争をきっかけに、スイスの核シェルターが再び注目されている。そしてこの分野でスイスは世界的に高い評価を得ている。一部の独裁者が、シェルターの建設や設置をスイスの企業に依頼したほどだ。「2010年のリビアの民衆蜂起の際、アル・バイダのカダフィ大佐の邸宅の一つに突入するデモ隊を追っていたアルジャジーラの映像には、スイスの会社の換気装置を装備したシェルターが映っていた」――今春ローザンヌで開催された展覧会「Aux abris外部リンク (避難せよ)」の3人のキュレーターの1人、イスカンデル・ゲタさんは話す。
このエピソードは「核時代のシェルターの世界的専門家としてのスイスの地位の上昇」という論文に記載されていたものだ。著者であるベルン大学のシルヴィア・ベルガー・ジアウディン現代史教授は報道記事に基づき、サダム・フセインが権力の座に就いた1980年代から、スイス企業がイラクでも活動していたと報告している。
世界的な成功
ベルン大学のシルヴィア・ベルガー・ジアウディン現代史教授
DR
これらスイス企業は、時に地下病院や数万人を収容するシェルターといった軍事インフラも手がけた。「カダフィやフセインのような専制君主はシェルター建設をスイスの企業だけでなく、他国の企業にも依頼していた。例えば、フィンランドやドイツの企業もこの地域で盛んに活動していた」と、冷戦期のスイスと国民保護シェルターについて研究するジアウディン教授は強調する。
しかし、小国スイスが冷戦と核の危機への恐怖をテコに、次第にシェルターの設計と技術の「世界基準」になっていったことは確かだ。「建設ガイドラインと(特に米国との)技術移転によって、スイス製シェルターは世界的な成功を収め始めた」とジアウディン教授は言う。
スイス企業が世界中に輸出したノウハウは大きな利益をもたらしたと教授は話す。「今日でも、民間・公共を問わず、シェルターの設計仕様ではスイスのものが世界基準となっていて、スイス製はこの分野の技術と付属品の市場で圧倒的な強さを誇っている」
120億フラン以上の支出
スイスは1962年から今日までに、シェルター建設に120億フラン近くを投じてきた。その大半はアパートや戸建家屋の地下にある私用シェルターだ。これらの設置の責任は州や自治体にある。しかし、州によって方針は驚くほど異なる。「例えばフリブール州には100%公共シェルターしかない。一方、アッペンツェル・インナーローデン準州では正反対で、住居ごとに個別のシェルターがある」と、イスカンデル・ゲタさんは話す。
元ローザンヌ駅郵便局のシェルター内部
Emilien Itim
国民保護局によると、スイスには22年末の時点で37万カ所近くのシェルター(うち9千カ所が公共)に約930万人分の避難場所があるという。国民870万人に対するカバー率は107%だ。しかし、ヴォー州のようにカバー率が100%に満たない州も5州あり、ばらつきがある。
国民保護局は今年5月、収容人数7人以下の小規模シェルターを段階的に廃止し、より広く、公共のシェルターに重点を移す方針を発表した。理由の一つとして挙げたのは、設置から40年以上が経過し、製造中止になった換気装置の老朽化だ。国民保護局のアンドレアス・ブヒャー氏によると、削減対象のシェルターは10万カ所、収容人数70万人相当だという。
元ローザンヌ駅郵便局のシェルター内の廊下
Emilien Itim
しかし、小規模シェルターの新しい使いみちについては、それほど心配する必要はない。これまでも、物置や日曜大工の作業場所、ワインセラー、時にはリビングルームなど、緊急避難とは別の用途に使われてきたからだ。しかし、300〜5000人、時にはそれ以上を収容できる公共シェルターの転用方法には疑問がある。これらは「非常に広いが、多くの場合使われていない。例えば、ローザンヌのボーリュ地区の国民保護シェルターは収容人数3048人とこの地域で最大だが、完全に空の状態だ。ここにはどんな可能性が秘められているだろうか?」と、ゲタさんは問う。
移民受け入れの問題
ローザンヌの展覧会の会場は偶然選ばれたのではない。ローザンヌ駅郵便局のシェルターは1960年代に建設されて以来、時が止まったかのようだ。「この時代の古い新聞や技術検査のメモが見つかった」と、デザインを学んだゲタさんは強調する。現実味を出すため、キュレーターたちはヴォー州の別のシェルターから非常食の巨大な缶詰を持ってきた。「中身はわからない。賞味期限も書かれていない…」。
しかし、シェルターが可能性を秘めていることは事実だ。ずっと前からそれを理解していた自治体では、村の同好会や団体がクロークや稽古場として使用できるようにしている。文化財の保管場所になっていることもある。より風変わりな用途としては、教会が入っているシェルターがチューリヒにある。
2023年春にローザンヌで開催された「Aux abris」展のキュレーターの1人、イスカンデル・ゲタさん
DR
「ティチーノ州では、クライミングルームに変身したシェルターもある。ロカルノでは、映画祭の映画の保管場所に使われている。他にも、ミニゴルフや射撃練習場、社交スペースといった用途もある。よくあるのは、シェルターが録音室として使われるケースだ。音響がとても良い」とゲタさんは解説する。
「Aux abris」展のキュレーターたちが問題視するのは、シェルターを移民の住居として使うことだ。「私たちは、シェルターを公共の空間にするよう提案している。しかし、移民を収容するためにではない。地下に押し込められ、無視されることにショックを受けたと話してくれた人もいた。シェルターのような暗い空間は、移民たちがそれまでに辿ってきた暴力的な旅路をさらに辛いものにしてしまう」とゲタさんは批判した。
編集 : David Eugster、仏語からの翻訳 : 西田英恵
続きを読む
次
前
おすすめの記事
日本でスイス式の核シェルター
このコンテンツが公開されたのは、
2017/08/29
スイスは世界でも有数の核シェルター先進国だ。「全国民に核シェルターを」という国の方針の下、住宅にはたいてい地下シェルターが完備されている。 (英語からの翻訳・宇田薫)
もっと読む 日本でスイス式の核シェルター
おすすめの記事
「スイス民間防衛」日本で売れ続ける理由
このコンテンツが公開されたのは、
2019/10/22
冷戦期、スイス連邦政府は有事の際の備えを説いたハンドブック「民間防衛」を各家庭に配った。今や存在すら忘れられたこの冊子が、意外な場所で売れ続けている。それは日本だ。
もっと読む 「スイス民間防衛」日本で売れ続ける理由
おすすめの記事
核シェルターで2日間、隣人27人と吠える犬と
このコンテンツが公開されたのは、
2020/02/20
ミューレベルク原発で廃炉作業が始まった。スイス初の試みでもあり、核燃料が中間貯蔵施設に移される間に放射能漏れが全く起きないとは言い切れない。スイスで放射性物質が流出したことはないが、もし流出したとしたら――?
もっと読む 核シェルターで2日間、隣人27人と吠える犬と
おすすめの記事
スイスの対核防衛力は?
このコンテンツが公開されたのは、
2022/03/01
ロシアが核兵器の使用をちらつかせて脅しをかけている。核兵器がウクライナで使用されると、周辺国にはどのような影響をもたらすか?スイスにはどれほど備えがあるのか?
もっと読む スイスの対核防衛力は?
おすすめの記事
スイスの「安全」の姿
このコンテンツが公開されたのは、
2019/03/23
テロリズム、サイバー攻撃、気候変動、移民―。現実でも仮想でも、世界はあらゆる危険と隣り合わせだ。最も安全な国の一つであるスイスは、危険の多様性に合わせて、さまざまな防護手段を備えている。
もっと読む スイスの「安全」の姿
おすすめの記事
軍隊レベルのセキュリティー スイス核シェルターを仮想通貨の金庫に
このコンテンツが公開されたのは、
2018/07/28
世界で一番安全な仮想通貨の保管場所がどこかご存知だろうか?スイスアルプスに作られた核シェルターに、投資家や企業、金融機関向けに仮想通貨の金庫が開設された。軍隊レベルの安全性を誇る。
もっと読む 軍隊レベルのセキュリティー スイス核シェルターを仮想通貨の金庫に
おすすめの記事
「コンクリートの天井に守られたい」 地下へと向かうスイス人
このコンテンツが公開されたのは、
2017/08/28
スイスで4月に出版された「Die Schweiz unter Tag(地下のスイス)」は、岩壁の中の政府官邸ができるまでの歴史を写真とともに紹介した本だ。著者でスイス人歴史家のヨスト・アウフデアマウアー氏は、本書の執筆にあたり行った地下を巡る旅がスイスについて新たな視点をもたらしたと話す。
もっと読む 「コンクリートの天井に守られたい」 地下へと向かうスイス人
おすすめの記事
富裕都市ジュネーブ、ホームレスに核シェルターを開放
このコンテンツが公開されたのは、
2018/03/02
富裕層が多いことで知られるスイス・ジュネーブ。だがその一方で、軒下や玄関先には零下でも野宿生活をする人々もいる。この冬、市民用の核シェルターとして作られた地下室2カ所が、ホームレス用の避難場所として開放された。
もっと読む 富裕都市ジュネーブ、ホームレスに核シェルターを開放
おすすめの記事
戦争遺跡の核シェルター、閣僚には個室も
このコンテンツが公開されたのは、
2017/05/09
スイスの地下には驚くような世界がある。敵襲から身を守るために作られた核シェルターが国のあちこちに広がっているからだ。通行可能な空間を一列に並べると全長約3780キロメートルのトンネルになる。これはチューリヒからイラン・テヘランに至る距離で、国の領域に対する比率でみれば世界に類を見ない数字だ。ジャーナリストのヨスト・アウフデアマウアー氏が4月末、国内にある地下施設の記録をまとめた著書「Die Schweiz unter Tag(地下のスイス)」を出版した。その中には、連邦政府閣僚用の個室が備わった豪華な施設も紹介されている。
同書に掲載された12件のルポルタージュには、資産の保管部屋や水力発電所、ハイテクな実験室、病院、トンネル、秘密の洞窟に加え、閣僚のために作られた「トップシークレット」の地下施設など、興味深い内容が収められている。さらに面白いのは、地下施設の建設から垣間見えるスイスの特異な世界観があぶり出されている点だ。
国内最大の地下施設
スイスの地下世界は素晴らしく、また風変りでもある。同書によれば、国内には個人用の核シェルターが36万戸、大規模なものは2300戸あり、非常事態には全住民を収容してもまだ余裕がある。都市全体が地下にそっくりそのまま避難できるというわけだ。これらの大規模な防護施設は今も残り、中に入ることもできる。
多くの観光客が訪れる古都ルツェルンの地下には、世界最大級の住民用避難施設ゾネンベルグがある。1976年に稼働したこの施設は、第三次世界大戦に備えて6年かけて建設された。収容可能人数は2万人。アウフデアマウアー氏は「この核シェルターを爆破したら、ルツェルンの半分が吹っ飛ぶ」と熱弁をふるう。同氏はまた「スイスは地下に向かって開拓している」と説明する。
スイスは世界を信用していないのか
アウフデアマウアー氏は、この国の隠れた特異性をあぶりだす優れた観察者であり、またその特異性に一定の尊敬を抱いている。スイスの世界観や国民意識は巨大な地下建築と密接に関係し、同書ではこうしたスイスの精神をつまびらかにしている。スイスの地下世界は「地上の世界」に対する同国の心理的反応ともとれるというわけだ。
アウフデアマウアー氏は同書で、文字通り地下深くに目を向けるだけでなく、地下施設と密接に絡み合った国の精神の歴史を深く掘り下げた。スイスはこれほど未来を信用しないのか。大規模な地下施設を目にすればそんな疑問が浮かんでくる。同氏は著書の中で「たとえそうであっても、私はずっと、この地下世界に足を踏み入れたかった。これこそ典型的なスイスの姿であり、隠れた特異性だからだ」と語る。
岩の中の政府官邸
同書では1章を割いて、ウーリ州の小さな村アムシュテーグに建設された、閣僚用の核シェルターを紹介している。
岩盤をくりぬいて作られた設備は驚くようなものだ。もともと第二次世界大戦中、閣僚が「石造りの中枢」に避難できるようにと建設された。同書では「広さは3千平方メートルで、2階建て構造に居住区とオフィススペースがあり、山中に政府官邸も備えられている」と紹介されている。必要な機能と快適さを完備したこの核シェルターでは、寝室を3つのランクに分けている。個室は閣僚用、2人部屋は政府職員、大部屋はその他のスタッフ用、という風にだ。
この地下施設は2002年に「ただ同然で」売却された。同書によると、新しい所有者は核シェルターを金庫に変え、海外の顧客向けに「金、銀、プラチナ、レアアース、現金、芸術作品、ダイヤモンドや貴金属」を保管。「厄介な財政当局の査察が入る心配がない」のを売り文句にしているのだという。
死者1万人
アウフデアマウアー氏は歴史的な批評に加え、スイスの特異性を細部まで見つめる目を持つ優れた語り手であるだけでなく、ジャーナリストでもある。同氏は「バンカー建設に当たり、1万人が死亡したのは間違いない。少なくとも5万人が生命を脅かされた」と指摘し、「戦時中のような(死者の)数だ。私たちのためにこの『戦い』に生死をかけたのは外国人であり、ここを追悼と感謝の地としてもよいくらいだ」と語る。
(ヨスト・アウフデアマウアー著「Die Schweiz unter Tag(地下のスイス)」、図解付き全144ページ、発行元Echtzeit-Verlag)
もっと読む 戦争遺跡の核シェルター、閣僚には個室も
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。