今年末の任期終了を前にスイスを訪問中の潘基文(パンギムン)国連事務総長は3日朝、ジュネーブの国連欧州本部内の公園に被爆樹木2世のイチョウの苗木を植樹し、核兵器のない世界平和への思いを新たにした。被爆樹木がスイスに植樹されるのはこれで3本目。そのうちの1本は広島と深いつながりのある、国連前の赤十字国際委員会(ICRC)の庭にある。
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潘基文氏は植樹式でのスピーチで、「2010年に国連事務総長としてはじめて広島で被爆者の方々と会い、つらい体験を核兵器廃絶と世界平和への願いへと変えながら生きておられる、その勇気と力で皆さんの顔は輝いていた」と当時の思い出を語り、このイチョウの苗木も同じ世界平和への願いを象徴するものだと力を込めた。
植樹されたイチョウの親木は、広島の爆心地から約1キロメートルにある縮景園内の樹齢400年の木で、原爆を生き残ったもの。今回、苗木は被爆樹木の種や苗を世界に送り届けている任意団体「グリーン・レガシー・ヒロシマ(GLH)外部リンク」に協力する平和市長会議から贈られている。
GLHに所属し、広島で被爆樹木を見守っている「樹医」の堀口力さんも植樹式に列席。「世界の平和活動にたずさわる国連の庭に、平和を象徴する被爆樹木が植えられることに感動している」と感慨深げに話した。
広島には現在170本の被爆樹木があり、堀口さんは1人でそれらの健康管理を30年前から行っている。「被爆樹木は広島の宝。誰かが守っていかないといけない」
グリーン・レガシー・ヒロシマとスイス
GLHは、爆心地から約2キロ以内で被爆しながらも生き延びた広島の被爆樹木の種や苗を贈ることで、世界の人と共に被爆樹木を守り、その存在と平和のメッセージを世界に広く知ってもらうことを目的としている。
この努力の結果、今やアルゼンチン、ロシア、スウェーデン、リトアニア、イタリアなど世界31カ国で被爆樹木が育っているという。
スイスには、これまでにGLHから贈られた被爆樹木が2本ある。1本は、2013年8月6日の原爆記念日にジュネーブの赤十字国際委員会(ICRC)の庭に植えられた。ICRCは人道支援の国際機関。原爆投下直後に15トンの医薬品を届け、自らも広島で医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」」であり、「ヒロシマの恩人」とも呼ばれるジュノー博士を派遣している。
2本目は、ヴォー州のサン・シュルピスの小学校にあり、今回の植樹でスイスには計3本の被爆樹木が誕生することになった。GLHは今日の植樹に対し、「被爆樹木が、第2次世界大戦と深い関係があり、核軍縮会議も行われる国連欧州本部の庭に植えられることは、歴史的に重要な意味がある」とスイスインフォに答えた。
ところで、このイチョウの苗木がメスかオスかは、遺伝子レベルでの判定がまだされていないため分からない、と堀口さんは言う。しかし、もし国連の向かいにあるICRCのイチョウがオスで、今回のイチョウがメスであれば、やがて実がなりスイス・ジュネーブの国連で被爆樹木3世が誕生するかもしれない。
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何千人もの被爆者が今も治療中、スイスの赤十字国際委員会が報告
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原爆投下から70年。この節目の年に、スイスの赤十字国際委員会は、長崎の赤十字原爆病院関係者や被爆者にインタビューし、4本のビデオを制作した。この中で描かれているのは、長崎と広島の赤十字原爆病院が、今でも年間何千人もの被爆者の治療に当たっていること。がんやその他の疾患と被爆との因果関係がはっきりしてきたことだ。また、ビデオを補う形で両病院の詳細な研究データも発表された。
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「太陽が落ちた日」、広島と福島をつなぐ反核を人の生き方で描く
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ロカルノ映画祭のドキュメンタリー部門にノミネートされた「太陽が落ちた日」は、原爆投下時に広島赤十字病院の医師だった監督の祖父を映画製作の出発点にしながら、当時の看護婦や肥田舜太郎医師の「原爆のその後を生き抜く姿」を丁寧に紡いだ作品だ。チューリヒ在住のドメーニグ綾監督(42)は、「娘やその孫のために作った。私の家族の歴史であり、同時に反核を含む私の世界観が凝縮している作品」と語る。広島と福島をつなぐ重いテーマでありながら、登場人物がユーモラスに生き生きと描かれている。
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原爆投下 ジュノー博士の勇気と信念
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「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
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