まるでハイジに出てくるような山の牧場での生活は、ロマンチックなだけではない。確かに雄大な山の景色は素晴らしいが、陽が長い分、朝から晩まで肉体労働に追われる。それでも毎年夏になると何千もの「移牧民」が家畜の群れを引き連れて高地へと移動する。その中にはカンデル谷のライヘンバッハに住む5人家族、エリッヒ家の姿もあった。夏の間10週間はベルナーオーバーランドにあるエングストリーゲンアルプの山の牧場で過ごす。まだ外国人労働者の手を借りずに済んでいるが、子ども達の協力は不可欠だ。
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雌牛のソフィア、ソルダネレ、サロメ、フローラ、フルカは、今日も一日中、標高約2000メートルの高原で仲間の雌牛500頭(大半は雌でも角がある)と一緒にみずみずしい草やハーブをお腹いっぱい食べた。これからエリッヒ家の畜舎で乳搾り。今日の乳搾りを担当するのは14歳のマルティーナだ。
マルティーナは一本足の椅子をベルトで体に固定すると、1頭目の牛の乳房をマッサージしてから搾乳機に繋げた。父と娘のチームワークは息がぴったりだ。
1時間後、21頭の牛の乳搾りが終わった(11頭は自分の、残り10頭は叔父の牛)。乳牛は1頭につき1日約20リットルの乳を出す。乳牛の他にも、エリッヒ家は仔牛や畜牛、数頭の豚を飼っている。このエングストリーゲンアルプでたった1頭の雄牛、クラウディオも牧場の一員だ。
エリッヒ家は6月末、家畜の群れを引き連れて他の農家や牧夫、彼らの家畜と一緒に急斜面で岩の多い山道を登りはじめた。目指すのは村から標高600メートル上にある700ヘクタールの高原が広がる山の牧場だ。車が通れる道はないため、身ごもった雌牛やまだ生まれたばかりの仔牛は山岳鉄道で山の牧場まで運ぶ。
山の牧場への移動を一目見ようと、毎年、何百人もの見物人が遠方からも訪れる。韓国のテレビ局が取材に来たこともある。山を登る牛の群れ、そして標高3244メートルのヴィルトシュトゥルーベル山から見渡す景色や山々は息を呑む美しさだ。
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牛の行列、カウベル響かせ夏の牧草地めざし山登り
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(文・Christoph Balsiger 翻訳・説田英香)
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この山小屋は3世代に渡りエリッヒ家が所有してきた。牧場はアルプス農業協同組合の所有で、組合の代表はアブラハム・エリッヒさん本人だ。
エリッヒさん(43歳)は、幼い頃から夏は必ず山の牧場で過ごした。労働時間は長いが、山で過ごすのは好きだとエリッヒさんは言う。「山の牧場に来るのはいつも楽しみだ。秋になって再び山を下りるのも好きだけどね」。以前は店の従業員だった妻のタニアさん(41歳)も、夏の間エングストリーゲンアルプで過ごすのが好きだと言う。但し、もう少しプライバシーのある生活を望んでいるそうだ。
「旅行者が来たり隣人が用事で顔を出入りしたりと、いつも何かと人の出入りがある。谷の生活はもっと静かだ」。まだ子どもが小さかった頃や病気だったときは特に苦労したという。「もう限界、と思うこともよくあった」
実際に、山での生活は楽しいことばかりではない。早朝5時に牛の乳搾りに始まり、家畜を放牧し、仔牛に餌を与え、干し草を敷き、牧場に肥しをまき、チーズを作り、夕刻には牛を再び畜舎に戻し、乳を搾って糞を片づけて…。夜9時前に1日の作業が終わることはほとんどない。更に、谷にある牧場での放牧と草刈も忘れてはいけない。
スイスの山の牧場は人手不足のため、隣接する外国から来ている牧夫が約3分の1を占める。しかし、ここエングストリーゲンアルプでは、まだドイツ人2人だけに留まっている。エングストリーゲンアルプにある山小屋の殆どが代々家族によって引き継がれている。シニア世代が山の牧場を受け持ち、若い世代が谷の仕事を担当するのが一般的だ。
しかし既に祖父母が他界したエリッヒ家では、その両方を自力でこなさなくてはならない。子ども達の協力抜きにはとても無理だとアブラハムさんは言う。「子ども達は一生懸命手伝ってくれる。また、そうしながら責任感も養っている」
今日はマルティーナが畜舎の担当だったが、明日はテーブルに食器を並べながら子猫と遊んでいるウルジーナ(12歳)の番だ。10歳のアンドリンも仕事に駆り出される。
動物が何よりも好きなアンドリンは、自分のヤギを2頭飼っている。農家の仕事にも興味を示しているが、今は夏休みに遊びに来た友達のレトと取っ組み合いの相撲をしながら転げ回る方が楽しいようだ。「子ども達が手に職を持つのは大切だが、農家の仕事を強制するつもりはない」と父親のアブラハムさんは言う。
ティーンエイジャーのマルティーナは、地元の友達と一緒に谷で過ごす方が好きだと言う。「谷の家なら、ちゃんとしたお湯でシャワーもできるから」。山小屋は電気が通っているが、お湯が使えないため、山小屋の前にある泉で歯を磨き、顔や体を洗う。
ようやく仕事が終わるころ、隣人のヴェフラーさんが顔を出した。雌牛が1頭、発情していると知らせに来たのだ。そうなれば雄牛クラウディオの出番だ。アブラハムさんは早速、畜舎からクラウディオを連れ出すと、隣人の雌牛のところまで連れて行った。やがてほんの数分後には、もう「事」が済んでいた。「クラウディオは役目を果たしたまでさ」とアブラハムさんは淡々と話す。
早朝、アブラハムさんはシンメンタール種の牛の乳を搾った後、朝食を取った。その間、搾った乳をチーズバットで加熱する。搾った乳の約半分は仔牛に飲ませ、残りの約160リットルは、毎日チーズに加工する。
山に移って来た最初の数週間は、妻のタニアさんがラクレットチーズとムッチュリチーズを作る。その後、直売用のアルプチーズの加工に取り掛かる。シーズンが終わるまでに合計800キロのチーズが作られる。
チーズ作りには厳密な規定がある。牛乳の量、温度、pH値等、さまざまなデータをファイルに記録しなければならない。台所の横には倉庫があり、ここで毎日チーズに塩水を刷り込んではチーズを裏返す。
こうして山に移牧して営む生活は、家畜の世話や乳製品の製造が中心だが、伝統や文化を守る役割も果たしている。2014年以来、国から出る牛1頭当たりの移牧援助金が増えたのもモチベーションに繋がっているのかもしれない。
だが、タニアさんは言う。「また政府は短期間の移牧に対する援助金をカットするよう検討中だ。私たちのエングストリーゲンアルプもその対象になっている。本来、私たち農家の仕事はもっと評価されるべきだ。我々が山の景観を保ち整備しているおかげで、スイス全体が恩恵を受けている。我々が移牧をやめれば、山の道は2、3年で雑草に覆われて牧場も荒れてしまうだろう。そうなれば旅行者の足が遠のくのは必至だ」
エングストリーゲンアルプ
自然保護区域に指定されているエングストリーゲンアルプは、ベルナーオーバーランドにある標高1950メートルの山。乳牛185頭、畜牛128頭、仔牛194頭、雄牛1頭、ヤギ18頭が夏の間10週間、この山の牧場で過ごす。13棟ある山小屋では主にチーズの製造、販売が行われる。エングストリーゲンアルプは、自治体、アーデルボーデンに属するが、所有者はアルプス農業組合。組合は92人の会員と牛340頭分の放牧権からなる。一つの放牧権で牛1頭、あるいはヤギを6頭放牧させることができる。
ベルナーオーバーランド
ベルナーオーバーランドには夏期だけ山の上で経営される事業が1100件ある。大半は山のチーズ工房。チーズ生産量は年間約1200トン。
2016年には乳牛が2万頭以上、畜牛と仔牛が3万頭以上、ヒツジ2万頭、ヤギ4500頭、馬400頭、アルパカとラマ450頭が放牧された。
国から出る移牧に対する援助金はこの地域だけで約1600万フラン(約18億8千万円)。
(独語からの翻訳・シュミット一恵)
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妊娠中や授乳中の牛たち数十頭の世話をする「アルプスの助産師」。具体的にはどんな仕事をするのだろう?
受話器の向こうからはカウベルの音が聞こえる。その電話の相手はクリスチャン・ヘンニーさん。引退した農夫で、夏の間、東部グラウビュンデン州のアルプスの牧草地で牛たちの世話をしている。
取材の問い合わせに対して、「来てもらってかまわないよ。ただし出産で忙しくなければね」とヘンニーさんは答える。牛の出産の手助けは、彼にとって重要な仕事の一つだ。今年は75頭の面倒を見ている。6月半ばにヘンニーさんの元へ牛たちがやってきたときは、その約半数が妊娠していたという。夏の間、高山牧草地で牛の世話をするヘンニーさんには、給料が支払われるほか、宿泊場所も提供される。スイスでは毎年夏になると、動物の世話から土地の手入れ、乳製品づくりを始めとする山の仕事で何千もの雇用が生み出される。その数はグラウビュンデン州だけでも1500だ。
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牛乳価格の値下がり 酪農家の生存競争
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生産過剰が招いた牛乳価格(乳価)の大幅な値下がりは、欧州だけでなくスイスの市場も直撃した。酪農家は生存競争を勝ち抜くため、より一層の合理化を求められている。そんな中、なんとか安定した経営を続ける二人の酪農家がいる。一人は農場に最新のハイテク設備を投入、もう一人はハイパフォーマンスな乳牛を飼育する。
ロボットが牛の都合に合わせて乳を搾り、牛舎の掃除や餌やりも行う。そんな最先端の設備が導入された、スイスで最大手の酪農場がある。この酪農場の持ち主(本人の希望により匿名)は、「事業を酪農一本に絞り、合理化と効率化に多額の投資をしてきた」と言う。
スイスにおける乳価は過去の数カ月間で一層下落し、、1リットル当たり0.5フラン(約55円)を割り込んだ。この農場の場合、効率を最大限に高めたとしても0.55フランの乳価を維持できなければ採算が取れない。この酪農家は、「今の状況では、牛舎の戸を開くごとに100フラン札を置いてくるようなものだ」と、赤字経営の実態を自嘲気味に語る。
しかし、あきらめるつもりはない。「とにかく生産し続けるしか活路はない。生産の拡大とスピードアップ、そして低価格化が進んでいる。先に脱落するのは競争相手か自分か。破滅への道をまっしぐらなのかもしれない。だが競争をあきらめた時点で敗北が決定するのは間違いない」
複数の従業員を抱えるこの酪農家は、今は貯蓄を切り崩して生活している。乳価が間をもなく上昇に転じるよう願いつつ、投資を最小限に抑えて現在の低価格時代を耐え抜こうとしている。
「牛乳生産国としてのスイスを守りたければ、生産コストを削減しなければならない。そのためには政治の力で大枠を変える必要がある」。このハイテク酪農業者はその一例として、国産穀物の価格を維持するための保護策をあげる。「スイスの穀物農家にとっては収入増につながるありがたい策だ。しかし、このために濃厚飼料(栄養価の高い飼料)の値段はドイツの2倍以上にもなり、牛乳生産者は壊滅的なダメージを被っている」
厳格な経営方式
アールガウ州フィズリスバッハに住むトーニ・ペーターハンスさんは、乳価の下落に不満を言わない。2013年のアールガウ州最優秀飼育業者に選出されたペーターハンスさんの所有するホルスタイン牛は「スイスで一番」だと言う。スイスの乳牛が一生のうち生産する牛乳の量は平均して1頭当たり約2万3千リットルだが、「我々の乳牛は5万8千リットルまで生産できる。また、寿命は平均よりも約2倍と長く、対費用効果に優れている」。
ペーターハンスさんの成功は偶然の産物ではない。彼の農場では、最適化された飼料作りから牛糞の詳細な分析まで細部に至り、「軍隊並みの厳格さ」でコントロールされている。「我々の農場は、毎週の尻尾洗いから年3回の全身の蒸気洗浄まで、綿密なスケジュールに従って管理されている。農場内の清掃も徹底しており、長靴を履かなくても汚れないほどだ」
新しい車、新しいトラクター
現状の乳価では、ペーターハンスさんのような優良業者といえども採算ラインを割り込んでしまう。それだけに、効率性で劣る他の酪農家が置かれた状況の厳しさは想像に難くない。「同業者の多くは眠れない夜を過ごしている。節約に徹し、投資を控え、支払いも遅れがちだ。ひどい状態にある農場も少なくない」。そう語るペーターハンスさんだが、誇らしげに次のように付け加える。「我々は違う。最近も15万フランの新しいトラクターを購入したところだ」。しかもローンは組まずに一括払いで、と強調する。
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スイス東部アッペンツェル・アウサーローデン準州の農家では、ビールの製造工程で出る副産物を餌にし、1日2回の「ビールマッサージ」を受ける「カビーア」が飼育されている。徹底した経営理念から、生産数は限られ、商品が届くまでの待ち期間は約1年。部分買いは出来ないという。また、飼育方法の一部は日本の神戸牛からインスピレーションを受けているが、その目的は決して高級肉を生産することではない。
東スイスの中心都市の一つに数えられるザンクト・ガレンから車で20分。人口1400人ほどの小さなシュタイン村の外れにデーラー農場はある。丘と丘の間に広がる約12ヘクタールの敷地では、それぞれ25~30頭の肉牛、羊、豚、そして数頭のヤギがゆったりとした雰囲気の中で飼育され、ニワトリと猫たちが気ままに農場を歩き回っている。
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カビーアはドイツ語で子牛を意味する「カルプ(Kalb)」と、ビールを意味する「ビーア(Bier)」を掛け合わせたブランド名だ。デーラーさんとロッハー・ビール醸造所のオーナー、カール・ロッハーさんで考案した。
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