60年代スイスに飛び火したバブルハウス運動とは?
1960年代、スイスの建築家たちは、コンクリートやプラスチックを用いて水泡のような形の「バブルハウス」を盛んに建てた。このバブル・ブームは何十年も前に「はじけて」しまったが、今も多くのオリジナル建築が残っている。
アパートが狭すぎる?ならば壁の外にもうひと部屋くっつけてしまえ——。今から50年前のジュネーブで、たくさんの賃貸人が抱くそんな夢のようなアイデアを、過激とも言えるやり方で実現させた人物がいる。建築家のマルセル・ラシャだ。1970年代の終わり、当時23歳だったラシャとその妻は、我が子の誕生を前に広いアパートが見つからず困っていた。そこで思いついたのが「増築」だった。
友人たちの協力を得て、住んでいた賃貸アパートのファサードにポリエステル製のバブル状の「部屋」をくっつけた。こうして居心地の良い子供部屋のためのスペースを確保したラシャだったが、この10平方メートルの空間が「アナーキーな」増築として国内メディアの注目を集めることは予想していなかった。この「バブル」は、ほどなくして撤去の憂き目を見た。
この騒動では、バブルというフォルムよりも借りているアパートを増築するというラシャの大胆さの方に注目が集まった。実験的なバブル建築そのものは、1960年代から世界中で盛んだった。
フォルムの革命
1940年代、米国人建築家のウォレス・ネフが粉でコーティングしたネオプレン製のボールにコンクリートを吹き付けるという方法で家を建て始めると、それは世界中に広まった。セネガルには今も彼が設計したバブルハウスが1500棟ほど残っている。しかし米国内の普及は進まなかった。安価で早く作れるというだけでは、欧米先進工業国には魅力不足だったからだ。丸い壁では家具の置き場に困るなど実用面での問題もあった。
しかし、60年代に入ると、このコンセプトに反抗の意味が込められるようになった。当時、モダニズム的都市計画の厳格な幾何学性や機能主義により束縛感が増していた。団塊の世代のための都市構造は、個人より効率を重視していたのだ。
60年代は、個人的なことは政治的なことと宣言され、一戸建てや別荘が自己表現の場となった時代だ。批評家のミシェル・ラゴンは、建築はプラスチックや吹き付けコンクリートのおかげで、やっと骸骨やクモの巣、水滴やシャボン玉のような構造物に対抗できるようになり、「6つの壁面という絶対的な公式への反乱が可能になった」と述べている。この時代の多くのデザインは有機的でバイオモーフィック(生命形態的)なフォルムを備え、まさに近代建築の直線的ラインから遠ざかろうとしていた。
そうした流れから、ネフのバブルハウスも突如、ルドルフ・シュタイナーのゲーテアヌムやヘルマン・フィンスターリンの建築ユートピア、あるいはバックミンスター・フラーの未来派大聖堂建築物といったビジョンを継承するものと解釈されるようになった。何よりもバブルというフォルム自体が、人それぞれのニーズに合わせた極めてユニークな世界をイメージさせた。
バブルはまた、崩壊の瀬戸際にある夢や幻想の象徴としても60年代という時代にぴったりだった。
アナキズム的介入
ラシャのジュネーブ・バブルは「必要は発明の母」を地で行くと同時に、「DIY建築」という急進的なコンセプトにも沿うものだった。ラシャは仏人建築家ジャン・ルイ・シャネアックによる「Manifesto for Insurrectionary Architecture(仮訳:反乱する建築のマニフェスト)」を読んでいたが、シャネアックのビジョンはラディカルシックなファミリーハウスからアナキズム的介入にまで及んでいた。
建築家なしの建築。それが理想とされた。建築家クロード・コスティは1981年「工業化時代は、自分の家を自分で作ることとその伝統を消滅させた。(中略)エコロジー時代の今、自分で家を作るという可能性が再浮上した」と論じている。
クロード・コスティと夫のパスカル・ホイザーマンは、それまでにもバブル様の建築物を次々と発表して建築家としての地位を確立していた。1959年、ホイザーマンはジュネーブ近郊の岩場に最初の小さな家を建てた。基本的な構造は、吹き付けコンクリートで作ったバブルだ。1967年にはコスティと共に、今も訪れることのできる集落「ロー・ドゥ・ヴィヴ」を仏ラオンレタプに建設した。その形状は、アニメ「バーバパパ」のキャラクターに似ていなくもない。この集落は2000年にはホテル建築のプロトタイプとして宣伝された。
ホイザーマン、コスティ、シャネアックの3人は、組み合わせを自由に変えられるプラスチック製の「ドモービル(可動住宅)」を用い、居住空間をいつでも構成し直せる集落の建設を計画した。住み方が変わっても新しいアパートを探す必要は無い。アパートがそれに合わせて変わってくれるからだ。
イランのバブル都市建設計画
しかし、1973年のオイルショックで建築バブルははじけてしまった。断熱性に乏しいバブルハウスが突如としてエネルギーの浪費と見なされるようになったのも一因だった。繁栄の時代が終わってみると、人々のフォルムへの熱狂は、老いゆくヒッピーの髪に付いた干からびた花飾りのように思われた。
そんな中、前衛派グループ「国際未来建築協会」のメンバーだったスイス人建築家ユストゥス・ダヒンデンと、1950年代から精巧なコンクリート製逆さ吊り構造の実験を行っていたエンジニア、ハインツ・イスラーの2人はバブル建築に信念を持ち続けた。
2人は、1945年以降で最悪という不況のさなかに、イラン北部に3万人規模のバブルハウス都市建設を計画した。1976年、アミラバードに第1号ユニットが建設されたが、イスラム革命のためにバブルハウス都市モガンの建設は実現しなかった。
ダヒンデンが新しいプロジェクトに乗り出す一方、このコンセプトで商機を狙ったイスラーはバブルシステムズという株式会社を設立。スイスでバブルハウスの販売を試みたが、振るわなかった。
ベルン州ブルグドルフ近郊の森に行くと、風雨にさらされたコンクリートの球体がある。それはイランにぽつねんと建つイスラーの家に似ているが、それがその地域の伝統的ドームを彷彿(ほうふつ)とさせるのに対し、リサッハシャッヘンにある風化してコケに覆われたバブルハウスは、コンクリートとプラスチックのバブルが破裂した未来像を思わせる。
- Raphaëlle Saint-Pierre: Maisons-bulles. Architectures organiques des année 1960 et 1970. Patrimoine 2015
- Leïla El-Wakil: Pascal Häusermann, une architecture libertaire pour délivrer le monde (Tracés 5/2017)
- Matthias Beckh/Giulia Boller: Building with air: Heinz Isler’s bubble houses (Conference of the Construction History Society 2019)
(英語からの翻訳・フュレマン直美)
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