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製薬大手ロシュのテック人材争奪戦

ロシュタワー
バーゼルのロシュ・タワーは製薬業界における巨大多国籍企業の紛れもないシンボル © Keystone / Anthony Anex

「リアルワールドデータサイエンティスト」や「デジタルトランスフォーメーションマネージャー」といった職種と老舗の製薬会社を結びつけて考えられる人は少ないかもしれない。しかし、これら新分野の人材獲得に余念がないのが、データ活用やデジタルヘルス分野で飛躍を狙うスイスの製薬大手ロシュだ。

スイス・バーゼルにある製薬大手ロシュの自社ビル「ロシュ・タワー」。そのロビーを行き来する人々は、ほとんどが研究用の白衣やビジネススーツといったいでたちだ。その中にあってイスタンブール出身のネイラン・エルレヴェントさんのブレザーにジーンズとスニーカーという姿は、10年も前ならさぞ目立っていたことだろう。

ロシュ社診断薬事業部門のデジタルトランスフォーメーション推進マネージャー、ネイラン・エルレヴェントさん
ロシュ社診断薬事業部門のデジタルトランスフォーメーション推進マネージャー、ネイラン・エルレヴェントさん swissinfo.ch

ネイランさんは「求人広告を見た時は製薬会社とデジタル分野との関係がピンとこなかった」と話す。「しかし、自分のデジタルスキルが採用条件にぴったりだったため応募することにした」

ネイランさんは米国でeコマース(電子商取引)とデジタルマーケティングのMBAを取得。その後バーゼルのロシュ本社に移るまでの数年間、トルコやスペイン、カナダのeコマースのスタートアップ企業で経験を積んだ。

ネイランさんの肩書きは診断薬事業部門デジタルトランスフォーメーション推進マネージャー。11年前入社した当時は製薬業界ではまだ聞き慣れない職種だった。

個別化医療事業に賭けるロシュ社は、コンピューターサイエンス、データ分析、eコマースなどの分野で優れた人材を確保しようとやっきだ。こういった人材は通常ならばグーグル社やテック関連の小さなスタートアップに流れてしまう。

ロシュは120年以上の歴史を持ち、100カ国以上に従業員約9万5000人を抱える多国籍企業。最新スキルを持った才能の争奪戦において、老舗の大企業であることはハンデとなる。だが、同社社員らはそれが有利に働くこともあると指摘する。

シリーズ「スイスの多国籍企業」

スイスに拠点を置く多国籍企業で働く人々に焦点を当てるシリーズ。多国籍企業はスイス経済で重要な役割を果たしている。しかし、多くの人の目には外国人労働者がひしめく、コンクリートの建物で出来た孤島のように映っているようだ。このシリーズでは従業員の直面する問題を掘り下げながら、多国籍企業で働くことの実態に迫る。

「リアルワールドデータ」の波

ロシュ社は個別化医療外部リンクブームの最先端を走ってきた。リアルワールドデータ(臨床現場で日々得られる患者単位のデータ)と臨床データ及びDNAシークエンシング(遺伝情報の解析法)を組み合わせ、患者一人ひとりに最適なタイミングで最適な医薬品を提供するという個別化医療は、医療界の「聖杯」ともてはやされている。

これまで同社は、がん治療テック企業フレイティロンヘルス外部リンクを約19億ドル(約2000億円)で、遺伝子プロファイリングに強いファウンデーション・メディシン社を53億ドルで買収したりするなど大掛かりな投資を行ってきた。また、遺伝子治療スタートアップのスパーク・セラピューティクス外部リンクの買収交渉も進行中だ。

中国の地方都市出身のアイジン・シャンさんは、中国で医学を学び生物統計学者としてスイスで疫学博士研究員のポストを経た後、ロシュに入社した。現在は同社の個別化医療治療薬事業部門でデータサイエンティストとして働く。

リアルワールドデータ外部リンクの重要性は格段に高まった」とアイジンさんは説明する。「患者の治療パターンとその結果を理解したり、アンメットメディカルニーズ(満たされない医療ニーズ)や、どの患者が高いリスクを抱え、どの患者が早急に新しい医薬品を必要としているかを割り出したりするのに役立つ」

実験室での研究や臨床試験だけが頼りだった数十年前と異なり、ロシュをはじめとする製薬会社は今日、電子カルテやウェアラブルデバイス(装着型端末)、患者自身の栄養記録を保存するスマートフォンのアプリなど、いわゆる「リアルワールドデータ」を活用している。

ロシュではデジタル技術とデータ活用に関して100件を超えるイニシアチブが進行中だが、その大部分は新薬開発にフォーカスしたものだ。診断薬事業部門を通じてテクノロジーデベロッパーという新領域への参入を果たしたといえる。

イニシアチブの例としては、多発性硬化症患者の日常生活に関する情報を集める「Floodlight外部リンク」、治療法の選択でがん専門医をサポートするためGEヘルス社と共同開発したソフトウェアベースの患者用ダッシュボード「Navify Tumour Board外部リンク」などがある。

同社の発表によると、サンフランシスコのベイエリアに診断ソフト開発、デジタル情報ソリューション、デジタルパソロジーといった領域を扱う新部門を設置することも決定している。 

ロシュ社CEOのセヴェリン・シュヴァン氏
ロシュ社CEOのセヴェリン・シュヴァン氏。同社の標的療法戦略を率いる Keystone/anthony Anex

加熱する競争

こうした方向転換が成功するか否かは、製薬業界とは一見無縁の新しい才能をいかに大量に確保するかにかかっている。

アイジンさんの部署もネイランさんの部署も空きポジションを抱える。そのポジションにぴったりな人材を探し出し、その上彼らの注意を引くことは容易ではない。現在、データサイエンス関連の空きポジションは社全体で100件あまり。米国拠点だけでもソフト開発技術者が50人近く不足している。

「ライバルはもはや従来のヘルスケア企業にとどまらない」とネイランさん。「ヘルスケア部門を持つグーグルのような企業が新たなライバルだ。ウェアラブル診断デバイス事業に進出するヘルスケアのスタートアップも数多い」

連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)のキャリア相談室長エヴェリン・カッペルさんは、コンピューターサイエンスの学生獲得は今やどの企業にとっても最難関だと話す。ETHZでコンピューターサイエンスの修士課程を修了した学生は約140人だが、彼らは全学で最もキャリア相談から遠い存在だ。

相談室には学生自身からも就職活動は不要という声が届く。「オファーが20件ほど溜まるまで待って、その中から選ぶと学生は話している」。「彼らがリンクトイン(ビジネス向けSNS)にアカウントを開こうものならすぐさま企業にハンティングされる」

それに加え、多くの企業にとって手強い競争相手となるのが、チューリヒに拠点を構え多くの人材をさらっていくグーグル社の存在だ。「製薬会社は学生に不人気という訳ではない。だが、企業の方から積極的に攻めていく必要はある。なぜそこで働くことが魅力的なのか。それを伝えるためのより一層の努力が必要だ」

引く手あまたの卒業生らにとって就職先は選び放題。彼らが求めているのは堅苦しくなくイノベーティブでオープンな企業だ。

「大きな池の小さな魚」

一方、エレガントな白い階段、電話帳を思わせる年次報告書が置かれた来客ロビー、アートが飾られた壁といったロシュ・タワー内の雰囲気は、イノベーティブなテックスタートアップのイメージからはほど遠い。 

アイジンさんとネイランさん
巨大テック企業グーグルや小さなスタートアップが人材市場の新しいライバルと話すアイジンさんとネイランさん swissinfo.ch

アイジンさんもネイランさんも、ロシュという会社の規模や社風がテック人材確保のネックになっていると認める。大企業の社員はいわば「大きな池の小さな魚」だ。アイジンさんの部署は昨年1年間でスタッフ数が倍増し、総勢150人になった。

「決定に至るまでのステップが細かく、仕事の進行が遅い」(アイジンさん)。市場と従業員のニーズ汲み上げに取り組み始めた同社では、トップ幹部らが個々のチームに決定権を与えるなど決定プロセスの合理化に着手している。

「組織の比較的下層部でも決定を下せるようになった」(ネイランさん)。「我々のチームはfail fast and learn fast(早目に失敗して、素早く学ぶ)というメンタリティで動いている。これはテックスタートアップ寄りの精神だ」

テック/デザイン革新業界で浸透している「ハドル(必要な時に短時間行う会議)」や「スクラム(機能横断型のチーム体制)」「スプリント(開発における小単位)」といった新形態に応じたミーティングも珍しくない。また、インスタグラム上で若いイメージを発信したりワークライフバランスやファミリー志向の職場をアピールしたりもしている。

その他、有望な若者に機会を提供するため、デザインチャレンジ「Code4Life外部リンク」が立ち上がった。デジタルヘルス面で育成強化するアクセラレータープログラム「Startup Creasphere」にも参加している。

もう一つの切り札が、2009年にロシュ・グループの完全子会社となったサンフランシスコ拠点のバイオベンチャー、ジェネンテック社だ。テック業界の動向をオンタイムに把握できるようになったほか、シリコンバレー人材に対する吸引力もアップした。 

ロシュ・タワー38階の社員食堂
モダンでスマートなロシュ・タワー38階の社員食堂。スイスの建築ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計による © Keystone / Gaetan Bally

揺るがぬ目標

対テック業界でロシュ社に軍配が上がる点としてネイランさんは、あまり意識されないもう一つの要素に言及する。

「娯楽目的だけの製品を作る代わりに、ロシュ社ならば人々の生活に建設的な価値を生み出す手助けができる」

この「気高い目標」は、同社の採用プロセスにおいても「科学と技術を使い最大の世界的課題を解決する」といった表現で説かれている。

だが、同社の置かれた状況は決してバラ色ではない。一部の抗がん治療薬の価格で圧力をかけられている。価格決定のプロセスが不透明だとの批判もある。

患者のデータの所有権やアクセス権、さらには製薬会社がそこから利益を上げることの妥当性についても盛んな議論が進行中だ。

ロシュタワー
ロシュ社は2019年6月の全国女性ストライキに寄せてロシュ・タワーにそのシンボルのプロジェクションを行い、ジェンダー平等支持を表明した © Keystone / Georgios Kefalas

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ロシュ社員としてネイランさんもこういったテーマについて意見を聞かれることがある。彼女自身は社の決定は倫理的に正しいと思っている。一方、彼女を含め社内の人間の間には、薬品開発モデル自体に欠陥が潜んでいるという認識もある。

「新薬開発には10年から15年かかる。失敗に終わるリスクも高い」とアイジンさん。「製薬会社へのリターンが無いならば新薬開発へのインセンティブも無い」

同社では、リアルワールドデータへの投資がこういった批判に対する答えの一つになると考えている。リアルワールドデータをコントロールグループとして利用することにより、新薬開発のスピードアップとコスト削減が実現できるからだ。

アイジンさんはこう言った。「開発のスピードアップとコスト削減効果が早く実現すればいいが」。

【ロシュ社】

創業: 1896年、バーゼル

従業員数:全世界で9万4442人(スイスのみで1万3600人)

本社:バーゼル

(英語からの翻訳・フュレマン直美)

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