ソ連とロシア 「戦時下に文学が果たす役割は極めて重要」
ロシアのウクライナ侵攻を機に、ロシア文学が圧力を受けている。スイスのロシア文学研究者に、ソ連・ロシア文学が戦争に及ぼす影響力と限界について聞いた。
ローザンヌ大学スラブ学講座主任のアナスタシア・フォルクノ・ドゥ・ラ・フォルテル氏は昨年11月、同大学でソビエト連邦成立100年を記念した国際会議を主催した。
swissinfo.ch:2022年12月30日にソビエト連邦は建国100周年を迎えました。ソビエト連邦とはいったい何だったのでしょう?一部で主張されているような、壮大な近代主義プロジェクトだったのでしょうか?
フォルテル氏:20世紀の全体主義(イタリア、ドイツ、ソ連)の嵐が全て第一次世界大戦による国家存亡の危機に対する反応として巻き起こったものと仮定すれば、ソ連はむしろ近代主義に反対するプロジェクトであったと言えるでしょう。
swissinfo.ch:ヨーロッパも世界も、ナチズムによる犯罪のことはよく知っていても、共産主義が犯した罪については知りません。なぜでしょう?
フォルテル氏:それは無知の問題ではないと思います。共産主義の犯罪についてはすでにさまざまな文脈、さまざまな形式で記述され公開されているからです。すでに明らかになっている知識には無関心なだけなのです。結局ナチズムのイデオロギーは20世紀に世界中で失敗しました。
共産主義のイデオロギーも同じように失敗したのかといえば、そうではありません。フランスの小説家アンドレ・ジッドが代表作「ソヴィエト旅行記」に記したソ連の実態はフランスの左派知識人を激怒させフランスで出版されたアレクサンドル・ソルジェニーツィンの「収容所群島」は大反響を引き起こしました。
共産主義の場合はナチズムとは異なり、理論と実践の間に違いがあります。
ナチスのイデオロギーが非人道的であるのに対し、共産主義のイデオロギーは啓蒙の土壌で育ったと考えられています。20世紀になると「やや評判を落とした」けれども、全体主義的な一連の試みによってさえ元の輝きを消し去ることはできませんでした。ジャック・デリダの「マルクスの亡霊たち」(1993年)にはこの論理がどのように機能したかが示されています。
ソ連の収容所は、ホロコーストの記憶に刻まれたような悲劇の強烈さや悲痛さはなく、ただ単にマルクスの精神が永久に消滅しないよう守るための記録にすぎないことが多いのです。
swissinfo.ch:ソ連、そして後のロシアは「読書家と思想家の国」であることが自慢でした。けれどもトルストイとドストエフスキーの国は今、犯罪と呼ぶべき戦争をウクライナに仕掛けています。どうしてそんなことが可能なのでしょう?
フォルテル氏:これは喫緊の問題です。なぜならさまざまな方面からロシア文化を排除するよう求められているからです。このような要請は、文化や文学が紙の上だけでなく現実に起こっていることにも責任があるという信念に基づいています。私自身も文学が「紙に書かれた単なる文字」だとは思っていません。文学は人の実人生に少なからぬ影響を与える可能性を持っています。けれどもその影響力を絶対化することにも理想化することにも私は反対です。
20世紀、私たちは教養と知識を併せ持った人間による恐ろしく残忍な行為を数多く目の当たりにしてきました。プーチン大統領はプーシキンやブロツキーを愛読しています。それでも2022年2月24日に侵攻が始まってしまいました。
swissinfo.ch:結局文学は人間に何も教えることはできないならば、なぜ文学が必要なのでしょう?
フォルテル氏:芸術と人との関係は常に個人的なものであり、感銘の受け方も人それぞれです。ある人にとっては無意味でも、今読んでいる本に自分の持つ世界観や人間観をひっくり返される人もいるのです。
「収容所群島」を読んだことが自分自身の成長に大きく影響した人を、私は何人も知っています。ペレストロイカ(1985年~1999年)の時代、この本は直近の全体主義的な過去についての歴史的真実を多くの人々に理解させた文学テキストでした。戦時下で文学が果たす役割は極めて大きいのです。確信を持って言えるのは、他人に投げかけられた問いが、自分自身が投げるべき問いほど重要ではない場合がままある状況にあるということです。
swissinfo.ch:ロシア国民は、かつてドイツ国民が国家社会主義による犯罪に対して責任を取ったように、戦争と共産主義による犯罪に対して罪を認め、その全責任を負うべきなのでしょうか?
フォルテル氏:私はここで、(国家の罪と責任という)2つの概念を非常に明確に区別したカール・ヤスパースを引用したいと思います。私たちは市民として国家の決定と行動の結果に責任がありますが、だからといって国家の名のもとに行われた犯罪について市民一人一人が自動的に有罪となるわけではありません。
またロシアの多くの人々は、共産主義が犯した罪や現在の犯罪的戦争勃発について罪の意識がないだけでなく、過去と現在の出来事に対する自分たちの責任を理解していないという面もあります。そしてこのような状態である限り、この国で政治的な自由を得ることは不可能です。カール・ヤスパースは、犯罪を国民全体の責任にすることの問題も論じています。ヤスパースはこの理論を不当であるどころか極めて危険だと捉えており、私も全く同意見です。
swissinfo.ch:スイスで表現の自由や研究の自由は保たれていますか?アメリカの大学では、差別との闘いを口実に「好ましくない」「間違った」意見を排除する傾向があるようです。
フォルテル氏:私がスイスで研究生活を送るに当たり、表現の自由や研究の自由を制限しようとする試みにほんの少しでも遭遇したことはありません。この数カ月間検閲は一度も行われていません。人種差別主義や差別との闘いは価値ある闘いであり、アメリカはすでに目標に達しました。また別の問題として、どんな良いアイデアでも過激になり得るということがあります。残念ながら、反人種差別的なテーマやフェミニスト的アジェンダが、自由な議論の芽を摘む口実になることは珍しくありません。とはいえこのような急進主義でアメリカの学術界全体を語れるわけではないと思います。
独語からの翻訳:井口富美子
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