アルベルト・ジャコメッティの「ミューズ」アネット
パリにあるジャコメッティ研究所は今、スイス人芸術家アルベルト・ジャコメッティの妻、アネット・ジャコメッティの生誕100周年記念行事を開催している。アルベルトのモデルであり膨大な作品の収集・管財人だったアネットは、必ずしも幸せな結婚生活を送っていたわけではなかった。
1943~1966年まで23年間を共に過ごし、子供を持たず自由で何にも縛られない夫婦生活を送った。アルベルトとアネット・ジャコメッティ夫妻は、当時主流だった伝統的な家族観を持つ人々にとっては決して羨ましい存在ではなかった。
だが芸術面では2人を結ぶ忠誠心は絶対だった。1943年の出会い以来、アネットはグラウビュンデン州出身のアルベルトにとって事実上唯一のモデル、少なくとも唯一のヌードモデルだった。アルベルトの死後、アネットは夫の作品をとてつもない粘り強さで収集した。
2人の出会いは戦争中、アネット・アルムが20歳、アルベルト・ジャコメッティが42歳の時だた。場所はジュネーブのモラール広場にあるブラッセリー。グラウビュンデン州スタンパで生まれたアルベルトは養子としてパリで育ったが、1942年からジュネーブに亡命していた。
決してお気軽な恋愛ではなかった。アルベルトが初めから「元カノ」のイザベルとまだ付き合っていることを打ち明けると、アネットはかえって安心感を覚えた。「イザベルとはよく会うけれど、他の人などかまってられないし、ここにある何よりも複雑。ああ、貴方と私、何という素晴らしい人生なんだろう」
「荒れ果てた住まい」
アネットは落胆しなかった。1946年7月、パリでアルベルトの小さなアトリエを見つけたときもそうだった。
作家でありフェミニストの先駆者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワール氏は、2人をよく知る人物の1人だ。「この人生を非常に若い女性が受け入れたことに感銘を受けた。1日中秘書として働いて家に帰ると、そこは荒れ果てた住まいだった。冬物のコートもなかったし、靴は履きつぶしたものばかり。アルベルトと一緒に暮らすためには、家族や世界中の全てを捨てなければならなかった。アネットは優しい。アルベルトは彼女に尽くしたが、愛情表現に乏しく、アネットは辛い時期を過ごした」
1948年、アネットは秘書の仕事を辞め、モデルとしての役割に専念した。「アーティストのためにポーズをとるのは子供の遊びではない」――ジャコメッティ研究所外部リンクで展覧会のキュレーターを務めたティエリ・ポートー氏はこう綴る。「アルベルトの要求は非常に厳しく、わずかな動きも許さなかった。モデルは創作の苦しみを何時間も見守っていた」
パリからスタンパへ
所狭しと並ぶスケッチ、絵画、ブロンズ像の中に、アネットのシルエットも紛れている。ポートー氏はアネットを「なかなかのアスリート体形で、引き締まったウエスト、きれいなヒップ、わずかに垂れた胸、細い首、楕円形の頭」の持ち主だったと描写する。
アネットは、仕事に没頭するジャコメッティにとっての「ミューズ」、理想の女性像になった。ポートー氏によると、昼夜問わず絵画や彫刻にふけったジャコメッティは、やや現実感覚を失っていた。
日がな一日ポーズを取らせた後、アルベルトはカフェでアネットに会った。「元気かい?今日は丸一日会わなかったね」「いいえ、何時間もあなたのためにポーズを取っていたの!」。アルベルトは妻ではなくミューズを描いていた――ポートーはこう説明する。
1949年に結婚した時にようやく、アルベルトは母アネッタにアネットを紹介することができた。アネッタは礼儀に厳しく、一切の妥協を許さない人だったが、スタンパで義理の娘を温かくもてなした。
アネッタはアネットとアルベルト、次男のディエゴにこんな手紙を書いた。「あなたたち3人がみんなあなたたちの作品を愛していると知って喜んでいます。『あなたたちの仕事』と言うのは、仕事に情熱を注ぐ星と、2つの衛星のように見えるからです」
不倫にも嫉妬しない
「衛星」とはいっても従順ではなかった。アネットは別の恋愛生活を送っていた。相手の1人に、ジャコメッティを深く崇拝していた日本の哲学者で美術評論家の矢内原伊作がいた。
この若い日本人が自分の「犯罪」を告白したとき、アルベルトはこう答えた、「嫉妬ほど私にとって無縁なものはない。夫や妻、恋人を我が物扱いし、モノのように所有したいと願うその感情…自由に対するこれ以上の攻撃はない」
つまりアルベルトにとって自由な恋愛が全てだったが、モデルとしてポーズを取る時だけは従順でなければならなかった。アネットがアルベルトから距離を置き、パリの別の場所に引っ越した後も、アネットはアルベルトの行く先々について回った。1965年にはニューヨークに飛び、病床に伏していたアルベルトに代わってニューヨーク近代美術館(MoMa)で作品を展示した。
1966年初めにアルベルトが死去すると、アネットは作品を収集し図録にまとめた。パリ14地区にある小さなアトリエを取り壊し、アルベルト・アネット・ジャコメッティ財団を創設した。
未来の大きな美術館
アトリエの旅は今も続く。現在はジャコメッティ研究所で再建が進められ、2026年に完成予定のジャコメッティ美術館に移転する予定だ。質素ながら温かみのある14区を離れ、エスプラナード・デ・ザンヴァリッド(Esplanade des Invalides)へと佇まいを変える。
美術館の入る荘厳な建物はパリ万国博覧会のために1900年に建設された。その後鉄道駅に転用され、仏エールフランス航空の本社も入居する。
財団のSoizic Wattinne事務局長は「当財団は1万点を超える作品を擁し、チューリヒ美術館と合わせて最大のジャコメッティコレクションを所蔵している」と話す。ジャコメッティ作品の人気の根強さを踏まえると、350平方メートルしかないパリのジャコメッティ研究所は不十分だという。
敷地面積7千平方メートルの旧アンヴァリッド駅の建物は展覧会や学校、財団事務所として使われる。パリの美術館が築く「黄金の三角地帯」(グラン・パレ、オルセー美術館など)の中心に位置し、多くの訪問者が足を運ぶと期待されている。
「建物は美しいが、状態は非常に悪い。環境保護の観点から、今の基準を満たすように再設計しなければならない」(Wattinne氏)
アネットは1993年に死去した。イポリット・マンドロン通りにあったアトリエの荒々しくも温かい雰囲気を知っていたアネットが、華やかなパリの真ん中で夫の作品が展示されるのを喜んでいるかは誰にもわからない。
展覧会「アネットと無限の日々外部リンク」はパリのジャコメッティ研究所で2023年9月27日まで開催中。
仏語からの翻訳:ムートゥ朋子
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