スイス人映画監督バーベット・シュローダー 「思い通りじゃない映画は作らない」
国際的に最も知名度の高いスイス人映画監督バーベット・シュローダー氏の新作「Ricardo et la Peinte(仮訳・リカルドと絵画)」が今年のロカルノ国際映画祭で上映された。監督がswissinfo.chのインタビューに応じた。
シュローダー氏にとって、スイス人であることは何を意味するのか?そう問われると、故郷はスイスという国ではなく、フランス語圏の都市ローザンヌだと答えた。8月26日に82歳の誕生日を迎えるシュローダー氏はイランの首都テヘランで生まれ、幼少期をコロンビアで過ごし、11歳で家族とともにフランスに移住し、ソルボンヌ大学で学んだ。
映画愛好家の聖地、シネマテーク・フランセーズに通い始めたのが10代のとき。そこに詰めていた人々の多くは後にフランス内外で最も影響力のある映画製作者や批評家になった。
シュローダー氏はそこで雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の制作者たちと出会う。ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、エリック・ロメールたちが仏映画界に興した「ヌーベルバーグ(新しい波)」運動に加わった。
監督としての初作品は、ヒッピーの楽園イビサ島(スペイン)に暮らすヘロイン中毒者を描いた「モア」(1969年)。英国のロックバンド、ピンク・フロイドが手がけたサウンドトラックは、同作を不朽の名作に押し上げた。その後、アフリカやアジア、ハリウッド、コロンビアなど世界各地でメガホンを取った。
今月開催されたロカルノ国際映画祭で上映された「Ricardo et la Peinture(仮訳:リカルドと絵画)」は監督の個人的な体験に基づく作品の1つだ。フランス拠点のアルゼンチン人アーティスト、リカルド・カヴァロ氏との40年以上にわたる友情の軌跡を描いた。
swissinfo:あなたの名前はドイツ語ですが、母国語はフランス語ですよね?
バーベット・シュローダー:はい。父の両親がハンブルクからジュネーブへ移住したので、父はドイツ語の名を持っています。父はその後超がつくスイス人になりましたが、母は第二次世界大戦の関係でドイツ語を話したがらず、フランス語を話す男を選んだわけです。
swissinfo.ch:お母さんはユダヤ人だったのですか?
シュローダー:違います。でもたくさんのユダヤ人と親しくしていて、生涯を通じてユダヤ人の友達がいました。
swissinfo.ch:では家庭内ではドイツ語を話さなかったのですか?
シュローダー:一度もありませんでした。
swissinfo.ch:ではドイツ語も喋れない?
シュローダー:全く。ただの1語も。
swissinfo.ch:映画に興味を持ち始めたのは、かなり小さいころからなのでしょうか?
シュローダー:いいえ。初めて映画を観に行ったときは、泣いて映画館からつまみ出されました。それで母は、私は繊細過ぎるから映画に向いていないと判断したのです。その時観たのは「バンビ」でした。そのわずか数年後にはパリのシネマテークで映画を観るようになりました。でも普通の子供のように映画館に行っていたわけではありません。
swissinfo.ch:監督やプロデューサー、俳優と、映画に関しては非常に幅広いキャリアを築いていますが…
シュローダー:俳優とプロデューサーは削除していいです。私の人生は映画製作です。
swissinfo.ch:ゴダールなどのヌーベルバーグ監督のアシスタントがキャリアのスタートですね。
シュローダー:エリック・ロメールという師匠がいました。ある日「カイエ・デュ・シネマ」編集部に行った私は、その映画評論家の1人だったロメールのところに行って、彼の作品に惚れ込んでいることを。するとロメールは「どうだい、私の仕事を手伝ってみないか」と言ってくれて。それから私たちはお金も何もないまま、一緒に映画を作り始めました。
しかし、ロメールは編集部をクビになりました。解雇したのはジャック・リヴェットでした。ロメールは突如無一文で放り出されたのです。その日、私も一緒にいました。ロメールは「よし、カイエのような雑誌をもう1つ作るとするか」と言いました。
私はこう返しました。「いや、明日、映画会社(Les Films du Losange)の設立申請書を出しに行きます。それが私のやろうとしていることで、あなたも一緒にやるんですよ」。21歳の時ですよ!それからあなたの作品や他の偉大な監督の映画を扱うと言ったんです。それは現実になりました。
swissinfo.ch:その協力関係はロメールが亡くなるまで続きました。彼にまつわる一番楽しい思い出を教えてください。
シュローダー:ええと、いっぱいあります…でも何かを撮影していたとき、確か「クレールの膝」(1970年)だったと思います…俳優が花を摘まなければならないシーンがありました。制作準備中、ロメールは映画で使うのに間に合うよう花を植えることを計画しました。撮影で必要な日にちょうど花が咲くように植え育てたのです。ロメールとの仕事では、映画の中の台詞を除けば、映画製作に即興の二文字はありませんでした。細部に至るまですべてが事前に整えられました。いつ、どこで撮影するかも正確に分かっていました。それはとても勉強になりました。
swissinfo.ch:ゴダールとはどんな関係でしたか?
シュローダー: 「カラビニエ」(1963年)で見習いアシスタントをしたのが最初です。共同制作の「パリところどころ」(1965年)ではゴダール担当分のプロデューサーを務めました。ゴダールは素晴らしい人で、とても知的で面白い人でした。
swissinfo.ch:昨年、ゴダールが安楽死したのをどう思いますか?
スイスインフォ:素晴らしいです、とても感心しました。とてもよく計画されていました。もし自分が同じ状況になったら、同じことをするでしょう。
swissinfo.ch:フレディ・M・ムーラーやダニエル・シュミットなど、同世代のスイス人監督たちとも交流があったのですか?
シュローダー:ダニエル・シュミット(1941~2006)は親友でした。彼の目を通してスイスを見て理解するのは、私にとって非常に重要なことでした。
swissinfo.ch:フランスのヌーベルバーグからハリウッドに移りましたが、この変化はどうでしたか?
シュローダー:いつも、ハリウッドに行くことを念頭に置いていました。私にとって、映画といえばハリウッドでした。そして、私の最初の映画「モア」もハリウッド映画でした。英語で、アメリカ人女優を起用したので、初の作品はもはやアメリカ映画だったと思っています。
swissinfo.ch:当時、カウンターカルチャー(対抗文化)にどれくらい興味を持っていましたか?
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swissinfo.ch:ハリウッドはあなたの期待通りでしたか?
シュローダー:もちろん!そこで映画がどのように作られるかはわかっていました。必要なものは何でも手に入り、そんな環境で映画を作るのは信じられないほど贅沢なことです。たいてい、お金がないまま映画を作ると必要なもののほとんどは決して手に入らないのです。完成した映画が自分の思い通りにならなかったら、決して映画を作らないでしょう。私のハリウッド作品はどれも、お金のためだけに作られたものではありません。
swissinfo.ch:今でもハリウッド映画を作りたいですか?
シュローダー:いいえ。特殊効果が好きではないからです。日がなブルースクリーンの前で特殊効果を作り続けるのは退屈です。もちろん素晴らしいストーリーと素晴らしい俳優がいれば、やる価値はありますが。しかし特殊効果を作るのに時間をかけるのが好きではないのです。ハリウッドはもう、特殊効果なしで映画を作ることはありません。
swissinfo.ch:「General Idi Amin Dada: A Self Portrait(仮訳:イディ・アミン・ダダ将軍の自画像)(1974年)、「Terror’s Advocate(仮訳:恐怖の擁護者)」(2007年)、「The Venerable W.(仮訳:傷つきやすいW.)」(2016年)と、現在「悪の三部作」として知られる作品にも取り組みました。他にも同様の映画を作ろうとしていましたか?
シュローダー:そうそう、他にも実現しなかった企画がたくさんありました。(カンボジアの)クメール・ルージュ(政権)とポル・ポトに関する企画もありました。元アルゼンチン大統領のイサベリタ・ペロンを題材にした企画も。彼女は「エヴィータ」と呼ばれたエヴァ・ペロン(元アルゼンチン大統領夫人)を真似できず、1976年の軍事クーデターで打倒されました。残念ながら、悪を理解しようとする主題は無限にあります。それでもやめてしまったのは、悪なんてない、悪は人間の一部だという結論に達したからだと思います。
swissinfo.ch:もし今、そのようなコンセプトで別の映画を撮るとしたら、どこに焦点を当てますか?
シュローダー:扱うべき人物がいます。(ウガンダの)イディ・アミン・ダダ将軍の後を継いだヨウェリ・ムセベニです。かなりひどい人ですよ。ウガンダであらゆる形態の同性愛関係を禁止する法律を可決したのです。アミン・ダダよりもさらに悪い。こうした法律を本当に可決する図太さ、あるいは弱さを持っていました。この流れはケニアなど他のアフリカ諸国にも広がりました。
swissinfo.ch:最新作では、芸術に対するあなたとリカルド・カヴァッロの見解を伝えています。あなたもアートコレクターなのですか?
シュローダー:少しずつ始めましたが、私のコレクションのほとんどはリカルド・カヴァッロの作品です。最近では、数年前に亡くなったスイス人芸術家、ユルク・クライエンビュールにも興味を持ちました。私にとって彼は全くの天才です。作品をいくつか持っています。
swissinfo.ch:アートに興味を持ったのは最近のことですか?
シュローダー:いいえ、もっと昔からです。きっかけは母がパリに移ったとき、子供たち、つまり私と私の女きょうだいの預け先がなかったこと。知り合いもいなかった母は、ルーブル美術館を託児所代わりに利用することにしたのです。その間ずっと、たくさんの展示品を見ることができ、私たちに強い印象を残しました。
英語からの翻訳:ムートゥ朋子
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