ジョアン・ミロ(1893~1983)。スペイン・マヨルカ島のアトリエ「ソン・ボテール」にて。1968年撮影
Francesca Català-Roca/Arxiu Històric del Col legi d'Arqui-tectes de Catalunya
色鮮やかに夢の世界を描いたスペインの巨匠ジョアン・ミロ。20世紀を代表するスイスの芸術家たちとの間には、シュールレアリスム(超現実主義)が結んだ特別な関係があった。
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2023/05/26 08:00
Carla Wolff
スイス・ベルン出身。スイスとスペインを行き来して暮らし、両方の社会を深く理解。文学と芸術を学び、マドリッドでヒスパニック哲学を卒業。
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Miró, Giacometti und Klee: eine surrealistische Beziehung
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Miró, Giacometti et Klee: une relation surréaliste particulière
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Miró, Giacometti y Klee: una relación surrealista
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Miró, Giacometti e Klee: uma relação surrealista
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میرو وجیاكومیتي وكلي: علاقة سریالیة من نوع خاص
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Миро, Клее и Джакометти: дружба и сюрреализм
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スペイン・バルセロナ出身のミロは、20世紀前半に始まったシュールレアリスム運動で最も影響力のあった芸術家として知られる。ミロの作品に繰り返し登場する、月や太陽、星、女性のシルエットのモチーフは、スイス・ベルンのパウル・クレー・センターで開催されている展覧会「Nouveaux horizons(新たな始まり)外部リンク 」(2023年5月7日まで)でも見ることができる。
だが、ベルン出身の画家パウル・クレーがミロの画風に与えた影響はあまり知られていない。ミロとクレーは生涯で19回、同じ展覧会に出品した。直接会ったことはなくても、互いに敬愛し合う間柄だった。
「Toile brûlée 2(仮訳:焦げたキャンバス2)」ジョアン・ミロ 1973年 燃やしたり切ったりしたキャンバスとアクリル絵の具で制作 縦130センチ、横195センチ
Successió Miró / 2022, ProLitteris, Zurich
ミロはかつて「クレーとの出会いは私の人生で最も重要な出来事だった」と語った。クレーもまた、折に触れて公の場でミロに賛辞を贈った。「子供のような」画風、狂騒の世界、サーカス、マリオネットは、両者の作風に共通する要素だ。ある意味、ふたりはいつも近くて遠い存在だった。
「宇宙的な世界」に到達したミロ
ミロは政治的にも社会的にも激動の時代を生きた。バルセロナで芸術の世界への第一歩を踏み出したが、彼の作品を形作ったのは、1920年代のパリ「狂乱の時代」、シュールレアリストの詩、ニューヨークの抽象表現主義、日本の書、そしてスペイン・マヨルカ島の穏やかさだ。
このようなキャリアの最終段階こそ、ベルンの展覧会の出発点だ。展覧会は1956年にマヨルカ島に定住したミロによる自己批判と新たな出発に焦点を当てる。ミロはそれまでの全ての作品を問い直し、未完成の作品に再び取り組むようになる。
新しい表現方法を摸索していたミロは、古典的な絵画技法と距離を置いた。絵筆をはさみなど別の道具に持ち替え、さまざまな布を用いた。巨大な彫刻も制作した。このような作風の変化は、展覧会に出品されている主に1960年代終わりから1980年代初めにかけての作品74点に見てとれる。
ミロとクレーの接近
クレーといえば、有名な絵画「Insula Dulcamara(仮訳:ドゥルカマラ島)」の明るい色使いや、「Fish Magic(仮訳:魚の魔法)」の魚のモチーフ、さらにはミロを思わせる目や顔、線が思い浮かぶ。
バルセロナの著名な芸術家サークル「クラブ49」が1957年に選んだ「20世紀最高の画家10人」の上位3人はピカソ、クレー、ミロだ。ジョアン・ミロ財団コレクション部門の責任者テレーサ・モンタネール氏は、「ミロ自身、インタビューの中で、(仏の画家)アンドレ・マッソンからクレーの複製画を初めて見せられた時に受けた衝撃を語っている」と指摘する。「それはミロの絵画が別の方向へ向かう1923年のことだった」という。
左:「Femme devant la lune II(仮訳:月の前の女Ⅱ)」ジョアン・ミロ、1974年。アクリル、キャンバス。右:「Femme devant le soleil I(仮訳:太陽の前の女Ⅰ)」ジョアン・ミロ、1974年。アクリル、キャンバス
Successió Miró / 2022, ProLitteris, Zürich
ミロはその後、足繁く通った多数の画廊でクレーの芸術に触れるようになる。1935年末のベルリン旅行では、ドイツの美術史家ヴィル・グローマンを通じて、分割・構成の技法で描かれたクレーの絵に出会う。ミロはこの技法に着想を得て、有名な連作「星座」を生み出した。
ヒエログリフと東洋の文字
ミロは1948年、パリの国立近代美術館で開催されたクレー回顧展に立ち会う。その影響は、古代エジプト文字ヒエログリフや東洋の文字を描いた作品に表れている。
パウル・クレー(1879~1940)
Walter Henggeler/Keystone
ミロがクレーの作品を深く知りえたのは、仏シュールレアリストの詩人ルイ・アラゴンやポール・エリュアール、ルネ・クルヴェルといった友人たちのおかげでもある。ミロは、多彩な活動を続けたハンガリー出身の仏写真家ブラッサイに、「クレーは私に、1つの斑点や1つのらせん、1つの点でさえ、顔、風景、記念碑と同じように絵画の主題になりうると気づかせてくれた」と語っている。
今、ミロとクレーがベルンで再び展覧会を共にしている。来訪者は2人の画家の類似点や相違点を発見できるだろう。
文通で結ばれた友情
ミロはパリで、パブロ・ピカソ、アンドレ・マッソン、ポール・エリュアール、米国の作家アーネスト・ヘミングウェイ、シュールレアリスム運動を開始した仏の詩人アンドレ・ブルトン、仏の画家マックス・エルンストなど多くの芸術家や作家、有力者たちと親交を深めた。
また、ミロがもう1人のスイス人芸術家アルベルト・ジャコメッティと初めて出会ったのもパリだ。この個人的にも仕事の上でも濃密な関係は、1930年代からジャコメッティの死まで続く。
ジャコメッティは主に彫刻で、ミロは主に絵画で表現するという本質的な違いはあるが、2人の芸術家はシュールレアリスム運動をきっかけに互いに影響し合った。幾度もの展覧会やビュシェ、ローブ、マティス、マーグといった名高い画廊を共にした。
「ミロは完璧だった」
ジャコメッティはミロへの賛辞を数多く残している。「私にとって、ミロは大いなる自由だ。これまで見たどの作品よりも伸び伸びとして、ゆるく、軽やかだった。ある意味、彼は完璧だった」
アルベルト・ジャコメッティ(1901~1966)
Franz Hubmann/Keystone
専門家の中には、ジャコメッティに最初に技術的な影響を与えたのはミロだとする見方もある。だが、ジャコメッティは1930年代には既に、ピカソ、ダリ、ミロといったキュービスムやシュールレアリスムの詩的なオブジェに関心を持っていた。一方、ミロは手紙の中でジャコメッティについて、「私が最も感動するのは君の人間の輝きだ。作品はそこから導かれる論理的結果に過ぎない」と書いている。
これはジャコメッティへの称賛の言葉だが、ジャコメッティがミロに与えた影響ともいえるかもしれない。ジャコメッティはミロについて、「彼は本物の画家だったので、絵の具で斑点を3つのせるだけで、キャンバスが生き、絵画になった」と語っている。その後も2人の友は手紙で賛辞を交わし続けた。ジャコメッティがマヨルカ島のミロを訪ねることもあった。
ミロの作品に通底するシュールレアリスムは、ジャコメッティの彫刻やクレー独自の分割表現に明らかに見てとれる。シュールレアリスムが3人の芸術家たちをそれぞれに特別な関係で結び、巨匠にした。
校正: Samuel Jaberg 、仏語からの翻訳:江藤真理
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ベルンのパウル・クレー・センターがオープンしてから10年。国際的なネットワークの支えもあり、同センターはようやくかつての悩みから開放された。同センターでは現在、開館10周年を記念し、同時代を生きた画家パウル・クレーとヴァシリー・カンディンスキーの展覧会を開催。世界的に見ても、これまでになく充実した内容となっている。
「2、3年に一度だけではなく、少なくとも1年に一度は集客力の高い展覧会を開催したい」と話すのは、パウル・クレー・センターのペーター・フィッシャー館長だ。「大きなインフラ設備が整っているのだから、それを生かさなければならない」
それと共にフィッシャーさんは、3年半前にディレクターに就任した当初から問題視していた二つの点を明らかにした。それは、たとえ画家パウル・クレーが近代を代表する画家であったとしても、一つのテーマに特化した美術館としてやっていくには、同センターは規模が大き過ぎ、またその運営にも費用が多く掛かるということだ。
「来館者数は、まだ低迷している」とフィッシャーさん。目指す来館者数は20万人だ。2014年の来館者数は16万6千人で、15年はさらに多くの来館者数を見込んでいるという。同センターが抱えていた悩みはもう過去のものになりつつある。
フィッシャーさんは「この10年間でパウル・クレー・センターの特徴が強化できたと考えている。同センターは新しい取り組みだったため、他から何かを採用することはできなかった」と話し、「開館当初から、専門分野において世界各国の美術館と協力するだけでなく、学会においても色々な貢献をすることで、同センターは国際的なポジションを得ることができた。国外で開催された、多くのパウル・クレー関連の展覧会にも関わってきた」と過去を振り返る。
そうした国際的なポジションの確立、他の美術館との交流や協力関係が、今ようやく実を結び始めた。一年ほど前にはロンドンのテート・モダン美術館で、また15年春には独ライプツィヒで行われたクレーの展覧会に協力。両展覧会は大きな反響を呼んだ。
日本では一般教養のクレー
パウル・クレー・センターは、日本の美術館とも深く結びついている。今夏には宇都宮市と神戸市で、同館所蔵のクレー作品を展示予定だ。「クレーは日本で広く受け入れられている。クレーは日本人にとても愛され、またよく知られており、モネやゴッホ、ピカソと同レベルの画家として位置づけられている」とフィッシャーさん。そのためか、同センターの外国人来館者数の3分の1、また夏のシーズン中はその半分を日本人が占めるという。
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