マッターホルンの初登頂から150年。実はこの登山隊にはツェルマット村のタウクヴァルター父子がガイドとして加わっていた。しかし、登頂は悲劇に終わった。4人が下山中に命を落としたからだ。そして2015年、このガイドの子孫が「新たな冒険」に挑戦する。山と村と自分たちの一家に深く影響を与えたこのできごとを再現する演劇で、先祖の役を演じるのだ。野外劇場で上演されるこの劇外部リンクは、今大きな注目を集めている。
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20代の1人の若者が、スイスアルプスのツェルマット村にある高級ホテルの床を大股で歩き、若い女性の両肩をつかんで、こう懇願する。
「僕のために、やってくれないか、バルバラ」
若者の名はダヴィッド・タウクヴァルター。重要な場面のリハーサルを、すでに1時間で10回ほど繰り返している。ダヴィッドさんは、スイスを象徴する山、マッターホルンの初登頂に加わったガイドの直系だ。この大掛かりな劇で、ガイドの息子タウクヴァルター・ジュニアを演じるという幸運を得た。父親のタウクヴァルター・シニアを演じるのは、ダヴィッドさんの実の父親だ。
ダヴィッドさんの相手役、婚約者のバルバラ・ザルツゲベーを演じるのは、ロメンヌ・ミュラーさんだ。
「父は50歳。僕は23歳で、登頂当時のタウクヴァルター父子とほぼ同じ年齢だ」と、その日のリハーサルを終えたダヴィッドさんは言う。
「この登頂の悲劇はよく知っている。家族でよく話してきた。だから、演じられることになってうれしい」
役を演じる父親と息子は、ツェルマットで一家が経営する信託会社で働いている。ダヴィッドさんの父のヨーゼフさんは、息子より無口なタイプだ。記者は数カ月前、劇の場面の公開読み合わせの場でヨーゼフさんに会った。
「息子も私も役にぴったりだった。年格好も同じで、タウクヴァルター家出身ということで、演出家は自然に私たちを選んだようだ」
今日、マッターホルン初登頂は、次のようなことと切っても切り離せない。それは、登山隊の中の4人が途中で命を落としたことと、死の原因となったロープがたまたま切れたのか、それとも意図的に切られたのかという問題だ。
古い話に新しい光を当てる
この初登頂に成功した英国人エドワード・ウィンパーが、その後書いた本(いわば英国人が書いたバージョン)から、タウクヴァルター父子についての話は切り落とされたのだろうか?父子の視点を取り入れた「もう一つのバージョン」がもっと語られるべきなのだろうか?
劇のキャストの中の数人は、父子の視点に取り組んでみたいと考えているし、脚本もそこを掘り下げている。
「1865年当時もそれ以降にも、さまざまな説があった」とダヴィッドさんは言う。「ロープが自然に切れたという説。下山の時にタウクヴァルター・シニアがロープを切ったという説。そして私たちが最も可能性が高いと考えるのは、マッターホルン頂上に立った初の登山家になりたかったウィンパーが登る途中でロープを切り、そのためタウクヴァルター・ シニアが下山の際に不適切な予備のロープを使わざるを得なかったという説だ」
150年がたった今でも、このできごとの真相はそれほど重要なのだろうか?やはりタウクヴァルター家の1人で、ヨーゼフ・タウクヴァルターのいとこのマティアスさんは、さまざまな可能性について詳しい調査を行ってきた。またドイツ語圏の公共放送(SRF)でも、犯罪調査のようにしてこの未解決の謎を探る全2回の番組が放送された。
「(何が起こったかについて)説明することができたのは、英国人のウィンパーだった。タウクヴァルター父子は英語を話せなかった」とダヴィッドさんは言う。「私たちにとってこの劇が大切なのは、彼らの名誉を回復するという意味があるかだ。この劇には、これまで知られていない側面が含まれており、それを見てもらいたい」
さらに、「これは私たちの物語を語るチャンスでもある。タウクヴァルター父子について書かれたものは何もない。ウィンパーの話はいたるところで読めるのに」
一方、演出家のリヴィア・アンヌ・リチャードさんは、物語の設定を「異文化の衝突が起こった」時代と表現する。「マッターホルンに大きな敬意を払っていた」ツェルマットの住民たちが、それに登ろうとやってきた英国人たちと直接接触することになったのだ。
リチャードさんもまた、ロープが切れた時に何が起きたのか、真実を知りたいと思っている。劇は「さまざまに異なる説を示す」という。
素人俳優を多数起用
リチャードさんはこの公演のために35人のキャストを集めた。5人はプロの俳優で、残りはツェルマットの一般市民だ。初めて舞台に立つ人もいる。しかし7月には、世界中から集まった何千人もの観客を前に、巨大な野外劇場で演技することになっている。牛やロバなど、動物まで登場する予定だ。
「プロの俳優を35人雇うのは資金的に不可能だ」とリチャードさんは笑う。「でもそれだけでなく、出演者がプロだけではない舞台はとても新鮮だ。特に2人のタウクヴァルターさんの出演は素晴らしい。プロの俳優では表現できない真実味がある」
この劇の実にスイスらしい点の一つは、複数の言語が話されることだ。標準ドイツ語、英語、ツェルマットのあるヴァレー州で話されるスイスドイツ語の方言が入り交じる。
「言語については何も変える必要がなかった。人々が相手と何語で話していたかを想像して書いた」とリチャードさんは説明する。
当時のツェルマットの人々は、英語と言えばいくつか単語を知っている程度で、それほど話せなかった。そのため、劇中で英国人に対しては標準ドイツ語で話す。
それを聞いた英国人は、理解したことをグループの人々に通訳する。そこに推測が含まれていた可能性は高い。
リチャードさんは言う。「誤解があったということも、そしてこの誤解が悲劇の一因だったということも、劇のテーマの一つだ」
(英語からの翻訳・西田英恵 編集・スイスインフォ)
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有名ブランドを守る独占的ガイドコミュニティー
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ツェルマットの山岳ガイドたちは誇り高く、よそ者をなかなか受け付けない。そんな彼らが築いてきた文化は、19世紀後半から冒険を求める旅人を引きつけてきた、難攻不落といわれたマッターホルンに通じるものがある。
まるで恐竜の歯のような現実離れした姿で、ツェルマット村の上に高くそびえるマッターホルン。まれに見る完璧な構造の山だ。
この地域には、マッターホルンのほかにも4千メートル級の山々があり、強烈な魅力で人々を引きつけてきた。山岳ガイド組合はこうした人々の対応に努めるとともに、組合の結束力も維持してきた。地元のギルド(中世の同業者組合)のようなこの組合には100人弱のアクティブメンバーがいる。外部から入るのが難しいことで知られる。
スイスの有名登山家たちはおそらく、マッターホルンの原型的な美にはあらがいがたい魅力があると言うだろう。地元の山岳ガイド組合は毎年、頂上へ登りたいと望む大勢の人々で潤っている。「マッターホルンを見れば、頂上へ登りたいと思うものだ」と、世界中で新たな登山ルートを開拓してきたプロ登山家兼ガイドのロジャー・シェーリさんは話す。
よそ者お断り
ツェルマット出身ではないシェーリさんは、ここはよそ者にとっては働きにくい場所だと考えている。「ツェルマット出身者でなければ、かなり大変だ」。ツェルマットの山岳ガイドたちは村では尊敬の目で見られている。マッターホルンなどの登山ルートを隅々まで熟知しているためだ。そんなガイドたちをシェーリさんは「地元のスーパーヒーロー」と呼ぶ。
これまで、約500人がスイス側で、イタリア側では200人が命を落とした。しかし、マッターホルンで山岳ガイドがついていた場合の事故は少なく、ガイドなしの登山隊が事故に遭うケースが多いと、シェーリさんは言う。
「ツェルマットのガイド文化の歴史は長く、逸話も多く、素晴らしいものだが、一方で非常に閉鎖的で、地元ガイド以外の人間がツェルマットでガイドをするのは難しい。しかも地元ガイドたちは非常に保護主義的だ。これはある意味、健全なことだ。この資源を非常に大切にしているということだから」。米国の教育者であり、四大陸でベテランの山岳ガイドとして活躍し、米国山岳ガイド協会の会長を務めたマット・カルバーソンさんはそう話す。
金のなる木
初登頂が達成される以前から、ツェルマットにはアルプスの魅力に引かれて登山やハイキングにやってくる観光客が増えつつあり、スイスの農家はそこから利益を得るようになっていた。
しかし、マッターホルンに登るのは不可能だとか、悪霊が住んでいるなどと広く考えられており、ツェルマットの山岳ガイドにはこの山を避ける人たちもいた。だが、皆が皆そうだったわけではない。
スイス人農夫で山岳ガイドでもあったペーター・タウクヴァルターのように、冒険心に富んだ一部の者は、スイスとイタリアの国境にまたがるマッターホルンの登頂は可能だと考えていた。登山の黄金期に、マッターホルンは誰もが憧れる存在になった。
石工で山岳ガイドだったイタリア人ジャン・アントワーヌ・カレルはイタリア側から登頂を試みたが、失敗に終わった。初登頂を成功させたのは、ツェルマットの山岳ガイドだったペーター・タウクヴァルター父子と英国人登山家エドワード・ウィンパーの3人で、1865年のことだった。この登山にはほかにも登山者が同行していたが、あえなく命を落とした。
スイス側からヘルンリ尾根を登るルートはタウクヴァルター・シニアが開拓したもので、現在は標準的なルートとなっている。
世界的に有名に
ウィンパーの手柄でかすんでしまったが、カレルもその3日後に第2回登頂を成し遂げた。初登頂をきっかけとして、登山は名誉ある、死と隣り合わせの魅力を放つものと見なされるようになり、マッター谷とその上に位置するツェルマットは一躍世界的に有名になった。
国際的に知られるようになった山村のツェルマットは現在、ホテルの宿泊日数でいえば、金融とビジネスの中心地ではるかに規模の大きい国際都市チューリヒとジュネーブに次いで第3位となっている。
ツェルマット観光局のエディット・ツヴァイフェルさんによると、マッターホルン初登頂はアルプス登山の人気の火付け役になり、それ以来、ツェルマットとマッターホルンは世界的なブランドになったという。今では毎夏、3千人の登山者が訪れる。
ガイドの実情
夏と冬の観光ブームにあやかり、スイスの山岳ガイド産業は軌道に乗った。しかし、ウィンパーが語った初登頂の悲劇は、山岳ガイドたちの間に深い傷を残した。「それでも、ツェルマットにとってアルプス登山は中心的位置を占めている」とツヴァイフェルさん。
家族のいる若い山岳ガイドは、子どもと長い時間離れたくないがゆえに、日帰り登山にこだわる場合もある。しかし、天候に左右される商売ゆえ、お金を稼がねばというプレッシャーも感じるかもしれない。
「家族がいる場合、ガイドとしてやっていくのは簡単ではない。お金持ちにはなれない」と、タウクヴァルター父子の直系の子孫であるジャンニ・マッツォーネさんは言う。ただ、山岳ガイドとして働いていた先祖はもっとずっと大変だったことも理解している。
「一般的に、今の時代にガイドとして働くのは昔よりはるかに簡単だ。装備の点からいっても、昔はアイゼンもなかった。想像できるかい?ピッケルはあったが、重くて長いものだった。衣類も重かった。今より大変だったことは間違いない。また、顧客を獲得するのも難しかった。列車は谷の下の方までしか来なかったので、ガイドたちはそこまで歩いて下りていって一泊し、顧客集めのために宣伝もしなければならなかった。顧客の大半は英国人だった。ガイドの多くは牛や羊といった家畜を飼っていたので、父親が山に登る間、誰かが世話をしなければならなかった」
残された家族は、ガイドが帰ってこないのではないかと毎日心配して過ごすことも多かった。しかし、ガイドという職業の危険性は必ずしも減ったわけではない。今は山に簡単に行けるようになった結果、天気がよければ週に7日、顧客とともに登山に出ることもある。つまり、ガイドに疲労がたまり、危険にさらされる頻度が上がる可能性がある。「マーフィーの法則のようなものだ」と、マッツォーネさんは半分冗談で言う。
「私は今も仕事への意欲は高い。しかし結局のところ、何よりも大切なのは顧客を山から無事に連れて帰ることだ。銀行の口座残高を増やすことではない」
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