「太陽が落ちた日」、広島と福島をつなぐ反核を人の生き方で描く
ロカルノ映画祭のドキュメンタリー部門にノミネートされた「太陽が落ちた日(THE DAY THE SUN FELL)」は、原爆投下時に広島赤十字病院の医師だった監督の祖父を映画製作の出発点にしながら、当時の看護婦や肥田舜太郎医師の「原爆のその後を生きる姿」を丁寧に紡いでいった作品だ。チューリヒ在住のドメーニグ綾監督(42)は、「娘や孫のために作った。私の家族の歴史であり、同時に反核を含む私の哲学が凝縮している作品」と語る。広島と福島をつなぐ重いテーマでありながら、登場人物がユーモラスに生き生きと描かれる。
祖父の土井茂さんは、広島赤十字病院(現在、広島赤十字・原爆病院)の内科医だった。当時、広島市から70キロメートル離れた実家に家族で疎開し、病院まで電車で通っていた。あの8月6日の朝、電車に乗って出勤する途中できのこ雲を見る。電車が停止し歩いて広島まで入った後、10日間家に帰ってこなかった。「帰ってきたと思ったら畑に出てトマトなどをもいで食べていたわね。新鮮な野菜が欲しいと言って。でも、原爆については一言も話さなかった」と映画の中で、祖母の清美さんは言う。
だが病院の現場は、当時の看護婦たちによれば「治療の手段もなく、身体が生きながら腐敗し、いたるところから出血して次々と亡くなっていく人々の遺体を焼き続ける作業が一カ月続いた」。
広島と福島がつながった
「原爆は体験した人にしかわからない。言葉にしても意味がない」とドメーニグ監督に語ったという、この祖父が映画製作の出発点になる。祖父は、当時のことに関し口をつぐんでいただけではなく、初期に肝炎を、その後脳梗塞を20年近く患い1991年に亡くなってしまう。ならば、祖父と働いた日赤の元看護婦たちを探し、彼女たちに原爆投下後の祖父の様子を聞こうと思い立つ。そして2010年、祖父について語ってくれる祖母や元看護婦たちの撮影を開始する。
しかし、看護婦たちから詳しい話は聞きだせず、他の過去の体験を語ってくれる人たちも「原爆は過去の悲惨なできごと」として終わらせ、現在とのつながりを失っていた。「個人史の映画はできても、原爆を掘り下げ、それを現在に生かす映画はできないのでは?」とあきらめかけていたその翌年、福島の原発事故が起きた。
「原爆は原爆。原子力の平和利用は別だと言ってきた何人かの被爆者たちが、福島で同じことが繰り返されていると気づき、東京電力を批判し始めた。日本人全体も、集団的潜在意識の中に眠る広島を取り戻した」
もともと、「原子力は人類を破壊するもの」という意味で核兵器にも原発にも反対だった監督の中でこの2011年、映画製作がはっきりと決まった。「福島で広島の重要性が浮かび上がった。広島は『過去の悲惨な体験』ではない。現在も内部被曝に苦しむ人がいる。また福島は放射能汚染という意味では広島以上のもの。同じ内部被曝の被害が繰り返される。『祖父を、広島を軸にしながら今の福島も描く』という構想ができた。これでスイスでも製作会社が探せると確信した」
長い時間をかけ撮影する「人類学的手法」
映画「太陽が落ちた日」は、アメリカの進駐軍が被爆者などを撮影したカラーフィルムの中に、原爆で赤十字病院のドアが崩れたことを(ドアを動かしながら)説明する祖父が偶然映っている場面を、監督が祖母に見せるシーンから始まる。「これ、おじいちゃんじゃない?」「あっ、そうね。若いときのおじいちゃんだわ」と清美さん。輝くような驚きの表情だ。
4年間の撮影に付き合い2013年に亡くなった清美さんは、無言だった夫・茂さんの存在を彼が残した短歌や写真に解説を加えることで蘇らせていく。さらに、清美さんが仏壇に静かに手を合わせる姿やリハビリを受ける日常の姿などは、「原爆のその後」を忍耐強く生きた、優しい「1人の広島の女性のあり方」として観客の心に刻まれる。
一方、原爆投下後に赤十字病院の看護婦として働き内部被曝した内田千寿子さんは、祖母といわば対照を成す「主人公」だ。92歳で今も有機農業をしながら原爆体験を本にし、小学校に講演に出かけ、チェルノブイリにも行ったという「活動家」。そして、福島の原発事故後は、福島からの避難者を受け入れたりする。
この活動家が小柄な身体で、どくだみの葉を栽培してお茶にし、「これは内部被曝を助けるから福島の被爆者に届けたい」と関係団体まで、(ふらつくような足どりで)自ら運んでいく姿は圧巻だ。この人は、人生の最後まで看護婦であり、「人道愛」の人なのだと見る人の心を打つ。
この内田さんが実にユーモアに富む。古い写真を監督に見せながら「泣いたような顔だったので、母親がお嫁にはいけないと言ったけど、この20歳のころの顔はけっこう美人だね」と言って、観客を笑わせる。収穫した麦をミキサーにかけるシーン。動かないミキサーをドンとたたき、「きょうはこれも調子が悪いね」と言った瞬間、ミキサーが動きだす。
映画には、こうした日常のシーン、しかも何年にもわたって撮影されたことが感じられるシーンがたくさん織り込まれる。そのことで、原爆体験ないしは反核という重いテーマが「ふわり」と描き出され、その軽さゆえにかえって深く心に入り込んでくる。
このことを監督は、「社会・人類学を学んだために、対象の『観察』や撮影に時間をかけてしまう。4年も時間を費やした。しかし、人物の活動や生活などを細かく追いながら、時間を通して世界観というか、もっと大きな『真実』のようなものを伝えていく手法になった」と言う。この「人類学的手法」は、初めからある主張を表現するために、対象を撮影していく手法とは正反対なのだという。
内部被曝がもう一つのテーマ
内田さんと並ぶ重要な主人公が、原爆での内部被曝の被害を訴え続け、福島の事故以降はさらにその声を高めている、98歳の肥田舜太郎医師だ。「原爆で本人も内部被曝し、一時体調が悪かった。でも福島以降は前より元気になった」とドメーニグ監督。そして、「広島が福島とつながったのは、内部被曝の存在をその治療体験から主張する肥田先生と出会えたから」と言う。
こうして内部被曝は、作品全体を貫くもう一つのテーマとして描かれる。そして祖母の清美さんに、「おじいちゃんが脳梗塞にかかって20年も苦しんだのは、実は内部被曝のせいだったのかもしれないね」と言わせている。(実際、現在では心臓疾患と脳梗塞は、内部被爆が引き起こす疾患の一つとして知られている)
今の肥田さんの日常は講演で埋め尽くされている。そのため、新幹線での移動や講演そのものが、ここでも「人類学的手法」で映画に織り込まれる。だが、肥田さんのユーモア溢れる人柄も監督は見逃さない。ある講演で「日本の男性は民主主義の意味を理解していない。主権は国民にあるという民主主義の本質を理解し、核を廃絶してこの国を救うために立ち上がるべきだ」と言ったうえで「女性のほうがこうしたことを理解している。ところが、日本の男性は家庭で威張っている。そこで私も反省して、朝ごはんだけは妻のために作るようになりました」と言って観客を笑わせる。
今後ドメーニグ監督は、こうした人々との出会いをさらに膨らませて「反核的」ドキュメンタリーをまた制作する予定なのだろうか?
ロカルノ映画祭直前まで字幕の翻訳に苦しんでいたという監督。「今は力尽きて何も考えていない。この映画ができるだけ多くの人に見てもらえることだけを願っている」と答えたうえで、「特に日本で多くの人に見て欲しい。意識が変わらないと何も変わらない。それは、過去のことを語ってこそ本当の自分になれるという肥田先生の『哲学』なども含めての意識改革だ」と力を込めた。
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