1973年のオイルショック、スイスはどう切り抜けたか?
1973年、オイルショックに直面したスイスでは節電が呼びかけられ、油井やぐらが建てられ、1999年にエネルギー法が制定された。現在行われている危機対応もこれらの施策が根底にある。
今年2月にロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナに侵攻し、石油と天然ガスの蛇口を閉めると脅迫したことで、1973年の石油危機との類似性が取り上げられている。
このような振り返りは無駄とはいえないだろう。当時もアラブの石油産出諸国による圧力があり、欧州の各国政府は暖房用と動力用の燃料消費を控えるよう要請した。
1973年:日曜日のドライブが犠牲に
1970年代初頭、西側社会のエネルギー需要は特に低価格化が進んだ石油を筆頭に頂点に達していた。それは1945年を境に起こった劇的な意識転換の結果であり、西側社会の戦後世代の期待値はどんどん高まっていた。二度の世界大戦で経験した物のない不自由な生活、倹約や自粛は過去のものとなり、豊かな暮らし、自主独立、快適さが求められた。セントラルヒーティングや自家用車は新時代になくてはならないステータスシンボルとなった。
1940年と80年を比較するとスイスのエネルギー消費は倍増し、石油系燃料の消費量に至っては10倍に達している。西側工業国の消費者はいつでも当たり前のように石油製品が手に入るようになった。
ところが1973年、戦後20年近く続いた成長神話に突然終止符が打たれた。エネルギー危機は経済成長のエンジンを止めただけではない。スイスでは連邦内閣が日曜日を自家用車の使用を控えるノーカーデーにするよう呼びかけ、やがて車の走らない道路で楽しむ散歩が全国に広まった。同時に西側社会のほぼ全域が深刻な政治危機、経済危機に見舞われた。
なぜこれほど急激に石油不足に陥ったのか?すでに1970年から、石油輸出国機構(OPEC)は石油価格を徐々に引き上げていた。広く需要があって高く売れる資源の価格を産油国で決め、自分たちの利益を増やすことが狙いだった。自国領土の天然資源をいつまでも国際資本の好きなようにさせておく気はなくなった。
1973年10月、第四次中東戦争を受けて、OPECに加盟しているアラブ諸国は石油供給量を長期にわたり大幅に削減すると脅した。エジプトとシリアは1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたゴラン高原とシナイ半島の奪回を目指したが、戦局は不利に傾く。そこでOPECはイスラエルがこれら占領地域を返還するまで石油産出量を大幅に削減すると発表した。これにより西側社会はイスラエル支援の継続を断念するよう強いられる。
石油供給量の減少という脅威に価格高騰が加わり、西側諸国は耐えがたい屈辱を味わった。これは恐喝であり「石油兵器」の使用だとの声も上がった。新聞各紙は厳しい時代になるとして中東の軽率な石油王たちを非難した。だがこれらの出来事は、石油消費国のエネルギー政策が予測不能な未知の地域に一方向に依存していることを浮き彫りにした。また「黒い金」の異名を持つ石油が無尽蔵ではないことも明らかになった。
今日につながるエネルギー政策が誕生
実はオイルショック当時も石油は足りていたというのは、今では周知の事実だ。スイスでも他の国々でも供給は確保されていたが、産油国が原油価格を4倍に引き上げたため価格が高騰した。真相はオイルショックならぬ「オイル価格ショック」だった。そのため、1973年を起点として多くの国で包括的な構造転換が起こり、各国そして国際的なエネルギー政策が再編された。
スイスでは連邦内閣と議会がエネルギー政策の刷新を決定し、初期の段階で最初の緊急措置が実行されている。日曜日のドライブ禁止に加え、アウトバーン(高速道路)の制限速度が時速100キロメートルに引き下げられた。軍の石油消費も制限され、住宅の断熱性能向上や暖房温度の抑制などが提唱された。
1974年、おそらく最も重要な対策として連邦内閣は「スイス連邦総合エネルギー構想委員会」を創設した。その任務は国のエネルギー政策の方向性を示し、連邦政府の権限を拡大するエネルギー条項が必要かどうかを検証することだった。
1978年に提出された最終報告書では、将来のエネルギー政策について次の3つの目標がまとめられた。
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十分な量のエネルギーを確実に供給する
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国民経済の観点から最適なエネルギー価格を保証する
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人間とその環境を保護する
委員会はさらに、エネルギー条項を憲法に盛り込むことを連邦に推奨した。そうすれば連邦の市場介入権限が強化され、連邦国家としてのエネルギー政策をさらに活性化するための基盤が整えられるとした。
長年にわたる努力の末、1990年にようやくこの憲法条文が採択され、1999年1月1日付でエネルギー法と政令が発効した。千年紀の変わり目を目前に、連邦レベルのエネルギー政策が初めて確立された。これにより現在の連邦はエネルギー政策に関して十分に采配を振るうことが可能となっている。
成長の限界
1973年のオイルショックはエネルギーとの付き合い方を考え直す重要なきっかけになった。70年代始め、「成長の限界」(民間のシンクタンクであるローマクラブが発表した報告書のタイトル)や環境保護の必要性を巡り、初めて公の場で激論が交わされた。
またオイルショックは人々の意識を高め、工業化に伴う輸入エネルギー源への依存が問題視されるようになった。自給率を高める取り組みの一環で、国内の油田探索が活発化した。
何度も試掘が行われ、石油こそ見つからなかったが、スイスの地下には天然ガスが埋蔵されていた。ルツェルン州のフィンステルヴァルトでは実際にガスが採掘された。1985年から94年にかけて得られた天然ガスの総量は、国内需要1年分のわずか4%にすぎない。
だが調査や試掘などさまざまな試みが行われ、成功例は少ないものの探鉱の土台は築かれた。迅速な対応が求められる今日、このような土台がすでに存在する意義は大きい。またスイスでは90年代から気候危機対策としてエネルギー消費と化石燃料使用をいかに削減するかの議論が続いてきた。
プーチン氏の戦争行為によってこの議論は激しさを増している。独裁的な国々へのエネルギー依存度が高い限り、エネルギーの安定供給は危ういままだ。たとえ完全な自給ではなくても、エネルギー効率とエネルギー充足度の向上も含め、太陽光、風力、水力、地熱を使ったエネルギー自給に向けて努力を重ねることは、平穏な時代の道楽ではない。欧州国家連合で解決しなければならない安全保障政策上の課題にほかならない。
独裁体制への依存度を下げることは、エネルギー安全保障と同義であるだけではない。エネルギーをどう確保して保証するのかを決める「主権」の問題なのだ。
歴史家のモニカ・ギースラー(Monika Gisler)氏はエネルギーと環境に関して多数の著書があり、連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)、チューリヒ大学、および自身の歴史研究所(www.unternehmengeschichte.ch)で研究・指導を行っている。
独語からの翻訳:井口富美子
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