「結果的には私たちを団結させてくれたこのウイルスについて、読者が私と同じように、笑い、考え、愚痴をこぼし、泣いて楽しんでくれると嬉しい」。風刺イラストレーターのヴァロットさんは、最近出版した風刺画集「Terrien, t’es rien !(仮訳:地球人よ、君は何でもない!)」にそうつづる
Murtaza Zeraati
今後数カ月間、いや数年間は新型コロナウイルスに関する多くの本が出版されることだろう。それを待つ間、ここではヴォー州出身の風刺イラストレーター、ヴァロットさんの的を得た味わい深いイラストを見てみよう。
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2020/08/21 08:30
2020年3月24日。「新型コロナウイルスの犠牲になった最初の超大規模イベントは東京五輪・パラリンピック。ずっと日本の版画家、葛飾北斎が大好きだったので、この機会を逃すことなくあの有名な富士山の風景を描いてみた」(ヴァロットさん)
Valott
それはアメリカ同時多発テロ事件が発生した2001年9月11日のようなもので、誰もが2020年の春に何をしていたかを覚えていることだろう。それぞれの思い出に加え、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)とそれに伴う外出自粛が私たちの記憶の「絵本」を色付けた。吸盤状の突起物が並んだ赤い球体の新型コロナウイルスが確認された今年1月半ばに、サージカルマスクやトイレットペーパーをめぐって大騒ぎが起きると誰が想像しただろうか?
時代の象徴を捉える-それも風刺画家の仕事。紙と鉛筆を持って自宅に閉じこもるのもある意味、彼らの普段の姿だ。だからと言ってヴァロットことジャック・ヴァロトンさんは、ある朝目覚めて、「やった!パンデミックだ。これを本にしよう!」と思ったわけではない。電話取材に対し、「私にはそんなご都合主義なところはない。パンデミックがいつまで続くのか誰にも分からない中、新しいイメージ画も出てきていた。それでイラストを描いた」と話した。
「このタイトルは自作でなく、ベルギーの作家ジャック・シュテルンベルクから借りたもの。彼のこの格言(『Terrien, t’es rien !(仮訳:地球人よ、君は何でもない!)』)が昔から好きだった。この言葉は全ての権力の場の壁面に記載されるべき」(ヴァロットさん)
Editions Favre
描いたイラストは数えきれない。今日、ヴァロットさんは自分の風刺画が掲載された新聞の発行日を待つ必要はなくなった。SNSでいつでも公開できる。だが出版社ファーブルのイラスト本発行となると話は別だ。それは偶然の成り行きだったと明かす。「兄のローランが鳥類学者で、ファーブル社からスイスの鳥類全書を出す準備をしていた。その連絡先を私にくれたのだが、驚いたことにすぐにOKが出て、絵の選択からレイアウト、テキストまで、私の自由にさせてくれた」
だがテキストを書くのは「私の得意とするところではなかった」と言うヴァロトンさん。友人からは無類のおしゃべり好きだといわれるそうだが、1時間の取材を終えて納得した。時間が経つのも気づかせないほどヴァロットさんは本当に話好きだ。それにとても情熱的で博学で、格言や劇作家サシャ・ギトリの言い回し、ベルトラン・ブリエ監督の決まり文句、ブレルやブラッサンスの詩の愛好家でもある。
だがこのイラストレーターは自分を文筆家だとは思っていない。大概の場合、言いたいことを絵が代弁しているからだ。この分野ではむしろ珍しい。「特にフランスでは、メディアの風刺画は大抵はジョークを絵にしたものが多い。まるで観衆を目の前にしたスタンダップコメディ(即興話芸)のよう。それが当たり前になりすぎていて、作者が意図的にテキストなしのイラストを出すと、新聞社は絵の下にわざわざ『テキストなし』と入れなければと思いこんでいるほどだ」
2020年3月27日。「この絵は私にとって、完全に明白な事実だった。この絵が頭に浮かんだとき、もうきっと誰かが先に描いているはずだと思った。でも違った。私はコロナによる被害をこんな形で表現するほうを好む。泣かせるようなものは好きじゃない」(ヴァロットさん)
Valott
ヴァロットさんは、スイスのフランス語圏の2人の師から影響を受け、もう一つの伝統を受け継いだという。ヴォー州の日刊紙ヴァントキャトラー(24 Heures)でともに働いた風刺画家の故レイモン・ブルキ氏(メディアイラストレーターの『ゴヤ』と呼ばれた)と、人間の小ささをモノクロ画で表現する水墨画家、マーシャル・レイター氏だ。この2人もテキストを必要としなかった。「スイスでは複数言語が話されているからだろう。イラストを誰にでも理解してもらおうと思うなら、視覚的にインパクトがあった方がいい」(ヴァロットさん)
そう言うヴァロットさんも視覚的にかなり長けている。この風刺画集のページをめくり、彼のキャリアをみていると、絵に対する豊かな知識があることが分かる。イラストの中では決して強調されず、さりげなく表れている。あらゆる源から吸収された知識は、幼少期に見たコミック本だったり、彼が盲目的に崇拝するキューブリック監督の作品だったり、古典的な巨匠からだったりする。110ページの中には、モネ、ゴッホ、マグリット、ダリ、ダ・ヴィンチ、アンディ・ウォーホールが見え隠れする。
2020年4月19日。
Valott
確かにテキスト付きのイラストもある。「『塗り絵集』のような本を作りたくなかった。テキストのために最初は何人かのスイスのコメディアンを思い浮かべたが、うまくいかなかった。だから自分自身で書いた」(ヴァロットさん)。短く、切れ味の良いテキストは、話というより写真のキャプションに近く、全体をうまく補っている。
2020年3月25日。トイレットペーパー不足の始まり。珍しく文章付き。子供向けユーモアだと言っているのは誰?
Valott
そもそもパンデミックを笑いの種にしていいものか?ヴァロットさんにとって答えは明白だ。「笑いとは、死を避けられない人間が自分を慰めるために考え出したもの。(新型コロナでは)12歳以上の子供がみんな亡くなるというような病気ではないことが最初から分かっていた。強いて言うなら、これは最悪の大災害ではないということも。世界では毎日2万5千人が飢えで亡くなっていること、その3分の1は子供たちであることを忘れてはならない。飢えに対する『ワクチン』は見つかっているのにだ。だが、どうやら飢餓には、その対策に出資するだけの重要性がないようだ…」
ではこれはブラックユーモア?それとも教示的なイラストなのか?それについて作者は何も言わない。儲け主義者の貪欲さや権力者の傲慢さを描くような批判的なイラストでも、ヴァロットさんの絵には悪意が見えない。「私が面白いと思うのは、視覚的、感情的な衝撃を引き出すこと。そのうえそれが知的ならば、それはもう聖杯に達することが出来たようなもの」(ヴァロットさん)
2020年4月4日。マスクが札束のように売られていた時…。
Valott
風刺イラストレーター・ヴァロット、ジャック・ヴァロトンさん
スイス国内外のフランス語圏ではもはやヴァロットさんが誰かを紹介するまでもない。彼のイラストが国民的なものになってから40年近くになる。18歳で出版した最初の風刺画集「Swiss Monsters(スイス・モンスターズ)」は1985年のベストセラーになり、1999年に誕生した「Mumu Cow(牛のミューミュー)」は、今日500万点以上のグッズが販売されている。小人(仏語で『Nain(ナン)』)を主人公にしたイラストと言葉遊びの本「Nainconnu – le livre le plus nainportant depuis la nainvnetion de la nainprimerie(仮訳:ナンコニュ、印刷術が発明されてから最も大切な本)」がよく知られている。
その他にも、ローザンヌのオリンピック博物館の公式マスコットのデザインを手掛け、アニメ「LesTifous(レ・ティフー)」ではベルギーの漫画家アンドレ・フランカンに協力。スイスの漫画家コゼーとイラスト本を作成し、作品「Tifeuf(ティトフ)」で知られる友人漫画家ゼップの依頼でベルタン・レーマンと共に「コーポレート・アイデンティティ」を制作した。
仏語圏の新聞読者には、日刊紙ヴァントキャトラー(24Heures)やル・マタン(Le Matin) の風刺画でなじみが深い。最近はル・マタン電子版の短編ビデオシリーズ「Tableau Nor(黒板)」でも知られている。
2020年4月8日。テキストなし
Valott
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福島で震災が起きてまもなく6年。震災後の福島の様子を伝えようとするスイス人がいる。ジュネーブに住むマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさん。津波被害のあった海岸地区に未だに残る荒廃した光景や、福島第一原発事故により避難指示のあった町村へ帰還した人々の「生きる姿」を、イラストと写真を交えた「波の後―福島周辺」と題する本に映し出して海外に伝える。
福島では政府が提案していた避難指示が次第に解除され、帰還困難区域における復興政策が推し進められる。そんな中、イラストレーターのベルトさんは福島第一原発から15キロ圏内の立ち入り禁止区域に入り、「普通なら誰も行かない場所」での光景を白黒で、質朴な線で「事態の重大さ」を表現する。そして、一緒に報道の旅をした写真家のディ・シルベストロさんは、震災の跡をたどり、写真家にとって「誇張することのない現実」をカラー写真で紹介する。2人は『波の後―福島周辺』で、廃墟と化した町並みと共に避難解除によって帰還した住民がそこで「生きる姿」を紹介する。
まず目を奪われるのは、2014年3月に南相馬市小高区で撮った津波の威力を見せつけられる写真。津波によって三角形の防波堤のコンクリートが内陸3キロメートルのところまで打ち上げられている。この地域では、「ただ冷たい突風が吹いていて、壊れた家を吹き抜ける風の音が響き、たまにカラスの鳴き声があった。それ以外には何も無かった」と振り返って話す。そして、この放射能で汚染された地域で、ボランティア活動でゴミを拾う高齢者の方々に出会った。「荒廃した土地で一生懸命に掃除をするハノイさんという80代の女性に会った。『この土地で再び耕作することができるよう、後世代のために』と言って、何千年もかかるであろう無意味とも言える努力をしていた」とディ・シルベストロさんは語る。「しかし、この女性には普遍の笑顔があり、尊厳を感じた」とベルトさんが付け加える。
さらに2人は、「たとえ健康被害への危険性が高くても、将来への希望を持って、悲劇の後に再編成しようとする人々の日常生活」を描写する。当時、小高町で唯一開いていたという店での写真は、90歳近い女性が、客のいない店を清掃している。「店を閉じていてもしょうがないでしょ。生活が人生をもたらすのよ」と語ったのが印象的だったともディ・シルベストロさんは話す。
陸前高田でのイラストは、父親が赤ちゃんを抱きかかえ、母親が子供の手を引いて道路を渡ろうとする家族で、一見すると普通の日常の風景。だが、ベルトさんによると、背景にある海辺のカフェは震災の津波で完全に損壊したが、再び同じ場所に同じように再建されたもので、若い家族のシーンからは「生を感じて」描いたのだという。「イラストなので、角度を変えて時間をかけて何枚も撮る写真とは違って、さっとその場で感じたものを瞬時に描くことができた」
この報道をするため、何日間も「低放射能といわれる時期」を避難地区で過ごしたという2人。「危険でないとは言えない思う」と明かす。「低放射能を浴びるということで、今は健康被害がないかもしれない。でも、次世代への影響は分からない。分からないからこそ、危険だと思っている」と言う。
「この本は、人類がこれから先に抱えていく『課題の始まりの一つ』をちょっと報告するだけーー」
1969年にはスイスでもヴォー州リュサンの原子炉研究所で放射物質漏れが起きたことを忘れないで欲しい、と写真家は願いを込める。
『波の後―福島周辺』(Notari社出版)
ジュネーブ在住のマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさんが、震災後のフクシマの様子を白黒のイラストとカラー写真で伝える。ディ・シルベストロさんは、2013年3月から定期的に被災地を訪れているが、撮影は2014年3月にベルトさんと一緒に報道の旅をした時のもの。この本は、3月1日よりスイス仏語圏の書店で販売されているが、4月29、30日にジュネーブで開催されるブックフェアで紹介される。来月からはフランスを始め、カナダやベルギーの書店でも販売される予定。*3月11日には「波の後―福島周辺」に掲載されている写真とイラストの一部をギャラリーで、10カ国語にてご紹介します。
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名作「ウルスリのすず」出版70周年 芸術家カリジェに光をあてる
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2015/07/28
絵本「ウルスリのすず」は原作に使われたロマンシュ語の他に、英語、日本語、アフリカーンス語など、幅広い言語に訳され親しまれている。こうした絵本の人気にも関わらず、もしくはそのような人気ゆえか、絵本のイラストを担当したアロイス・カリジェは画家として認められることを求めていたという。
ずっと遠く、高い山のおくに、みなさんのような男の子が住んでいます…。このようなかたちで始まる「ウルスリのすず」の冒頭部分は、子どもたちの間ではおなじみの文章だ。しかし、この作品が何十年もの間、子どものベッドタイムのお気に入りの絵本として愛され続けたのは、アロイス・カリジェ独特のイラストのお陰だ。絵本では、クルクル天然パーマの髪の毛の上に、ちょこんと小さなとんがり帽子をのせた主人公の男の子ウルスリが、村の春を迎える祭りで先頭を歩くために、大きな鈴を捜しに出かけていく…。
1945年の出版以来、少なくとも100万部が売れ、ゼリーナ・ヘンツ原作のこの物語は9カ国語に訳された。ドイツ語版はロマンシュ語と同時に出版された。
カリジェは「フルリーナと山の鳥」など他にも絵本を制作しているが、どの作品も「ウルスリのすず」ほど人気を博していない。66年、カリジェは国際アンデルセン賞の画家賞を受賞している。
2015年の今年、絵本「ウルスリのすず」は出版70周年記念を迎える。またカリジェ没後30年にあたる年でもあり、新しく製作された映画「ウルスリのすず」も秋に公開を控えている。こうしたことからチューリヒ国立博物館では現在、絵本のイラストだけにとどまらない、カリジェのさまざまな作品の魅力をとらえる時だとしてカリジェの展覧会を開催している。
マルチタレント
「カリジェは単なる『ウルスリのすず』の生みの父というわけではなく、ただの画家というわけでもない。彼は素晴らしいグラフィックデザイナー、舞台美術家であり、『キャバレー・コルニション』の共同創業者でもある」と話すのは、パスカル・メイヤーさんだ。同館で15年6月10日~16年1月まで開催される「アロイス・カリジェ アート・グラフィックアート・ウルスリのすず」展の学芸員を務めている。
カリジェは1902年、11人兄弟の7番目としてグラウビュンデン州南東部のトゥルンに生まれた。カリジェ本人によれば、当時はまだ貧しかった同州の田舎の山奥でのどかな幼年期を過ごし、その後、家族と共に州都クールへ引っ越したという。また、家族とはロマンシュ語で話していた。
室内装飾を学んだカリジェだが、独学で学び広告デザイナーとしても活躍。観光業界や、39年に開催されたスイス博覧会のポスターにも作品が使われた。「カリジェの作品はウィットとユーモアに富んでいる。スイスの偉大なグラフィックデザイナーの一人だ」とメイヤーさんは話す。
またカリジェは、34年にオープンし51年に閉店した伝説の「キャバレー・コルニション」の舞台美術も担当した。メンバーの中には当時俳優としてよく知られていた、カリジェの兄弟のサーリ・カリジェもいた。
だが、カリジェの心のよりどころはやはり芸術だった。39年、カリジェは画業に専念するため、郷里グラウビュンデン州の山奥へと移る。
カリジェのアート
アロイス・カリジェ展の開催にあたり、カリジェの初期の作品をいくつか貸し出したグラウビュンデンの州立美術館(ビュンドナー美術館)のステファン・クンツ館長は、カリジェは自身が作り上げたイメージである「グラウビュンデン州出身の貴重な芸術家」として知られていたが、同時に「カリジェは州の境界線を越えた、一人の重要な芸術家としても評価されていた」と話す。
カリジェは独自のスタイルを生み出し、それを洗練していった。自分のまわりにあるモチーフを使い、躍動感や力強さあふれる構図に取り入れていった。近所の人々にとって、カリジェは時に何を考えているかわからない人物だったと、クンツ館長は話す。「隣人たちの日々の生活とはかけ離れたことをする存在だったが、農業を営み畑を耕す、ごく普通の人々である隣人に、カリジェは敬意を払っていた。彼らがカリジェに、なぜいつも牛を赤色で描くのかと質問すると、カリジェはこう答えた。『私は芸術家だから、少し頭がおかしいんだ』。しかし隣人たちもまた、常にカリジェに敬意を払っていた」
51年、チューリヒで描いた巨大壁画をきっかけに、カリジェは画家として世間に名を知られるようになる。しかし、その頃すでに得ていたイラストレーターとしての名声だけでなく、グラフィックデザイナーとして制作した多くの作品が、カリジェの芸術家としての名声を損じてしまった、とクンツ館長は話す。
故郷や伝統をモチーフにするスタイルもそれに拍車を掛けた。物ごとがもっとシンプルだった時代を振り返るウルスリの絵本が、戦後の保守的な考え方が見直されていたこの時期に出版されたのは偶然ではない。
「だが芸術家、画家としての彼の作品を見れば、そこにはまた他の良さがみえる。カリジェは素晴らしい画家になった」と、カリジェの作品にみられる遠近法や絵画空間の処理の仕方を例に挙げながら、クンツ館長は高く評価した。
ウルスリのアピール
はじめのうち、カリジェは画業に専念することを理由に、ウルスリの絵本のイラスト制作の依頼を断っていた。また主人公のイラスト制作に長い間苦戦したため、制作に取り掛かってから出版されるまで、5年の年月が掛かった。
しかしドイツ語とロマンシュ語の二つの方言で同時に出版されるやいなや、ウルスリの絵本の人気に火がついた。「今や定番の絵本になった」と、71年から「ウルスリのすず」の出版権をもつオレル・フュースリ出版社のロニー・フォースターさんは話す。
絵本はこれまでに9カ国語に訳され、近々ペルシャ語の出版も控えている。英語版に関しては、素朴でのどかなスイスを感じられるおみやげを買いたい観光客がよく購入していくという。
また、日本では特に人気があり、73年の出版開始からこれまでに4万2千部が売られた。「この数字だけでは、ものすごい販売部数だと思えないかもしれない。しかし、日本の出版社によれば、これほどコンスタントに一定の売り上げを保っている絵本は他に無いという。これは興味深い」とフォースターさんは話す。
開催中の展覧会では「ウルスリのすず」や他の絵本に加え、7番目の作品で未出版の、野生の赤ちゃんヤギを描いた物語「Krickel(カモシカの角)」のスケッチも初めて展示される。これらの作品がカリジェの他の才能に影を落とす原因だった可能性はあるにしろ、カリジェが絵本作家としての活動から得られた喜びはとてつもなく大きなものだったといえる。
絵本作家としての活動を止めたあとも、子どもたちがウルスリの絵本を枕元に置いて寝ているという話を聞くと、うれしそうな顔を見せたカリジェ。
のちにカリジェは、こう書いている。「『街の灰色の道と家』に囲まれた子どもたちに、『山々にある光と輝きにあふれた幼少時代』を届けることが、私にとって重要だった」
カリジェとロマンシュ語
カリジェはロマンシュ語を母国語として育った。ロマンシュ語はラテン語が元になった言語で、特にグラウビュンデン地方で話されている。現在、ロマンシュ語で会話ができる人口は6万人といわれている。1938年よりロマンシュ語はスイスの四つ目の公用語に認められている。
カリジェがロマンシュ語を保護する取り組みに参加することはなかったが、ロマンシュ語の文化や、知識人たちとの交流があった、とロマンシュ語研究者のリコ・ヴァレーさんは言う。「カリジェの作品は時にロマンシュ語というものを想起させる。それはロマンシュ語を話す人たちのアイデンティティーや、他の人たちのロマンシュ語を話す人たちへの理解にも影響を与えた」
特に影響を与えたのは「ウルスリのすず」だが、カリジェは大人向けの本の挿絵も多く描いており、それらはカリジェとロマンシュ語文化を強く結びつけた。
カリジェにとってロマンシュ語とは、家族を想起させるものだった。「カリジェは『ウルスリのすず』をロマンシュ語の原文で読んだとき、自分の幼少時代と、過ごした素晴らしい時の数々を想ったと語った」(ヴァレーさん)
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