欧州ドイツ語圏の劇場で、日本人では唯一の専属俳優、原サチコさん(55)が本業の傍ら、一人舞台とトークセッションで広島の原爆の記憶を伝える「ヒロシマサロン」を続けている。きっかけはある被爆者との出会いだった。
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マルチメディア・ジャーナリスト。2017年にswissinfo.ch入社。以前は日本の地方紙に10年間勤務し、記者として警察、後に政治を担当。趣味はテニスとバレーボール。
昨年10月24日夜、チューリヒの劇場「シャウシュピールハウス外部リンク」で、スイスでは初となる「ヒロシマサロン」が開かれた。冒頭、原さんが1年前に作ったばかりという約30分間の一人舞台「ヒロシマ・モンスターガール」が上演された。全編ドイツ語で、原さん演じる広島の少女が原爆により「怪物」のような姿に成り果て、その後も生き地獄を味わうというストーリーだ。
朝ご飯を食べ、元気に学校へ出かけて行ったモンペ姿の少女を襲う突然の轟音。舞台が暗転し、不協和音が混じる効果音を背に、がくがくと体を激しく揺らしながら水を求めさまよう。鬼の面をかぶり、ケロイドでひきつれた顔を嘆き、こんな姿のせいで結婚の夢すらついえたーと行き場のない怒りを叫ぶ場面では、観客が息をのんで舞台を凝視している。
「この少女のモデルは、2010年から毎年訪れている広島で出会った被爆者の体験談、映画や本で強く心に残った話を元に作り上げた」と原さん。原爆によって生き残った人がどれだけの苦しみを味わっているのか、それを訴えたかったのだという。
東京の劇団を経て35歳で渡独し、ドイツ、オーストリアの劇場で専属俳優としてキャリアを積んできた。原爆の語り部をやろうと決めたのは、ウィーンからドイツ・ハノーファー州立劇場に移った2010年のことだ。
それまで住んでいた華やかなウィーンとは違う、人口50万人の町になかなかなじむことができなかった。「ここに住む意味を見つけたい」。そんな折、ハノーファーと広島市が姉妹提携を結んでいること、被爆者で姉妹都市実現の立役者となった林寿彦さん(現在は故人)という人物の存在を知った。
ハノーファーの元市長と広島市の仲介で、同年夏に広島市内で林さんと会った。そこで原さんは、故井上ひさし氏が原爆投下後の広島を描いた朗読劇「少年口伝隊(くでんたい)一九四五外部リンク」のドイツ語版を、ハノーファー州立劇場で上演することを伝えたという。
ただ広島出身でもなければ被爆者でもない自分が語り部をしてもいいのか、という不安はあった。その思いを打ち明けると林さんは「生きている被爆者の数は減る一方だ。話す人が多ければ多い方がいい。どんどんやりなさい」と背中を押してくれたという。
同年10月、ハノーファーの劇場で第1回公演が開かれた。だが「口伝隊」の内容だけでは原さんが一番伝えたい広島の「今」を伝えきれないと感じた。「今も広島は焼け野原だ」と思っているドイツ人がいまだに多いことも憂えていた。そのため翌年1月からは、劇の後にトークセッションを設け、広島風お好み焼きをふるまったりしながら、自分が聞いた被爆者2世、3世の声や、復興した現在の広島市の様子を話し始めた。
2011年3月の福島原発事故発生後は、福島の現状も語るようになった。12年夏、福島に赴き、知人から紹介された農家や畜産業者に取材。風評被害に苦しみながら先祖代々の土地を守るため懸命にこの地で生きる人たちの姿をドイツに戻って伝えた。
ハノーファーからハンブルクの劇場に移ってからも、ヒロシマサロンは続けた。朗読劇に加え、当事者の生の声を伝えるトークセッションの反響は大きく、ベルリンやポーランドのワルシャワ、東京、広島などでもイベントを開いた。
ただ「よそ者の自分がこんな活動をしていいのだろうか」という葛藤はずっと残っていた。既に姉妹都市のハノーファーから離れていたことも理由の1つだった。何度もやめようと思ったという。
その思いが吹っ切れたのは、2017年のノーベル平和賞受賞式で演説したカナダ在住の被爆者、サーロー節子さんのスピーチを聞いたときだった。被爆者が受けた苦しみ、核兵器禁止条約外部リンクの批准を世界各国の指導者たちに力強く訴える姿に、「ヒロシマのことがあまり話題に挙がっていない今だからこそ、一人でも多くの人が声を上げなければ」と思いを新たにしたという。
そのスピーチに強く心を動かされ、作ったのが「ヒロシマ・モンスターガール」だった。
初回公演は、ヒロシマサロンが生まれた地、ハノーファー州立劇場だった。
昨年10月、チューリヒでのヒロシマサロンは、原さんのパフォーマンスとトークセッションの2部構成。トークセッションには反核団体ICANスイス外部リンクのメンバーらが登壇し、核兵器廃絶の現状や福島原発の現状などについて対談した。
ドイツ語圏の地元紙ターゲス・アンツァイガー外部リンクは原さんのパフォーマンスを写真付きで掲載。「原サチコは非常に激しさを持った女優だ。彼女が自身の舞台にどれだけ真摯に向き合っているか見て取れる」と高く評価した。
「スイスでヒロシマというテーマがどう受け入れられるのか心配だったが、終演後にお客さんたちから良かったという言葉をたくさんかけてもらった。気持ちが伝わったんだと安心した」と手ごたえを語る。
8日にはチューリヒで2回目の「ヒロシマサロン」を控え、15日にはフランス・パリで開かれるICANの国際会合で、初の英語版となるヒロシマ・モンスターガールを上演する予定。原さんは「ドイツ語圏以外にもヒロシマサロンの活動を広げていきたい。ヒロシマサロンを『悲劇を繰り返さないためには今何ができるか』という問いかけの場にしていきたい」と話している。
原サチコ
1964年神奈川県出身。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。大学卒業後の1984年から、寺山修司の流れをくむ小劇団「演劇舎螳螂(とうろう)」で演劇を始める。その後劇団ロマンチカに移籍。
1999年、渡辺和子演出「NARAYAMA」ベルリン公演で渡独。映画監督で舞台演出家でもあるクリストフ・シュリンゲンジーフ氏に自ら売り込み同氏の作品に出演する。その才能を高く評価され、現在まで60作品以上のドイツ語圏の舞台に出演。
2001年、ベルリンに移住。04年、東洋人として初めてオーストリア・ウィーンのブルク劇場の専属俳優となり、数々の作品に出演。
ハノーファー州立劇場、ハンブルク・ドイツ劇場などの専属を経て、2019年8月にチューリヒのシャウシュピールハウスの専属俳優となる。19歳の息子を持つシングルマザー。
8日、チューリヒの劇場で開かれる外部リンク「ヒロシマサロン」は、「ヒロシマ・モンスターガール」とトークセッションの2部構成。トークセッションには東日本大震災の被災地を支援しているチューリヒ在住のファッションデザイナー、和(かず)・フグラーさんらが登壇する。
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「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
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