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ベルン・バラ公園のソメイヨシノ 若木が語り継ぐ酪農交流の歴史

桜と街並みをカメラに収める男性
スイスの首都ベルンのバラ公園には、春になるとソメイヨシノと世界遺産の旧市街を写真に収める人でにぎわう swissinfo.ch

スイスの首都・ベルンのローゼンガルテン(バラ公園)外部リンクは毎春、日本から贈られたソメイヨシノが世界遺産都市に華を添える。今年は新しく植樹された苗木36本が初々しさも醸し出す。ベルン市民の間ではすっかり有名になったソメイヨシノだが、44年前に1人の日本人から寄贈された歴史はあまり知られていない。

「こんなにきれいな写真が撮れました」。17度まで気温が上がった3月31日。ルツェルンに住むブリギッタさん(64)はニコンの望遠カメラを覗き込んだ。朝からバラ公園内のレストランに桜の開花状況を聞くため電話をかけ続けたが、誰も応じなかったため、車いすの不便もいとわずにベルン行きの電車に乗り込んだという。ここ数年、毎春バラ公園にソメイヨシノを見にきているブリギッタさんは、「一昨年くらいから花が咲かなくなった木があって残念に思っていたけれど、今年は若い木があって心からハッピーです」と顔をほころばせた。

ソメイヨシノが咲くのはバラ公園からベーレンパルク(熊公園)外部リンクにつながる道、アールガウアーシュタルデンと呼ばれる一帯。傾斜の激しい場所にあるため日本のようにゴザを敷いた花見は難しいが、大勢の人が世界遺産のベルン旧市街をバックに咲き誇るソメイヨシノを写真に撮っていく。桜を見下ろせる数少ないベンチで昼食をとっていた若いカップルは「ベルン市民なら、春のバラ公園に日本の桜が咲くことは誰でも知ってるよ」と話した。

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ソメイヨシノは明治維新を迎える頃の江戸の染井村で交配されてできた桜で、奈良県の吉野山の桜とは違う種類。だがベルン市のソメイヨシノは奈良県との縁が深い。今回植樹されたソメイヨシノの苗木36本は奈良県が費用の一部を寄付し、もともとの古株も奈良県の男性が贈ったものだ。

ベルン市は今年3月初旬、新しいソメイヨシノの苗木を植樹したと発表外部リンクした。苗木はスイス国内から取り寄せたものだが、ベルン州と友好提携関係にある奈良県が「ベルン市民や観光客が『花見』を楽しみ続けることができるよう」(ベルン市土木・交通・緑地局)、費用の一部を寄付した。県によると、交流事業の一環として枯死したソメイヨシノの復元についてどのような方法があるか検討していたところ、ベルン市がバラ公園の整備を計画していると聞き、寄付を提案。16年11月にバラ公園を訪れていた荒井正吾知事も快諾した。

発端は新年会

奈良県外部リンクとベルン州が友好提携関係を結んだのは2015年4月。だがこの友好関係そのものも、実はバラ公園のソメイヨシノがきっかけになった。

それは日本・スイスが国交樹立150周年を祝った2014年、正月に始まる。恒例のベルン日本人会の新年会で歓談していた当時の前田隆平在スイス大使とアレクサンダー・チェペーテ・ベルン市長(18年5月逝去)、坪川真吾日本人会会長のテーブルに、奈良県出身の会員が来てこう訴えた。「ソメイヨシノの短い寿命からすると、バラ公園の木の寿命ももうすぐ尽きる。奈良市などからまた新しいソメイヨシノを寄贈してもらったらどうでしょうか」

その場では150周年記念事業の一環として寄贈を依頼する案も出たが、当時は日本とさまざまな国との外交関係が150周年を迎えており、スイスにだけ桜を贈ってもらうのは難しそう。ベルン・奈良両市が姉妹都市関係を結べばどうか、という代替案には、チェペーテ市長が首を横に振った。「ベルン市はどことも姉妹都市関係を結ばない方針」だからだ。

ひとまず記念事業の一環として、その年の5月には奈良県から荒井知事を団長とする訪問団がベルンを訪れ、ベルン州首相と会談が持たれた。後に前田大使の発案を受けて奈良「県」とベルン「州」の姉妹関係が結ばれることになった。ベルン市では16年ごろからソメイヨシノ植え替えの議論が始まった。

坪川さんによると、新年会の場でチェペーテ氏は「桜をまた寄贈してもらえるなら、ベルン市民も花見を楽しめるように、バラ公園の平地の芝を囲むように植樹しよう」と話した。だがその後、ベルン市土木・交通・緑地局の調査で「平地部分は希少動物・植物が生息する国家的に重要な芝生」であるとわかり、今回も斜面に植えられることになった。

酪農親善のソメイヨシノ

古株のソメイヨシノは1975年、奈良県宇陀市榛原で牛乳やハチミツを販売する「浦田酪農」を営んでいた浦田善之さん(1910~87年)が寄贈したものだった。善之さんは農家団体「愛農会」(現・全国愛農会外部リンク)の理事を務め、自立した農家の養成を目指す愛農学園農業高等学校外部リンク(三重県伊賀市)の設立に奔走。敬虔なキリスト教信者でもあった善之さんは59年、牧師の紹介でスイスのキリスト教普及団体東アジアミッション(SOAM)外部リンクの運営する学生寮「京都国際学生の家」を訪ねた。61年には紋付羽織姿でスイスに向かい、それをきっかけに愛農学園はSOAMから毎年3万フラン(現在の価値で約2500万円)の寄付を受けることになった。

63年には善之さんがザンクト・ガレン州にあるフラヴィル農学校外部リンクやチューリヒ州内の農家に滞在してスイスの農業を学ぶなど、愛農会とSOAMの交流は続いた。浦田酪農は71年に牛乳の自家処理をやめて大手乳業への卸に転じ、善之さんが亡くなった後は息子の長保さん(現在84歳)が牧場を継いだ。長保さんもまた63年にスイス中部・ルツェルンのピラトゥス山の農家で農業実習に当たった。

スイスの農家に住み込んで

「今まで日本農民ほど勤勉な働き手はないと自負していたが、この国の農民にはとても勝てそうにない」。浦田善之さんは63年のスイスでの実習を記録した論文「スイスの農家に住み込んで外部リンク」(農林業問題研究、1967年9月)にこう記した。実習は農業技術の習得というより、農民が「より良き暮らし」を送るためには何が必要なのかを見極める狙いがあった。

チューリヒ州などの農家に住み込んだ善之さんがまず驚いたのは、10~14時間に及ぶ実労働時間と肉体労働、それを支えるための1日5~6回の食事だ。しかもそれが「少しオーバーに言えば1分の狂いもない」正確な時刻に始まり、昼・夕食以外は15分以内で済ませてしまう。日本の酪農家で食事時間は腹時計任せ、1回の食事にたくさん食べるため次の作業にとりかかるのが遅くなる習慣は「いま一度見直すことが大切だ」と反省した。

長保さんによると、善之さんは「スイスと日本の酪農親善の証として」個人名義でベルン市にソメイヨシノを寄贈することにした。オランダやノルウェー、イラクなど他に交流のあった国にも寄贈しており、費用は全て個人の懐から。資金は「所有する山の木でも売ってねん出したのではないか」という。

なぜ善之さんが滞在したザンクト・ガレン州やチューリヒ州ではなくベルン市に贈ったのかは、長保さんもわからないという。ベルン市では「ベルンの眺めを愛する日本人が寄贈した」と伝えられている。ベルンの旧市街が世界遺産に登録されたのは、寄贈から8年後の83年。先見の明があったのは間違いない。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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