北海道土産の木彫りの熊、ルーツはスイスにあった
かつて一世を風靡した北海道の土産物と言えば、サケをくわえた木彫りの熊だろう。その木彫りの熊の発祥は北海道八雲町だが、ルーツはスイス・ベルン州ブリエンツにあった。
北海道八雲町は函館市から北に約80キロ離れた人口1万6500人の自治体。旧尾張藩藩主・徳川慶勝が廃藩と同時に職を失った藩士のために開拓させた土地で、農業・漁業のほか古くから酪農が発展した町として知られる。
八雲町木彫り熊資料館の学芸員、大谷茂之さん(33)によると、町の木彫り熊の歴史は約95年前にさかのぼる。じゃがいもの栽培から酪農への転換期にあった八雲町は経済不況のあおりを受け、農民は貧しい暮らしを強いられていた。町にあった徳川農場の農場主で、毎年のようにこの地を訪れていた尾張徳川家第19代当主の徳川義親は、そんな農民の暮らしぶりを目にしていた。
義親は1921年(大正10年)から1922年(同11年)にかけ、夫人と旧婚旅行で欧州を旅行。たまたま立ち寄ったスイス・ベルンの土産物屋で、木彫りの熊に目が止まった。そこであることをひらめいた義親は、ほかの土産品とともにこの熊を数点、北海道に持ち帰ったという。
大谷さんによると、義親が木彫りの熊に目を付けた理由は2つあった。1つは冬の農閑期の副業として土産物を作り、現金収入につなげたいと考えたこと。もう1つの理由は、木彫りという美術を趣味として浸透させ、農民の生活文化を豊かにしたい、という願いだった。
義親は木彫りの熊を八雲に持ち込むと、その翌年の1924年(大正13年)に木工品など様々な「農村美術」を集めた初の品評会を開催。ここに地元の酪農家が作った北海道第1号の木彫り熊が登場した。
4年後の1928年には徳川農場に農民美術研究会が発足し、農民以外も木彫りの熊を作るようになった。スイスのスタイルを汲み、日本画家の十倉金之が編み出した写実的な「毛彫り」、また直線的な「面」で熊をかたどる八雲独自の「面彫り」の2つが八雲の木彫り熊として確立。ブランド品として道内のほか本州内でも広く販売された。
制作者たちの中には「教師の初任給くらい稼いでいる人もいた」(大谷さん)という。義親の狙い通り、木彫りの熊は住民の生活に一定の豊かさをもたらした。
八雲の後を追うように、旭川でも木彫りの熊の生産が始まった。当初は這った熊が中心だったが、戦後にサケをくわえたものが旭川を中心に多く作られたという。
ブリエンツの熊との共通点
徳川義親が買っていったこの木彫り熊。ベルンのどこで買ったのかは長らく分かっていなかったが、北海道の研究者の調査がきっかけで、ベルン州ブリエンツにある木彫り製品製造販売ジョバン外部リンク社(JOBIN AG)のものだったことが分かった。
ブリエンツはベルナーオーバーラント地方の山あいにある、人口3千人ほどの自治体。昔から木彫り製品の産地として知られる。熊はベルン州のシンボルだ。
1835年創業のジョバン社は、製造所と同じ場所で木彫り博物館外部リンクを運営している。5代目社長のフラヴィウス・ジョバンさん(50)は約10年前、北海道の研究者が木彫り熊を持って現れたときに「自社の製品がはるか遠く北海道に渡り、文化として根付いたと知ってとても感激した」と振り返る。
義親が買った木彫り熊に残っていた製造者の名前を元に、ジョバンさんが古い台帳の記録を調べたところ、自社の委託職人が1900年頃に作ったものだということがわかったという。
ブリエンツの町史外部リンクによると、この一帯で木彫りの商業文化が萌芽したのは19世紀初めごろ。地元の旋盤工クリスティアン・フィッシャー(1790~1848年)がききんの年に、観光客に売るため木材で皿や酒杯などを作ったのが始まりとされる。
ジョバンさんは、ブリエンツと八雲の木彫り熊の生い立ちには共通点があると語る。その1つは「貧しさからの脱却」だ。
ジョバンさんは「当時はブリエンツも貧しく、領主が雇用創出を目的として持ち込んだのが木彫りだった。その後長いこと芽が出なかったが、外国からの観光ブームによって花開いた」と説明する。
ブリエンツの木彫り製品は万博にも出品され、国際的にも名を広めた。地元には木彫りの専門学校外部リンクも開校。ジョバンさんは「多い時で彫刻家の数は1600人、うちの会社だけで約250人の従業員がいた」と当時の盛況ぶりを語る。
ベルン州のシンボルの熊をモチーフにした木彫り製品は、中でも最も生産量が多く売れ筋の製品だった。特徴はその愛らしいマスコットのような姿だ。ジョバンさんは「この地方に熊は当時おらず、怖い思いをした職人がいなかった。だからかわいい顔が多い」と説明する。
第二次大戦後は下火になった八雲の熊
飛ぶ鳥を落とす勢いだった八雲の木彫り熊は、第二次世界大戦を機にぜいたく品扱いされ、製作者も激減。戦後の観光ブームで、サケをくわえた木彫り熊が人気を博すのとは対照的に、八雲の名は影を潜めた。研究会も1943年に解散した。
その後は毛彫りの第一人者である茂木多喜治、独創的な作風で知られる柴崎重行の2人が八雲の木彫り熊をけん引したが、流通技術の向上で生鮮食品が人気の土産物になったことも影響し、木工品は下火になっていった。八雲町では2010年ごろを最後に専業の作家がいなくなった。
町は住民向けに木彫り熊の制作講座や、企画展、講演会を開催して木彫り熊の魅力をPRしている。大谷さんは「何とかして町の伝統を絶やさず、次世代に継承していきたい」と話す。
ブリエンツの木彫り製品もまた、時代の変化とともに、当時ほどの人気はなくなってしまった。社の職人も数えるほどしかいない。ジョバンさんは博物館の工房で木彫り体験教室を開き、観光客に木彫りの楽しさを呼び掛けている。
日本とのつながり
ジョバンさん自身も10年ほど前、八雲町を訪れ、専業で熊を彫っている最後の2人に会うことができたという。その時に持ち帰った八雲の木彫り熊は今も博物館に展示しており「本当に思い出深い経験になった」と振り返る。
その後、日本とのつながりは途絶えてしまったが「八雲とブリエンツの木彫り熊には共通点が多い。例えば姉妹博物館を結ぶなど、何か一緒にやれたら」と話している。
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