スイスのマスク問題 政策が国民の意識に与えた影響
「マスクの必要性」は新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)以来、ずっとスイス当局につきまとってきた問題だ。政策変更のたびに、政治的にも国民の間でもさかんに議論されてきた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)との戦いにおいて、いまだにマスクが完全に受け入れられていないのは政府の責任だろうか?
新型コロナウイルスの感染者が急増していた3月、スイス連邦保健庁(BAG)と世界保健機関(WHO)は、「健康な人にサージカルマスクは必要ない」と明言した。WHOの言葉を借りれば「マスクの無駄使い」になってしまうためだ。
当時、BAG感染症班の班長としてCOVID-19対応の責任者を務めていたダニエル・コッホ氏は、「一般市民がマスクを着用しても、感染から効果的に身を守ることはできない」と断言していた。
ただ、マスク着用が大きく取りざたされるまで時間はかからなかった。公衆衛生政策はマスクの在庫に左右されていると政治的にも多方面から非難されるようになった。
国民の間でもまた、マスクの必要性について意見が二分した。なかなかマスク着用を推奨しない政府に不満を漏らす人も多かったが、いざ当局が政策を変更し、マスクの推奨を始めた後も、実際にマスクを着ける人はほとんどいなかった。
現在、公共交通機関の利用時にはマスク着用が義務付けられている。だが専門家の間では、政府のマスクに対する当初の姿勢が今も国民の意識に影響を与え続けているとの見方もある。
マスクが足りない
パンデミックの初期、スイス政府はWHOと同様に、病人やリスクグループの人、そして感染症状がある人にのみマスク着用を推奨していた。だが感染者数は増え続け、政治家や国民の間ではその判断を疑問視する声が上がった。
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当時、スイス政府のマスク備蓄が2週間半分しかないと広く報じられたことを受け、バスティアン・ジロ下院議員(緑の党)は「国民に対する情報操作」と当局の事実隠ぺいを非難。多くのマスク賛成派と同じく、スイスも外出時のマスク着用を推奨するよう政府に求めた。
この主張は根強く、タメディアが4月中旬に行った世論調査では「政府がマスク着用を義務づけないのは在庫不足が原因」とした回答者が6割近くいた。その後7月には、マスク不足が政府の立場に影響を与えていたことが対策本部の3月の議事録から分かったと、フランス語圏の日曜紙ル・マタン・ディマンシュとドイツ語圏の日曜紙ゾンタークス・ツァイトゥングが報じた。
一方、BAGはこれを否定している。ヤン・フルマン報道官は、当時、国民全員に行き渡るだけの十分な在庫がなかったのは事実だが、「マスク着用を広く一般に推奨しなかったこととは何の因果関係もない」とswissinfo.chに語った。
そしてロックダウン(都市封鎖)中は自宅待機が求められたため、一般人がマスクを使用する必要がなかったと付け加えた。「ロックダウン中は移動する人が少なく、政府が推奨した人と人との距離がほぼ守られていた」
少ない科学的根拠
4月末に定年退職するまでBAGの感染症班長を務めていたコッホ氏は、一貫して「政府のマスク政策は科学的根拠に基づいている」と主張し続けてきた。感染症の流行初期、マスクがウイルスを効果的に防御するという明確な研究結果はなかったと同氏は言う。
免疫学と感染症の専門家サラ・チューディン・ズッター氏は、「マスクの使用、特に一般人のマスク着用を支持する科学的根拠は少なく、とりわけ3月の時点ではまだ情報が少なかった」と認めた。
ところが、国内の科学者らで作るCOVID-19対策タスクフォースの一つで、チューディン・ズッター氏がリーダーを務める調査チームは、4月20日の報告書の中で、文献に複数の矛盾点があるにもかかわらず「社会的な距離を保てない、いかなる場合においても、手洗いと併せたマスク着用は感染防止に有効」と結論付けた。そしてこの指針に沿った対策を取るよう政府に推奨している。
一部業種の4月末営業再開が決定されると、再びマスクはあちこちで議論の中心となった。タメディアが4月中旬に行った世論調査では、スイス市民の6割が、公共の場でのマスクの着用義務化を支持していることが分かった。
だがロックダウンが段階的に緩和され始めた4月末、義務化には至らずとも、当局は物理的な距離を保てない場合はマスク着用を推奨するという方針を発表する。
「この決定の背景には、科学的根拠が増えてきたことがある」とズッター氏は述べ、ロックダウンから抜け出すために「感染予防と制御のために新しいアプローチが必要だった」と付け加えた。
同じ頃、WHOも方針を変え同様の推奨を発表した。また一方では、スイス軍によるマスク調達が功を奏し、4月末には約3500万枚のマスクが市場に流通。マスク不足に歯止めが掛かった。
振り回される市民
当初の「マスクは健康な人を感染から守る効果があまりない」という政府の意見に誰もが納得していたわけではないが、「科学的根拠に基づく」と発言していたことは、市民の脳裏に焼き付いた。
連邦工科大学チューリヒ校のリスク研究者アンゲラ・ビアース氏は、「早い段階でのコミュニケーションが大きく響いた」と言う。「スイス人は科学への信頼が厚く、とりわけCOVID-19に関しその傾向が強い。特に(当局が)マスクの有用性を示す科学的根拠はないと言えば、その影響力は強い」
6月に入り、通勤・通学の再開で外出する人が増えたが、実際にマスクをしている人はほとんどいなかった。スイス政府は公共交通機関でのマスク着用を推奨したが、当時、電車の利用客でマスクを着けている人はわずか6%に過ぎなかった。
ビアース氏は同僚と協力し、ロックダウン中とその後、複数の異なる時点で世論調査外部リンクを行った。公共交通機関でマスクが義務化された直後(7月6日)に行われた最終調査では、マスクをしていない人の方が「マスクで新型コロナウイルスの感染を予防できるという科学的な証拠はほとんどない」というBAGの発言を信じる傾向にあったという。
「科学的な根拠が明らかになるにつれ、政府が推奨する内容にも変化が見られた。これが国民の一部で不信感を生んでいる」とスイスイタリア語圏大学のL・スザンヌ・サッグス教授は言う。サッグス氏はCOVID-19対策タスクフォースの要請で危機コミュニケーションに関する報告書を共同執筆した。
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スイス公共交通機関でマスク着用が義務化
同氏もチューディン・ズッター氏と同様、スイス全土でバスや電車でのマスク着用が義務化されると、それに従う人が増加したと指摘する。ただし「スイス人はやみくもに服従しているのではなく、義務化によりマスクがいかに大切か伝わったため」と付け加えた。
タスクフォースが7月初旬に発表したマスクに関する追跡調査によると、「過去3カ月間で、マスクの公共利用のメリットをより強く支持する重要な新しいデータが増えてきている」という。当時、オーストリア、フランス、イタリア、ドイツでは既に公共の場でのマスク着用が義務化されていた。アラン・ベルセ内務大臣もマスクに関してスイスは隣国との足並みが揃っていないと認めた。
こういった政策の違いは、一部の人の意思決定に影響を与えることがある。
「政府の推奨に一貫性がないと、もともとマスク着用に抵抗がある人々の不信感をより強める原因になる」とサッグス氏は言う。「(マスクを拒む理由として)疫学における相違点や、科学的証拠の解釈の違い、または政治の影響が指摘されている」
マスクの効果は過大評価されている?
その一方で、公共交通機関でのマスク義務化を通じ、「マスクがウイルス拡散を遅らせるのに有効なことが浸透してきた」と教授は付け加えた。
マスクに対する理解が深まるとともに議論の流れが変わり、マスクが有用なら他の場所でも義務化しようという動きが出始めた。現在、チューリッヒ州、ジュネーブ州、ヴォー州、バーゼル市など、店舗内でのマスク着用を義務付ける州や地域は増加している。
コロナ対応の任務期間中、一貫して淡々と落ち着いた態度で一躍有名になったコッホ氏は、7月の大衆紙ブリックのインタビューで、マスクに対する率直な意見を述べた外部リンク。「マスクの問題は最初から過大評価されていた。今も3カ月前と同じく、人との距離を保つことの方がマスクよりも重要だ。そしてマスクを着けると、人は対人距離が狭まる傾向にある」
しかし多くの医療関係者からは、店舗を含めた、人が集まる全ての場所にマスク義務を拡大するよう求める声が上がっている。スイス州医師協会の代表は、ドイツ語圏スイス公共放送(SRF)のラジオ番組で「マスク着用の義務化は疫学的な観点からも理にかなっている」と述べた。
一方、リスクコミュニケーションの専門家である前出のビアース氏は、いつでもどこでもマスクをしていると誤った安心感を持つようになり、人々が社会的距離といった他の重要な防止対策をおろそかにする恐れがあると指摘する。この傾向は他の予防行動でも観察されている。「マスクの効果を過大評価するのではなく、他の対策の重要性を積極的に国民に発信していくことも予防には有効と思われる」(ビアース氏)
連邦政府は、室内の公共の場ではマスク義務化を推奨しているが、具体的な対策は各州に委ねられている。
またパブリック・コミュニケーションを扱うサッグス教授は、「物理的な距離を保てない場合はマスクを着けるべきだという責任感が欠けていたり、それに従うべき社会的な圧力を感じなかったりする人が多い場合、義務化が必要なこともある」と言う。そして「マスク着用が気にならず、社会的にも受け入れられ、当たり前になった状態」からスイスはほど遠いと付け加えた。
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スイス人はなぜマスクを着けないのか?
(英語からの翻訳・シュミット一恵)
JTI基準に準拠
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