革命後のニカラグア復興、汗流したスイス人ら回顧
中央アメリカに位置する国ニカラグアは、1979年にサンディニスタ革命が起こり、約50年間続いたソモサ独裁体制が終わった。革命後は国の立て直しに各国から支援の手が差し伸べられ、スイスからも医者ら約800人以上が現地で汗を流した。しかし、86年、反革命派の攻撃でスイス人数人が命を落とした。それから30年が経った今年、当時の関係者が犠牲者を追悼するための旅団を結成。今月、ニカラグアに旅立つ彼らに、スイスインフォが話を聞いた。
スイス発の旅団
旅団は関係団体の他、労働組合やNGOメンバーらスイス人男女約50人で構成。サンディニスタ革命及びその後のコントラの武力攻撃では、兵士やスイス人を含む欧州の支援者、現地住民が犠牲になった。それから30年を迎え、犠牲者追悼のため今月ニカラグア入りする。
1986年のコントラの武力攻撃により命を落としたのはスイス人モーリス・ドミエールと現地の農民5人(2月16日)、イヴァン・レェヴィラ、フランス人のジョエル・フュ、ドイツ人のベルント・コベルシュタイン、地元住民の技術者ウィリアム・ブランドン、マリオ・アセヴェド(7月28日)。
旅団メンバーの1人で小児科医のベルナール・ボレル外部リンクさんは「今回の旅団は、ニカラグアとラテンアメリカで抵抗運動が続いていることを世に伝える意味で意義深い」と語る。ボレルさんはスイスのヌーシャテル州、ヴォー州で働き、ニカラグアではブルーフィールズ、首都マナグア、マタガルパなどの都市で救急医を務めた。
ボレルさんはサンディニスタ革命の翌年80年にニカラグアに渡り、10年間過ごした。当時の生活は恋しくないという。ただ「革命後の動乱は別として、当時は何とかして良い世界を作ろうという気概にあふれていたのを今でも思い出す」という。
ボレルさんの配偶者マリオン・ヘルドさんもうなずく。ヘルドさんはサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)主導による革命政権が目指した文化普及政策に関わった。旅団メンバーのローラント・シドラーさん、配偶者のシャルロット・クレブスさんも同様だ。この2人はのちにスイスのビール(ビエンヌ)、ニカラグアのサンマルコスの両都市が協力関係を結ぶ際の立て役者となった。
「30年の名誉と主権」と題した記念式典のため旅団がニカラグアへ出発する前に、冒頭のスイス人カップル2組がスイスインフォに「Cheles(シェレス)」と呼ばれた外国人支援者としての思い出を振り返った。当時は農具の「すき」を担いで復興に明け暮れ、時にはすきを武器に持ち替えて「米国製の」反革命武装勢力コントラに対峙(たいじ)しなければならなかったという。
多元的な革命
「何もかもゼロから作る、そんな可能性に満ちた国で働く。それが魅力だった」とシドラーさんは振り返る。「本当の参加型民主主義がそこにあった。政府、国民、知識人、思想家、司祭、あらゆる人たちが協力して人々に読み書きを教えた。住居を与え、医療を保障し、農政改革を進めた」
ベルン州クルトラリー出身のシドラーさんは数学と物理の教師だったが、現地語であるスペイン語を学ぶため、スペイン・カトリック教会の語学教室に通った。86年、左翼系活動家ら10人とニカラグアへ。皆がサンディニスタ革命に加わりたがっていた。独裁政権下で苦しむ国民に、人として当然持つべき生存権を取り戻してやれるのは革命だと思ったからだった。
シドラーさんは現地での生活を「私たちはコーヒーの摘み取りを手伝った。コーヒー農園を見たのはその時が初めて。『赤い実を摘んで』と指示されたが、グループの1人が色覚障害でね」と冗談交じりに笑う。さらにこんなエピソードも。「収穫量の新記録を作ろうと、コーヒーの摘み取り競争をしたが、私たち10人が束になっても、たった1人のニカラグア人に勝てなかった」
シドラーさんはその後、労働組合員として、また大工としてサンマルコスのコミュニティセンターの建設現場で働き、同市とスイス・ビールとの協力関係を構築した。
永続的な関係
シドラーさんのパートナーのクレプスさんは「私たちが求めていたのは(現地との)永続的な関係だった」と強調する。「私たちの他にも、他国などからの多くの支援が入っていたが、90年の大統領選挙でFSLNが(親米保守派の)チャモロ候補に負けると、その多くが姿を消した。私たちは残って支援を続けた。友人でもある住民たちが国を立て直そうと闘かっていたからだ。不安定な政情の中、彼らは私たちの支援を何よりも必要としていた」(クレブスさん)
クレブスさんとシドラーさんは、現地の家族と一緒に暮らし、家族同然の間柄になった。ジュネーブ出身のソーシャルワーカーだったクレブスさんはニカラグア流の暮らしを学んだ。洗濯物は石けんでこすって、すすがずに干して太陽に当てる、地震を経験する、明日はどうなるか保証がないから、今日を大事に生きる、などだ。
文化の普及
冒頭のカップル、ヘルドさんとボレルさんは革命の翌年、ヌーシャテル州のNGO団体の一員としてマナグアに渡った。ほどなくして、医師のボレルさんは厚生省、フランスの演劇学校「ジャック・ルコック」で学んだヘルドさんは文化省でそれぞれ仕事を見つけた。
ヘルドさんはそこで自国文化の監視、保護、宣伝を担う人材育成に関わった。
ヘルドさんによれば「革命以前は富裕層向けの国立劇場の劇団しかなかった」が、FSLNが政権を取ってからは「女性や兵士、学生らの劇団がたくさん生まれた。みんな芝居を作ることを夢見て、詩を書き踊ることにも情熱を持っていた」という。
人々は、コーヒーや綿花の収穫の仕事をしながら芸術活動に精を出した。しかし、反革命武装勢力コントラの武力攻撃が再び始まると、若者は戦場に送られ、多くの劇団が解散することとなった。
ヘルドさんは子ども劇団を設立。公園や近所など身近な場所で上演した。演劇活動の中で、仲間の視覚障害者が舞台に立てる手法を確立させた。その中で、ヘルドさんが忘れられない舞台がある。1人の役者が舞台で「困ったな、ここは照明の状態がひどくて何も見えやしない」と文句をたれ、観客を大いに沸かせたという。
こうしたにぎやかで、ウイットに富んだ「ニカス(ニカラグア人)」の振る舞いにヘルドさんは感激した。「他では決して味わえない経験。ニカラグアで暮らしたことは本当に幸運だった」と振り返る。
乳児死亡率は半減
ボレルさんもヘルドさんと同じ考えだ。「ニカラグアでの経験は私のその後の生き方全てに影響を与えた」と語る。スイス労働党員でもあるボレルさんはスイス・ローザンヌで小児科医をしていた。マナグアでも医者として子どもたちの健康をサポート。現在はスイス・ヴォー州の都市エーグルにある自身のクリニックで、社会小児科学(地域社会が子どもの健康や発達に及ぼす影響について調べる学問)の普及に力を入れている。それはマナグアでの経験が土台にある。
ボレルさんはマナグアでマラリアやデング熱の伝染病予防のため、ワクチン接種などのキャンペーンを行った際「現地の社会が、それに応えようと盛り上がるさまを経験できたことは貴重だった」と振り返る。当時は需要に反してワクチンなどの物資が不足していたため、地域の状況を監視するスタッフが養成されていた。病気が広がる前に先手を講じる必要があったからだ。この対策は大きな成果を上げたという。
ボレルさんはまた、学校や教会、民家の裏庭で往診し、注射の代わりにいつも錠剤を処方していたために、住民から親しみを込めて「お薬先生」というあだ名で呼ばれていたという。最初は患者が「脳みそが痛い」「お腹が固い」などと駆け込んできたことに驚いたというが、診察のお礼にフルーツをくれるなど、住民の気前の良さにも顔がほころんだという。
ボレルさんは「滞在中の10年間で幼児の死亡率が半減した。これはすごいことだ」と力を込め「国民の生活水準はそれほど変わらなかった。革命初期、国民は貧しかった。革命の10年後も変わらず貧しかった。だが、その間に住民は育児の知識を得て、周りがサポートする環境もできた」と変化の大きさを実感したという。
ニカラグアの今
ベルナール・ボレルさん:「革命は私たちが25年間夢見てきたものではもはやなくなったが、少なくとも今は、過去の政権より国民に寄り添う政府がある。革命後の内戦によって、革命の意義が弱体化してしまった。1990年の大統領選で国民がFSLNに投票しなかったのは、それが内戦を終結させる唯一の方法だったからだ。2007年、FSLNは選挙に勝つため人工中絶禁止に賛成するなど妥協策を講じなければならなかった」
ローラント・シドラーさん:「現オルテガ政権は1980年代の政権とはかなり異なる。国民参加型の政治とはかけ離れ、物事を決める時は全てトップダウン。しかし、1990〜2007年の新自由主義政権に比べ、国民の状況は改善されている」
シャルロット・クレブスさん:「人工中絶禁止は残念」
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(独語からの翻訳・宇田薫 編集・スイスインフォ)
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