国際連盟から国際連合へ、スイス孤立主義の終焉
100年前、スイスは国際連盟に加盟すべきか否かの重大な決断を迫られた。1920年のこの歴史的な国民投票と、国際連盟の後継である国際連合への加盟が問われた1986年と2002年の国民投票とでは、スイスの中立と孤立主義に対する姿勢に変化が見られた。
「この厳粛な時に、我々が感じていることの全てを言葉にすることはまだできないが、この重要な国民投票の結果に対し、言い知れない感動、謝意、限りない感謝の念がある」とフランス語圏スイスの日刊紙「ジュルナル・ド・ジュネーブ」の編集者は1920年5月17日付の紙面に感情をほとばしらせた。その前日、スイス国民は接戦の末、国際連盟外部リンクへの加盟を可決し、本部はジュネーブに設置された。
国民投票の12カ月前から全国で活発な議論が繰り広げられ、国民の大きな関心を集めた結果、有権者の75%が投票した。安定多数の投票者(賛成41万6870票、反対32万3719票外部リンク)が国際連盟加盟に賛成したことが16日、明らかになったが、可決されるためには州レベルでも過半数を獲得することが必要だった。
徐々に伝わる州ごとの開票結果にじりじりした。
「午後6時30分を回った時点で、9つと半分の州が賛成、8つと半分の州が反対だった」と同紙は報じ、「チューリヒ州とザンクトガレン州の結果を当てにしていたが、チューリヒ州は反対だった。何ということだ」と続けた。
次に判明したベルン州は賛成、その次のザンクトガレン州は反対だった。「グラウビュンデン州の賛成が明らかになるまでは、全てが終わってしまったかのように見えた」と同紙は書いた。たったひとつの州が状況を一変外部リンクさせた。全体として、フランス語圏とイタリア語圏の州は概ね国際連盟加盟を支持し、ドイツ語圏の州は意見が分かれた。
「どのような意見が国民投票を左右したのかを明確にするのは難しい」と、国連のアーキビストで国際連盟の専門家のピエール・エティエンヌ・ブルヌフ外部リンクさんは話した。また、「もしスイスが国際連盟に加盟しなければ、本部はベルギーのブリュッセルになり、スイスは今とは大きく異なっていただろう」と指摘した。
壊滅的な被害をもたらした第一次世界大戦を経験したスイスは外交的・人道的手腕を発揮して国際的使命を果たすことに意欲的だった。赤十字国際委員会外部リンクの本部があるジュネーブは、国際連盟から理想的で普遍的な本拠地と目されていた。
国際連盟加盟とスイスの中立は両立し得るか?
国民投票に先立って、国際連盟という新しい国際秩序のメンバーになることとスイスの中立は両立し得るかが火急の問題だった。
左派の反対派は国際連盟をグローバル資本主義計画の1つだとして槍玉に挙げた。また、国際連盟に懐疑的なカトリック系の保守派などの右派も、何百年にもわたるスイスの中立と国家主権を放棄することになりかねないと主張した。さらに、国際連盟は戦勝国の野蛮な同盟だとして危険視する親独派もいた、とブルヌフさんは説明する。
そして、国際連盟に制裁を課せられた国が「報復措置として、連盟本部のあるジュネーブを爆撃するかもしれない」ことを反対派は恐れていたとブルヌフさんは指摘した。
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その一方で、第一次世界大戦の恐怖はまだ人々の記憶に生々しく、急進民主党やキリスト教民主党、農本主義政党らは、スイスが先進的な平和のための政府間組織の外にいるべきではないとして、国際連盟への加盟を必死に呼び掛けた。
国民投票を前に、国際連盟の原加盟国はスイスに特別の「差別化された中立」の地位を与え、加盟への道を開いた。
「スイスの中立は進化した。つまり、国際連盟が制裁を課す際、スイスは武力の行使を拒否するが、政治的あるいは経済的制裁措置の実施には同意するという条件で、スイスは国際連盟に加盟した。スイスにとって革命だった。これが、国民投票を非常に難しくした」とブルヌフさんは説明した。
スイスの現代史上初めて、スイス国民は何世紀にもわたる孤立主義政策を放棄し、超国家的組織に加わることを決めた。ブルヌフさんによれば、スイスは、国際連盟加盟の是非を国民投票に掛けた最初で唯一の国だ。そして、国民投票はさらに2回、今度は国際連合加盟について行われることになる。
変化するスイスの中立
国際連盟の第1回総会外部リンクは1920年11月15日、大衆が熱狂する中、ジュネーブで開催された。しかし、連盟発足当初から、スイスの中立は早くも問題になった。第二次世界大戦勃発の脅威が高まる38年5月、スイスが絶対中立に戻ることに連盟理事会は合意した。その1年後、隣国が戦争に突入する中、スイスは国際連盟との関係を断った。
第二次世界大戦が終結し、45年6月26日、51カ国が米国サンフランシスコで国際連合憲章に署名したが、スイスは参加しなかった。国際連盟での失敗が苦い経験となったスイスは国連を一種の「戦勝国クラブ」だと見ていた。
冷戦時代、スイスは中立を堅持した。他の中立国は徐々に国際連合に加盟していったが、スイスは抵抗し続けた。86年の国民投票では、スイス国民の75.7%が国連への加盟に反対外部リンクした。
反対派は20年当時に多く聞かれた主張を繰り返した。つまり、もしスイスが国連のメンバーになれば、国家主権と中立を放棄しなければならないだろうという議論だ。国連自体も激しい批判の対象となった。
例えば、86年国民投票の後、ヴォー州の日刊紙24時間新聞のジャン・マリー・ヴォドー編集長は、「国連は非民主的な世界で、議論するだけで行動しない上に高くつく組織だとスイスでは見られている。言わば反面教師だ」と書いた。
しかし、時代は移り変わっていった。89年のベルリンの壁崩壊によって、スイスの中立の重要性は低下し、その意味も変わっていった。
「冷戦の終焉まで、スイスの国是は自治による安全保障だった。しかし、それが国際平和の促進を通じた安全保障へと移行し、2000年以降は、国際協力を通じた安全保障へと変化した」と説明するのは、連邦工科大学チューリヒ校軍事アカデミー(MILAC)の軍事社会学の准講師で科学プロジェクトマネージャーのトマス・フェルスト外部リンクさんだ。
国連を巡るスイス国内の議論は大きく二分された。国連と欧州連合に加盟し世界に門戸を開くことを支持するグループと右派の国家主義的なグループだ。
賛成派の主張は、スイスはもはや中立を盾にすることは
できない、世界諸国と連帯し、国益をより良く守るために閉鎖的な政策は放棄すべきだ、というものだった。しかし、反対派は国連への加盟は財政的負担が大きく、国家主権、中立、連邦の結束を損なうと危惧した。
50年以上にわたり抵抗し続けたスイスだったが、2002年3月3日の国民投票でスイス国民は接戦の末、国連への加盟を決めた。1920年と同様に、賛成票は55%、州の賛成数もぎりぎりの過半数だった。
スイス国民の中立と孤立主義政策に対する見方は変わった。投票者の28%だけが国連への加盟はスイスの中立を損なうと回答した。
上のグラフが示すように、190番目の加盟国となって以来、スイスの国連加盟国としての姿勢や国連に関する問題への取り組みは概ね積極的で安定している。
「例えば、コソボでの国際平和維持活動でスイスは極めて良い成果を上げている(KFOR SWISSCOY外部リンク)。と同時に、2001年の米同時多発テロによってスイスの中立は再興した」とフェルストさんは指摘した。
5月に発表された最新の連邦工科大学チューリヒ校の2019年安全保障に関する世論調査外部リンクによると、調査対象者の59%が国連活動へのスイスの積極的な参加を支持した。また、61%の人はスイスが国連安全保障理事会の非常任理事国になることに賛成した。
関連年表
1920年、国際連盟がスイスのジュネーブに発足。加盟国58カ国。国際連盟に加盟するという連邦政府の提案にスイスの有権者(女性に参政権は無かった)の56.3%が賛成した。
1929年、国際連盟本部パレ・デ・ナシオンが着工される。1937年に竣工した。
1945年、米国サンフランシスコで51カ国が国際連合憲章に調印する。
1946年、ロンドンで第1回国連総会が開催される。国際連盟は正式に解散される。
1948年、スイスは国連でオブザーバーの地位を得る。
1986年、スイス国民の75.7%が国連加盟に反対する。
2002年、スイスは3月3日の国民投票で賛成54.6%で国連加盟を可決。9月10日、190番目の加盟国となる。
(英語からの翻訳・江藤真理)
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