スイス最後の「男性の砦」が崩れたとき
スイスには、州レベルでの女性参政権の導入に1990年になっても反対していた自治体がある。人口約1万6千人のアッペンツェル・インナーローデン準州だ。男性たちはなぜ導入を拒否していたのだろうか?その理由と導入後の様子を地元の女性たちに聞いた。
アッペンツェル・インナーローデン準州のランツゲマインデ広場には自動車が年中駐車している。春になると、ここに1日で数千人の住人が集い、州政治に関する事項について投票するランツゲマインデ(青空議会)が行われる。コロナ禍でなければ、有権者は密集した状態で立ちながら投票に臨む。信じられないような話だが、今からちょうど30年前まで女性はここで投票できなかった。
州都であり基礎自治体であるアッペンツェルは、広場や庁舎前など、どの路地でも住民が見知らぬ人に「グリュエツィ」と挨拶してくれる唯一の州都だろう。住民はこの街を「村」と呼んでいる。
スイスの男性は1971年2月7日の国民投票で、連邦レベルでの女性参政権の導入を決定した。直接民主制のモデルとして世界に名を馳せたいスイスだが、この国民投票でようやく世界で最も遅く普通選挙を導入した国の1つとなり、若いリベラルな民主国家となった。
swissinfo.chは、女性参政権導入50年という不名誉な節目の今年、スイスの女性参政権を特集する。特集第1弾は、州・基礎自治体レベルでの女性参政権導入が全国で最も遅かったアッペンツェル・インナーローデン準州に関するルポを配信する。
swissinfo.chは3月4日、「女性参政権導入50年:古い権力問題、新しい人たちの新たな戦い」と題したパネルディスカッションをオンラインで開催する。
アンジュ・ルパルさんは1980年代末にはすでに「村」で暮らしていた。初めは民主主義が欠けている印象はなかった。「ニューヨーク・タイムズ紙とガーディアン紙の切り抜きを女友達が送ってくれた」と当時を振り返る。インドにルーツがある英国人のルパルさんは外国メディアを通し、居住地に女性参政権がないことを知った。今思えば当時の自分は無知だったかもしれないが、あの頃は西欧の民主国家ならどの国にも参政権があると思い込んでいたという。
インナーローデン準州の住民にはすぐに受け入れてもらえた。その理由には自分の人柄もあるだろうが、アッペンツェル出身男性と結婚したことが大きいと考える。「アッペンツェルではいつも『誰の奥さん?』と聞かれる」。いわば男性の砦であるこの村で女性がこれほど長く排除されてきた原因には、こうした住人の態度があるとルパルさんは推測する。
ディズニーの世界
スイスの女性解放運動において、インナーローデン準州の存在はほとんど注目されてこなかった。女性参政権はようやく71年に連邦レベルで導入された。欧州諸国の先駆けであるフィンランドより65年遅く、スイス全国で先駆けたヴォー州より12年遅かった。決め手は71年の男性有権者による国民投票だった。遅くとも翌年の72年にはほぼすべての州で女性参政権が導入された。
インナーローデン準州の男性との結婚を機にスイス国籍を取得したルパルさんは、アッペンツェルの女性が初めて参加できたランツゲマインデに立ち会った。当時の思い出を語る様子からは今もその時の熱狂ぶりが伝わる。「あまりにも感激して、(採決の際に)両手を挙げてしまった。あの日、褐色の手を挙げたのはおそらく私だけだったろう」
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女性参政権の導入がインナーローデン準州と同じくらい遅かった唯一の州が、隣のアッペンツェル・アウサーローデン準州だ。導入は89年のランツゲマインデで決定した。アウサーローデン準州の女性は連邦議会に請願書を提出するなどしていたが、インナーローデン準州では全国的に注目を集めるような取り組みはほとんどなかった。インナーローデン準州について、大きな都市のフェミニストたちはスイス公共テレビの取材に「ウォルト・ディズニー(が理想とした世界)の一部」と話し、同州には幅広い女性解放運動が欠けていると語った。
80年代末には社会民主党の女性団体がアッペンツェルで年次集会を開いたが、地元民からの賛同はほとんどなかった。インナーローデン準州では外からの介入に対する防御反射が強かったのだ。
「ここで奮闘していたのは、オッティリア・パキー・ズッターや芸術家シビル・ネフといった個人活動家だ。ネフは抗議の意を示すため、ランツゲマインデ開催中に窓から皿を投げた」と、美術史家のアガテ・ニスプレ氏は語る。インナーローデン準州で最大規模の活動は、地元女性たちが参政権導入への支持を表明した広告だったという。
経済的に独立
ニスプレ氏によれば、インナーローデン準州では刺繡工芸が商業的に好調だったため、20世紀の変わり目には地元女性の多くは自立できる程度の収入を得ていた。それでも政治分野はもっぱら男性に限られていた。
現在65歳のニスプレ氏はアッペンツェル育ちだ。仕事や学業のためにこの小さな世界を離れることは度々あった。成人すれば連邦レベルでの選挙権・被選挙権が保障されるスイス人女性の第1世代だ。しかし故郷インナーローデン準州では長い間、政治的権利がないまま地元政治を傍観するしかなかった。「今年でもう30年だが、まだ30年しか経ってない」と、同氏は不満をみせる。
90年春に行われた男性のみのランツゲマインデで、女性参政権の導入が再度否決された。これを受け、不服申し立てが約100人分の署名と共に連邦最高裁判所に提出された。連邦最高裁は同年11月26日、これを全員一致で認めた。
男性たちの精神的な砦
「連邦最高裁の判断には感謝している。さもなければ現在も女性参政権はなかったかもしれない」とニスプレ氏は言う。当時のムードはかなり行き詰ったものだった。インナーローデン準州議会では90年、男性議員全員が女性参政権導入に賛成した。しかしランツゲマインデに集った男性たちはその逆の決断を下した。
19世紀初めには、8つの州がランツゲマインデで地元政治に関する事項を決定していた。現在もランツゲマインデを行っているのは、グラールス州とインナーローデン準州の2州のみ。インナーローデン準州の隣に位置するアウサーローデン準州では89年、男性有権者の過半数が女性参政権導入に賛成した。ランツゲマインデを支持する男性や、女性参政権に反対する男性の多くは、この直接民主制の原型に信頼を寄せていた。しかし、よりによってランツゲマインデで女性参政権導入が決まったことで、彼らのランツゲマインデへの信頼が大きく揺さぶられた。その結果、90年代には有権者の過半数がランツゲマインデの廃止に傾いた。
女性に権利、スペース、立場を認めない男性によくあることだが、女性参政権反対派の多くは、あからさまに女性蔑視的な主張をしていたわけではなかった。例えば「女性も参加させるには、集会場は狭すぎる」というような言い方がされた。一方、「男性にとってランツゲマインデは、女性にとって母の日のようなもの」とテレビ討論で主張した反対派男性もいた。この男性は全ての女性が母親とは限らないことに気づいていなかった。当時の過激ぶりを伝えるエピソードもある。ある賛成派の女性の娘は、警察の保護がなければ学校に登校できなかったという。
ニスプレ氏は女性参政権に賛成の立場をいつも公に示していた。「私が若かった頃でも、いつものテーブル席に座っている私たちを同級生たちがからかってくることはあった。彼らはそんなものは必要ない、と言っていた」。挑発を受けても、いつも建設的かつ丁寧な説明で対応してきたという同氏だが、「時々、それで良かったのかと思うことがある」と話す。
ついに男女に開かれたランツゲマインデに
91年にはランツゲマインデという政治の「リング」に女性が初めて上がったが、特に混乱は起きなかった。「これには大変驚いたが、一方でとても嬉しかった」とニスプレ氏は言う。参加者4千人のうち、約3分の1が女性だった。議会開催中に発言した女性はたった1人しかおらず、回数も1回だけだった。「声を上げることで逃げ隠れできなくなる。他人と違う意見を持つことには力がいる。だがそれは議論にはつきものだ」。壇上で話されるどの主張も広場のムードを一転させる可能性がある。こうした民主的な慣例をニスプレ氏は今も気に入っているという。
スイスの他の地域では、ランツゲマインデは前近代的と考えられることが多い。ランツゲマインデでは時間と場所が固定されるため、病人や欠席者は投票から除外される。そして当然ながら、誰がどう投票したのかが参加者全員に見られてしまう。つまり、民主主義が機能する上での基本的前提である投票の秘密が守られていないのだ。「女性参政権に関して言えば、(反対派の中に)同調圧力が確実にあった。導入に賛成することは、女性にとっても男性にとっても『カッコイイ』ことではなかった」(ニスプレ氏)
90年代初めに女性フォーラムという協会が設立された。メンバーの女性には裁判官や州議会議員になった人もいた。この小さな州が輩出した、おそらく最も有名な女性はルート・メッツラー氏だろう。同氏は99年に連邦閣僚の座まで昇りつめた。しかしスイスの他の州に比べ、ここの準州議会は女性議員の割合が現在も極端に低い。
男性優位社会だった30年前
女性フォーラムのメンバー50人中、女性は11人しかいない。そのうちの1人が、ゲルリンデ・ネフ・シュテーブラー氏だ。今立っているアッペンツェルのハウプトガッセ通りの、ちょうど30年前の様子について話してくれた。それはある水曜日(彼女は方言でMektigと発音する)のことだった。「旧市街は煙に包まれていた。パイプやタバコをくわえた農家、家畜売り、粉引き屋、小麦粉売りがどこにでも座って商売をしていた」
女性はどのような様子だったろうか?「そこに女性の姿はなかった。私は(ドイツの)シュツットガルトから来たばかりで、なぜ男性ばかりが集まっているのか不思議に思っていた」。ネフ・シュテーブラー氏は看護師として働くため、ドイツの大都市から東スイスのこの村にやってきた。しばらくして看護師を辞め、アッペンツェルの地元人である現在の夫と高原で酪農を営んだ。
現在は準州議会議員を務め、農業関係者の利益を代表している。「私は温厚な性格で、激しくぶつかっていくタイプではない」。ドイツ連邦議会での議論に比べ、地元の議会では議論が友好的なところが嬉しいという。「だが声を上げて前を進む女性たちは絶対に必要だと思う」。女性の地位向上を求めて様々な要求が出されても、その多くは実現する前に振り落とされると同氏は言う。「最終的に実現されるものが、男女平等であればいいと思う」
女性参政権の導入以降、ランツゲマインデには参加していないことを夫からつい最近聞かされた。「今も(女性参政権を)認められない男性がいる。そして今も(ランツゲマインデに)行かない女性たちがいる」
(独語からの翻訳・鹿島田芙美)
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