核兵器の開発、実験、保有などを全面的に禁止する核兵器禁止条約が今日、発効した。同条約は2017年に122カ国・地域の賛同を得て国連で採択され、これまでに86カ国・地域が署名し、うち51カ国・地域が批准した。はたして同条約に実効性はあるのだろうか?
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ノーベル平和賞を受賞したこの市民社会の取り組みは、核兵器の保有国とその同盟国を除く圧倒的多数の国々の支持を得た。核保有国とその同盟国が参加していないため、核兵器禁止条約外部リンク(核禁条約)は核軍縮に影響を与えないと批判する声も多い。いずれにしても、核兵器の禁止が核兵器の廃絶につながるか、どのように核廃絶を促進するのかを見極める必要がある。
17年の核禁条約の採択は概ね喜びと安堵をもって迎えられたが、核保有国は条約に対して押し黙ったり、嫌悪感を示したりした。同条約は、核兵器の人道的影響に関する国際会議とジュネーブでの数週間に及ぶ議論の結果だ。ほとんどの核保有国はこれらの会合をボイコットし、国連ニューヨーク本部での交渉で反対した。
核保有大国の反対
主な争点は1968年の核不拡散条約(NPT)外部リンクの解釈だ。同条約上の核保有5カ国(米ロ英仏中)が、核兵器を保有する正当な権利は期間の制限なく同条約に明記されていると主張する一方で、大半の非保有国は、核保有5カ国は半世紀前に核軍縮の誓約と引き換えに核兵器を放棄したと考えている。インドやパキスタンなどNPTの締約国ではない核保有国は、ジュネーブ軍縮会議における条約交渉で与えられた拒否権を失うことに不満を示した。
「(核兵器禁止条約がもたらす変化として)一番に想定されるのは、条約の締約国内で、銀行、企業、大学、個人が核兵器の開発に貢献することが許されなくなることだ。このことは非締約国でも起こりうる」
2大核保有国の米国とロシア(旧ソ連)は、冷戦時代のピーク時には約7万基あった核兵器を1万2千基まで削減した。その他に、米ロ以外の核保有国(北朝鮮、インド、イスラエル、パキスタンを含む)が約1200基を持つ。これらの核兵器でまだ人類と地球を滅亡させることができる。印パ間の限定的な核戦争でさえ、地球環境に悪影響を与え、20億人もの人々が犠牲になる世界的な飢饉を引き起こす可能性がある。
国際司法裁判所外部リンクが96年に認めたように、いかなる核兵器の使用も、民間人と戦闘員とを区別する義務や、「不必要な傷害や苦痛」を避ける義務とは両立しない。この人道的アプローチが大多数の国々の支持を集めた。
核禁条約がもたらしうる変化
核保有国とその同盟国は、核禁条約は潜在的な慣習法も含め、これらの国々にいかなる義務も課さないと主張する。それでも核兵器を違法とみなすことができるだろうか?同条約の締約国にとって、核兵器は間違いなく違法になる。もし、核保有国の同盟国の一部が同条約に参加すれば、核兵器の配備や移譲を禁止する条約上の措置は当然、核保有国にも影響を及ぼすだろう。しかし、一番に想定されるのは、同条約の締約国内で銀行、企業、大学、個人が核兵器の開発に貢献することが許されなくなることだ。このことは非締約国でも起こりうる。また、締約国の裁判所が、核実験や核兵器の製造に起因する損害賠償請求を受理し、核保有国に賠償を求めるかもしれない。核保有国においても、核抑止力に流用された天文学的な財源を公衆衛生や社会的ニーズに再配分しようとする議論が活発になるだろう。
これらの間接的な影響によって、核兵器に対する非難や核兵器の違法化がより一層促進されるだろう。核保有国やその同盟国が、既に表明している長期的な核軍縮目標を誠実に追求すれば、核禁条約の枠外でも核軍縮に取り組む機会は数多くあるはずだ。米国のトランプ前政権の攻撃を受けた国際安全保障構造(新戦略兵器削減(新START)条約、中距離核戦力全廃(INF)条約、イラン核合意、領空開放(オープンスカイズ)条約など)は修復する必要がある。ただし、核保有国の安全保障にとって核兵器は不可欠だが、その他の国々にとっては受け入れられないと主張し続けることは、北朝鮮の例が示すように、核拡散を助長するだけだ。
スイスは傍観主義でよいのか?
核禁条約への署名を連邦議会の両院で可決したスイスは、国際人道法の番人としての役割と歴史から長く離れていることはできない。北大西洋条約機構(NATO)の圧力や核保有国の条約拒否の陰に隠れて責任を逃れるわけにはいかない。スイスの主導によって、核不拡散条約の全締約国が2010年、「核兵器が使用される可能性が人類にもたらす継続的なリスクと、核兵器の使用によって引き起こされる可能性のある人道上の壊滅的な影響を深く憂慮」すると宣言したことを思い起こそう。
本記事で表明された見解は筆者のものであり、必ずしもSWI swissinfo.chの見解を反映するものではありません。
(仏語からの翻訳・江藤真理)
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「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
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最近スイスで起きた三つの論争を振り返ると、人道を重んじるスイスの良心的な外交政策と現状に疑問を感じざるを得ない。
スイスは先進国と付き合うなかで、経済成長や中立の歴史に加え、ジュネーブに赤十字委員会や国連人権委員会など国際社会の良心といえる組織が拠点を置いていることを誇りにしてきた。国際機関の拠点都市ジュネーブを抱え、冷戦下のレーガン・ゴルバチョフ会談やシリアの和平交渉の舞台にスイスが選ばれたことは、人権や人道問題に関するスイスのイメージを高めてきた。
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