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スイスはどのようにして現在のスイスになったのか?

スイスを成功へと導いた中立政策

納骨堂
マリニャーノの戦いがあった場所の近くに建つ納骨堂。スイスの中立は、この戦いでの敗戦を機に誕生したとされる Keystone/Christian Beutler

永世中立国のスイスは、いかなる紛争にも参加しない。そのためスイスは長い間、紛争に巻き込まれることはなかった。現在は積極的に中立政策を実践しているスイスだが、常に中立が守られているとは言えない状況だ。

まず確認しておきたいが、中立はスイスが発明したわけではない。中立の概念は旧約聖書にも出てくるし、古代にも存在していた。また中立政策を長きにわたり維持してきた国は、スイス以外にもマルタ、コスタリカ、カンボジアがあり、軍事同盟に不参加の国にはアイルランド、スウェーデン、フィンランド、オーストリアがある。しかし、スイスはその中でも永世中立国としての歴史が最も長い。そしてスイスは中立を堅持している。

スイスの永世中立が成功モデルであることは驚きに値しない。様々な言語、宗教、文化から成るこの小国は、敵対的な大国から国の存立を守り、数多くの戦争や紛争で中立の立場を貫いてきた。そのため中立は国民にとって国のアイデンティティーを象徴している。

多数の戦死者がきっかけに

そもそもスイスの永世中立はどうやって誕生したのだろうか?中世のスイスは中立や平和主義とは逆の立場にあり、数百年もの間、外国軍に傭兵を派遣してきた。その数は100万人を超える。スイスほど傭兵を派遣した国はほかにない。スイスが攻撃された場合はスイス軍が外国から呼び戻されることになっていたため、スイス傭兵を雇う戦争当事国はスイスを攻撃しようとは思わなかった。こうしてすべての国に等しく傭兵を派遣することが、逆説的にスイスが永世中立国へと踏み出すための第一歩となった。

ウィーン会議
スイスは1814~15年のウィーン会議で、永世中立国として承認された Hulton Archive via Getty Images

1515年にマリニャーノの戦いで敗れ、多くの戦死者を出したスイスは、領土拡大政策の果ては国の滅亡だと悟った。それからというもの、スイスは状況に応じて中立の立場を取るようになった。この政策はスイスの伝統として定着し、スイスは1674年に中立を宣言。1814~15年のウィーン会議で永世中立国に承認された。

永世中立を見直す

冷戦が終わると、スイスの中立政策は盾としての役割を失い、政治的意義が薄れた。そしてスイスはそれまで以上に積極的な外交政策を展開していった。とりわけ人道支援や、国家間の紛争で仲介役に出ることは中立を補う正当な行為だとの認識を持ち続けていた。さらにスイスの連邦閣僚は2002年、国連への加盟申請で「スイスは国連加盟国としても中立を保てる」と主張。国連加盟が急遽、中立と相容れることになった。

こうして価値が見直され、意義も失われてきた中立だが、スイスの政府、議会、政党、国民は基本的に中立を堅持している。しかし実際に何が中立と相容れ、何が反するのかについて頻繁に議論が行われている。例えばスイスの重要な収入源である武器の輸出は中立に反することが度々指摘されている。また、スイスは1953年から平和維持活動に参加しているが、スイス軍は中立の立場から戦闘への参加が禁止されている。2001年の国民投票でようやく、自衛手段なら武器を装備してもよいことが決定された。

スイスの中立政策が問題となる出来事は最近もあった。スイス連邦国防省装備局(Armasuisse)の職員がイスラエルから監視用ドローンを購入することを目的に、ドローンの飛行試験が行われていたゴラン高原を訪問。だがゴラン高原はイスラエルが不当に占拠している地域であり、そこにスイスが訪問することは中立政策に反する。

ちなみに、スイスが欧州連合(EU)に加盟したとしても、EUが加盟国に相互の軍事援助を義務付けない限り、中立は保たれる。一方、北大西洋条約機構(NATO)への加盟は中立に反する。

(独語からの翻訳・鹿島田芙美)

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