欧州の枠組みから外れたスイス、科学立国を維持できるか
欧州連合(EU)との枠組み条約の協議が打ち切られたことを受け、スイスはEUの重大な研究開発支援計画から除外されることになった。その対応策として、スイス連邦政府は暫定的に研究者やベンチャー企業を助成金で支え、非EU加盟国の国々と新たなパートナーシップを結ぼうとしている。だが、それだけで十分だろうか?スイスに待ち受ける課題を探った。
EUがスイスの研究者に初の助成金を支給したのは、シャルロット・ラウフケッターさんが大学に入学した2004年のこと。それから約20年経過した今、EUはスイスに対し、史上最大の国際的な研究開発支援プログラム「ホライズン・ヨーロッパ」へのアクセスを厳しく制限した。ラウフケッターさんはこのプログラムの恩恵を受ける最後の研究者の1人となった。
ベルン大学で海洋学を研究するラウフケッターさんは今年1月、EUの資金助成機関「欧州研究会議(ERC)」から名誉ある「若手助成金(Starting Grant)」を獲得。この150万ユーロ(約2億円)を元手に、スーパーコンピューターと自律型ブイのデータを使って、有機炭素が深海に沈む様子をシミュレートする予定だ。気候変動分野において、この研究の意義は大きい。
ラウフケッターさんが助成金を申請した昨年初めの段階では、スイスはホライズン・ヨーロッパの枠組みを通じて研究を助成していく方針だった。2027年までに総額1千億フラン(約13兆円)が投じられるこのプログラムに対し、連邦議会はすでに50億フランの拠出を承認していた。
しかし、昨年5月に事態は一変した。7年続いたEUとの枠組み条約を巡る交渉から、スイスが離脱を決めたのだ。交渉の焦点は、移民や貿易分野などに関する数十件の2国間協定の改定についてだった。結果的に、欧州委員会は交渉決裂から間もなく、ホライズン・ヨーロッパにおけるスイスの立場を非加盟の第三国に格下げすることを決定した。
スイスの立場が変わったことで、スイスの研究者はERCの個人助成金に申請できなくなった。ただし、欧州委員会は1つ例外として、スイス・EU間の枠組み交渉の終了以前にスイスで申請した研究者に対し、EUまたはその他の対象国のホスト機関への移籍を条件に、助成金の受給継続を認めることにした。こうして優秀な頭脳をめぐって激しい競争が幕を開けた。他の多くの研究者と同様、ラウフケッターさんにもEUの様々な大学から託児サービス、パートナーの就職支援、無期雇用契約などのオファーが届いた。スウェーデン研究評議会はERCの資金受給者に対し、スイスからスウェーデンへの転居費用として10万フランを追加で支給する方針さえも打ち出した。
ラウフケッターさんは国外のオファーに魅力を感じたものの、移転は断念した。「私のプロジェクトはベルン大学で行うことを念頭に計画されているし、パートナーもスイスに住んでいる。だから代替の助成金が得られることになったのはとても嬉しかった」。連邦教育研究革新事務局(SERI)は、スイスに留まることを選択したERCの資金受給者に対し、ERCの助成金と同額を提供することにしたのだ。
EU助成金の重要性
スイスが参加国だった当時、スイスの個々の研究者や企業はEUの助成金に申請できた。研究グループは欧州全体のプロジェクトに参加できた上、プロジェクトを率いることも可能だった。EUの研究支援枠組みへの参加には大きなメリットがあった。SERIが2019年に発表した報告書外部リンクによれば、スイスは参加国として拠出した資金以上の見返りを得てきた。14~20年まで実施されたホライズン2020プログラムでは、スイスは参加国中1位、全体で8位の資金規模となる27億フランを受け取った。
スイスの研究者が得られる公的助成制度の中では、ホライズン2020はスイス国立科学財団の助成制度に次いで2番目に多くの助成金が得られる制度で、スタートアップをはじめとする企業にとっては最大の助成制度だった。2020年だけでも、スイス企業17社がそれぞれ最大250万ユーロを受け取っている。
個人レベルでみると、スイスでERCの助成金を得た研究者の数はこれまでに800人以上に及ぶ。ラウフケッターさんは「ERCの助成金のメリットはその知名度と権威の高さだ」と言う。ERCの助成金は競争率が高く、厳しい選考で知られる。獲得できれば研究者として箔がつくため、ラウフケッターさんは今後もERCの助成金を獲得したことを「名誉の証」として履歴書に記していくつもりだ。
SERIが緊急措置を講じたことで、スイスへのダメージは幾分緩和されたようだ。若手助成金を失わずに済むようスイスを離れた資金受給者は1人だけだ。SERIは今年3月、ERC独立移行助成金(Consolidator Grant)の受給が確定していた26人に対し、その金額に相当する額の援助を申し出た。老練の研究者が研究を進め、チームを強化できるよう支援するためだ。
スイス国立科学財団は、ERCの助成金とまったく同様の制度を連邦レベルで立ち上げた。しかし、取材に答えた研究者たちは、長期的にはスイスの制度にはあまり魅力がないと考える。研究者の半数以上が外国人外部リンクのスイスにとって、ERCの助成金は優秀な研究者を惹きつけるための重要な手段だった。ジュネーブ大学学長で、高等教育機関の統括組織スイスユニバーシティーズの会長を務めるイブ・フリュッキガー氏は、「ホライズン・ヨーロッパにアクセスできなければ、優秀な人材を惹きつけることも、スイス国内で高水準の研究を続けていくことも難しくなる」と指摘する。「新しい共同研究の形や新たな資金調達のパターンを考案していく必要があるだろう」
連邦内閣はEUの助成金の損失を補うため、暫定措置を採用。イノベーション促進を担う政府機関イノスイスを通じて「スイス・アクセラレーター」プログラムを今月からスタートさせる。それでも、すでに一部のスタートアップは他の欧州諸国にオフィスを開設することを検討していると、取材に応じた研究者や企業経営者は指摘する。
量子技術の共同研究求む
スイスがEUのプログラムに参加する最大の理由は、個人と企業への助成金の他にも、国際的な共同研究に参加できることにあった。SERIによると、スイスの研究機関、企業、非営利団体はホライズン2020の下で1211件のプロジェクト(全体の約4%)をコーディネートし、彼らがコーディネートしたプロジェクトが欧州委員会から承認を得る「成功率」は全体で最も高かった。
しかし、この状況が変わろうとしている。スイスが「第三国」になった今、スイスの研究グループや企業はEU全体のプロジェクトには参加できても、主導することは不可能になった。ジュネーブや他の欧州の3都市で公共交通機関向けの自律走行車を試験するという2200万フラン規模のプロジェクト「H2020 AVENUE」をコーディネートするジュネーブ大学のディミトリ・コンスタンタス教授(情報科学)は、「こうなると、スイスは知名度も名声も失い、大きなプロジェクトに関与できなくなる」と指摘する。
スイスは重要な研究に携わる機会を逃してしまうかもしれない。その例が量子技術分野だ。EUは2018年、量子コンピューティング、安全なデータ通信、センサー技術の開発を目的とした10億ユーロ規模の「量子フラッグシップ」構想を始動させた。このフラッグシップの下で立ち上げられた24件の共同プロジェクトのうち、スイスのパートナーが携わったのは11件で、スタートアップ企業をはじめとする多くの企業が参加した。連邦工科大学チューリヒ校のアンドレアス・ヴァルラフ教授(物理学)は「スイスがプロジェクトに参加できるのも今月で終わりだ。EUは量子技術を戦略的に重要な技術として位置づけているため、私たちが自費を出しても参加は認められない。私たちは完全に除外されてしまった」と語る。
ヴァルラフ氏の研究グループは、スイス企業のチューリッヒインスツルメンツと欧州のパートナー8社と共同で、超伝導量子コンピューターを開発してきた。従来のコンピューター技術では研究が限界にぶち当たることもあるが、量子コンピューティングは新薬の開発やより効率的なバッテリーの開発など、今後数十年における複雑な問題の解決策になると期待されている。
世界にはすでに量子技術に関する国家プログラムを立ち上げた国も多く、ドイツだけでもこの分野に20億ユーロを投資している。スイスはこの分野で多大な貢献をしてきたが、国家プログラムはまだ設立していない。スイスユニバーシティーズのフリュッキガー氏は「競争力を維持するためには、スイスは量子研究のような巨大プロジェクトなどの国内研究に今まで以上に投資していく必要がある」と言う。しかし、国内への投資だけでは不十分だとも付け加える。「科学は30年前よりもずっとオープンになった。新型コロナウイルスワクチンのときもそうだったが、データを共有し、国際的な協力関係を築くことが、科学技術の発展と巨大インフラの構築を実現する鍵になる」
未来に向けた連携
欧州との連携が叶わなくなった今、スイスは非EU加盟国との戦略的提携を進めようとしている。SERIとスイス国立科学財団の代表者は先日、米国、カナダ、ブラジル、英国の代表者とそれぞれ二国間会合を開いた。
確かに国外ネットワークの強化にはメリットもあるだろう。だが、欧州の交差点に位置するスイスは元々、周囲をパートナー国に囲まれている。特に交通や移動に関しては周辺国との協力関係が欠かせない。ジュネーブ大学のコンスタンタス氏は「H2020 AVENUEプロジェクトは他のパートナーとは実施できなかった。欧州にはどこも似たような移動文化があるが、それは米国やアジアとは異なるものであり、問題や解決策も違う」と語る。
スイス、英国、EUの間では政治的な対立は続いているものの、欧州中の研究者5千人以上が各国間の協力関係の維持を求め、「Stick to science」に署名した。これはスイス、英国がホライズン・ヨーロッパに参加できるよう迅速な合意を求める署名キャンペーンだ。欧州にとって重要なのは、スイスと英国のような科学立国が欧州での研究に強く関与し、貢献していくことだと、このキャンペーンの主催者は主張する。
しかし、協議終了後のスイス・EU関係は今まで以上に複雑になった。スイス連邦議会は現在、既存の協定の再交渉を目指している。研究分野でスイスの「完全な参加国」としての地位を復活させることなど、緊急性の高いものから再交渉を開始したい方針だ。こうした新しいアプローチを巡るEUとの予備交渉は始まったばかりで、スイスがホライズン・ヨーロッパにすぐに再参加できる見込みは今のところない。
スイスユニバーシティーズは、スイスができるだけ早くホライズン・ヨーロッパに再参加できるよう求めている。スイスの経済、技術革新、研究分野は活気にあふれているが、長期的にはこうした分野に限らず影響が出るとフリュッキガー氏は考える。「このままでは、スイスでの生活の質、つまり健康、教育、雇用、持続可能な開発へ向けた取り組みが危うくなる可能性がある」
(英語からの翻訳・鹿島田芙美)
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