コロナがもたらす科学のジレンマ
新型コロナウイルスのまん延を機に、科学の動向が世界中で注目されるようになった。政策や市民の生活に対し、これほどまでに影響力を持つのはあまり前例がない。だが、欠点もある。危機的な状況下でスピードにこだわるあまり、科学への信頼が損なわれる恐れがある。
科学雑誌ネイチャー・インディア誌外部リンクのスブラ・プリヤダルシニ外部リンク編集長は、「パンデミック(世界的流行)の発生以来、新型コロナウイルス(Sars-CoV-2)に関する科学論文が、まさに津波のごとく押し寄せてきた」と語る。同氏は先日、スイス科学アカデミー外部リンク主催の科学コミュニケーションに関するオンラインディスカッションに参加した。
ネイチャー誌によると、外部リンク2020年に世界で発表された科学論文のうち、4%はコロナウイルス関連だった。とりわけパンデミック初期には速報性が求められたため、結果としてピアレビュー(同じ分野の独立した専門家による査読)前のプレプリントを公開外部リンクする研究が急増した。
論文は、質と速報性のどちらが重要なのか?チューリヒ大学高等教育・科学研究能力センター外部リンクの科学社会学者、ルカ・トラチン氏外部リンクは、この問題を巡り科学がジレンマに直面していると言う。確かにプレプリントで公開すれば、「科学的洞察をできるだけ早く、対処可能なタイミングで伝えられる」が、同時に「検証の甘い研究結果を後から公に訂正する恐れ」も伴う。例えば抗マラリア薬ヒドロキシクロロキンを対象に行った2つの大規模なCOVID-19試験は、著名な英医学誌ランセットと米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)に掲載されたが、後に撤回に追い込まれた。外部リンク
スイスでもヒドロキシクロロキンを用いた研究外部リンクが行われていたが、中止せざるを得なくなった。製薬大手ノバルティスでさえ、同マラリア治療薬をしばし「希望の光」と表現していたほどだ。これらは全て、信頼性の喪失外部リンクや誤った情報の助長につながる例だ。
「口封じ」
スイス連邦COVID-19科学タスクフォース外部リンクは、政府への提案のベースとして多数のプレプリントを検証した。だがタスクフォースや対象となった研究結果は、たびたび政治や国民からバッシングの対象となった。
一方、タスクフォースの科学者の中には、政府が自分たちの助言に従った対策を取らないことに対し不快感を示す人もいた。そのため一部の党代表は、研究者が政府のパンデミック対策について公に発言するのを禁じるよう提言した。
ロックダウン(都市封鎖)や集会の自由の制限に不満を持った市民グループは、政府のパンデミック対策の法的枠組みを定めた「COVID-19法」に対するレファレンダム(国民投票)を提起した。6月13日の国民投票では、その是非が問われる。
タスクフォースのメンバーが公の場で自身の意見を述べることを禁止する、いわゆる「口封じ」条項は、連邦議会における激しい議論の末、最終的には取り下げられた。だが疑問はまだ残る。現在の、そして将来における科学への信頼は、一体どこへ行ってしまったのか?
世界観の問題
連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)外部リンクのレト・クヌッティ教授外部リンク(物理気候学)は、「問題は、科学が時として不愉快な現実を突きつけることだ」と指摘する。「その結果、『専門家は何も分かっていない』『自分が目立ちたいだけだ』と反論したくなる。だが実際は、科学への信頼と言うより、むしろ自分の世界観と現実が一致しないことが問題なのだ」
また、基本的にCOVID-19のせいで科学の威信に傷がついたとは思わないとした上で、パンデミック中に集計された科学バロメーターを示唆した。この調査では、現在の苦境を背景に、スイス人の科学に対する関心や信頼は逆に高まったことが示されている。
だがクヌッティ氏は、一般の人々でも、ピアレビュー前の個々の研究と、科学的に認められている内容とを区別する洞察力を持つべきだと考える。
例に挙げたのは、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の、気候変動は急速に進んでいるという科学的結論だ。これは「何千人もの研究者が5年間に10万件の研究をレビューし、そこから強固な科学的根拠を導き出した」ケースだという。クヌッティ氏はIPCCが公表した2つの報告書に深く関わっている。
一方、新型コロナウイルスのパンデミックに関する研究は、政治家や国民の要望もあり、できるだけ早く有用な結果を出すという大きな課題に直面している。他の研究課題であれば、こういったプロセスは通常何十年もかかる。「それが今では1年以内に答えを出さなくてはならない。これでは跳ね返り現象や副反応が伴っても当たり前だ」
だがフランス語圏のスイス公共放送(RTS)の科学ジャーナリストで、スイス科学ジャーナリスト協会外部リンクの副会長を務めるフマ・ハミス氏外部リンクは、パンデミックは「科学と人々の蜜月の終わり」を告げた、とやや悲観的だ。「事実だけが伝えられ、疑問点が言及されなかったのは良くなかった。一方、パンデミック中に科学への関心が高まったのは良いことだ」
メディアの役割
科学の成果を伝えるのは、大半がメディアの責任だ。先ごろスイス、米国、インドの様々な組織や研究機関を対象に行われたアンケート調査「#CovidSciCom」外部リンクでは、ジャーナリストよりも研究者や大学の方が信用できると思われていることが判明した。しかし出版物の氾濫が研究の信用度に悪影響を与えているのも事実だ。多くの若者にとって重要な情報源となるインフルエンサーやコラムニストは、信用度ではかなり低いランキングだった。
アンケートの回答者全員が、専門誌であれメディアであれ、質の管理が最大の課題だと考えていた。冒頭のプリヤダルシニ氏は、ネイチャー・インディア誌では選りすぐりのプレプリント研究のみを公開し、常にそのように注釈を付けるという。「つまり専門家とコンタクトを取り、事前にある種のピアレビューを行うかどうかは、私たちメディア関係者の手に委ねられている」
だが、皆がそうしているのだろうか?また、メディアは実施された研究の種類を十分に区別した上で、但し書きを付けているだろうか?「編集部や新聞社、ラジオ局の大半は、ここ数年で科学ジャーナリズムを縮小してしまった」とトラチン氏は嘆く。
またクヌッティ氏は、問題は必ずしもメディアではなく、「誰も質の高い情報にお金を出す気がないという点にある。メディアへの圧力は非常に大きく、科学ジャーナリズムは費用がかかる。人々はほとんど本を読まなくなり、ソーシャルメディアで情報を得るようになった」と言う。
疑問点への対応
科学は結果だけではなく、何よりも議論、理論の試行と再現、そして時には失敗の上に成り立っている。それが状況を更に複雑にしている。科学界でも、この点について十分な議論が行われていないと広く認識されている。
「科学は常に新しい知識を生み出す。だがこの新しい知識には、更に多くの疑問や不確実性、未知なことが伴う」とトラチン氏は言う。もっとも、この両面性は科学活動のジレンマであると同時に、魅力でもある。「全ての科学的結果には不確実性が伴うため、研究の方法やコンセプトに応じて吟味する必要がある。科学は、唯一絶対の事実だけを映し出すものではない」
複雑な科学的知見や声明は、メディアでは要約され、歪められ、誇張されがちだ。スイス科学アカデミーのマルセル・タナー会長は、「COVID-19は、私たちがもっと行動を起こすべきだいうこと、何が分かり、何が分かっていないのかを示す必要があること、しかし問題解決の処方箋は出すべきではないことを示した。この区別を明確化する必要がある」と言う。
クヌッティ氏はまた、研究者は内容を分かり易く伝えるために、研究成果をストーリーにまとめるべきだと提案し、ノーベル賞を受賞した経済学者、ダニエル・カーネマン氏の言葉を引用する。「数字1つだけで物事を判断する人はいない。それが意味する物語が必要だ」
スイス連邦COVID-19科学タスクフォースの「口封じ」を巡る議論は、結果的にはそれほど悪くなかったかもしれないとクヌッティ氏は指摘する。「このことと、国民やメディアからの抵抗は、不快な事実を伏せたり検閲したりすることが適切な方法ではないことを示している」。そして自己責任は、「情報を元に自分の意見を形成でき、そのベースとなる評価も全て出そろっている場合」にのみ機能するとした。
そして科学コミュニケーションと政策立案者への助言は、結局のところ異なる別物だと指摘する。「前者はメディア消費の問題、後者は政治との対話をどう成立させるかの問題だ」。また、たとえ科学と一般市民とメディアの間でコミュニケーションが機能したとしても、それが「政治と意見交換をする方法を見つける」ことにつながるわけではないとした。
(独語からの翻訳・シュミット一恵)
おすすめの記事
政府のコロナ法が国民投票に 何が問題?
JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。