スイス・チームが低酸素症の研究で大遠征
スイス人率いる登山隊が、高地ヒマラヤで過去最大級の医学研究プロジェクトを展開している。医師、研究者およびボランティアからなる70余名のチームが多数の実験を行っているが、その中で低酸素症に関する実験が、がん治療の手掛かりになると期待されている。
スイスの医学研究チーム「スイス・エクスペド(Swiss-Exped)」が、ヒマラヤで4週間の遠征中だ。標高7千メートルの高地で自転車型トレーニングマシンをこぎ、7千本もの血液サンプルを採集するのは、課題のほんの一部だ。
「これから高地で血液サンプルに正確なラベルを貼り、(どれが誰のものか)混ざらないようにしたり、それらを常にマイナス20度に保ったりしなければならない。この作業は容易ではないだろう」と45歳の整形外科医ウリ・ヘフティ隊長は語る。
ネパールの西側に位置するヒムルン山(Himlung)の標高は7126メートル。
初登頂は日本人の遠征隊が1992年に果たした。
今回の遠征では、24人の研究者と42人の被験者からなるスイス・チームがベースキャンプに到着するまで7日間かかる予定。
高地への順応は、高度約3300メートルの地点から始まり、時間をかけて行われる。
人体への影響を考慮し、この地点から上昇できるのは一日につき300メートルまで。今回のプロジェクト期間は合計1カ月。脳、心臓、肺、血流が検査される。
これはネパールのヒムルン・ヒマール峰(Himlung Himal、7126メートル)で行われる医学研究プロジェクトにある多数の懸案事項の一つに過ぎない。「高地ヒマラヤの厳しい環境の中では、問題が発生しても不思議ではない。しかし私たちは、大方の事態に対処する準備はできているし、有能なチームを結成した」とヘフティ隊長は説明する。
スイス・エクスペドは、2001年にチベットのシシャ・パンマ山(Shisha Pangma)、2005年に中国のムスタグ・アタ山(Muztagh Ata)、そして2009年にキルギスタンのレーニン峰(Pik Lenin)でも調査研究を行っている。今回の遠征では、それらの結果についての追跡調査を行う予定だ。さらに今回の研究の焦点は、高地における肺と脳の機能および、高地の薄い空気が人体に及ぼす影響、いわゆる「低酸素症(hypoxia)」だ。
「スイス・チームは、標高7千メートルの高地で、相当数の被験者の測定を行うという非常に面白い機会を得た」とイギリスのサウスハンプトンにある麻酔・救命医療大学病院(Anesthesia and Critical Care Medicine)のマイク・グロコット教授は言う。「この研究は、がん細胞が低酸素症にどのように反応するかについて理解を深める助けとなる」
細胞内に十分な量の酸素が存在しない腫瘍は、放射線治療や化学療法に耐性を示すことがある。従って、逆に細胞内の酸素の量が増加すれば、変化の可能性があるというわけだ。
これは特に病院治療に関係する。例えば集中治療室には、低酸素状態の患者が多く運び込まれる。
「酸素の量が重要な患者と、高地でトレッキングや登山をする人々の両方にとって、有益な研究になる可能性がある」とグロコット教授は指摘する。「新たな発見によって、高地に順応するのはどのような人間か、またどのようにして持っている力を最高に発揮できるのかを予測できるようになるかもしれない。何よりも、高山病にかかりやすいタイプの人間を識別できるようになる可能性がある」
ネパールの高所医療研究者ブッダ・バスニャット氏が、標高(が人体に及ぼす影響)について語る。
スイスインフォ:ネパールには多数の研究者がやってきましたが、スイス・エクスペドにもまだ研究の余地があると思いますか。
バスニャット:高地医学の研究者は「低酸素症」について研究している。これは病院医療に大いに関係がある。集中治療室の患者は酸素の欠乏状態に苦しんでいるケースが多く、高地の健康な人々もまた同様の状態にある。高山病の薬を慢性的な肺の病気にかかっている患者に対してどのように適用できるか、私たちが何らかの指針を探す必要がある。
スイスインフォ:これまですでに多数の研究が行われてきたにもかかわらず、私たちはいまだにスタート地点にいるのでしょうか?
バスニャット:それらはすべて多大な時間と労力を必要とするもので、点と点を結ぶためには何年もかかる。たった一つの研究チームが独力で革命的な何かを発見することは恐らくありえないだろう。イギリス、アメリカ、スイスなどの科学者による共同研究が必要だ。高所医学研究は、エベレストを登るようなもので、長い時間がかかる。
高所医学研究は、古くは中世にまでさかのぼる。スペインのイエズス会宣教師のアコスタ神父は16世紀にペルーへ渡り、アンデスの薄い空気のせいで頭痛が起きることを発見した。同神父はイエズス会の宣教師だったため、数々の発見を記録に残した。それらは現在バチカンに保存されている。
科学的な道具がまだ洗練されていなかった1960年代には、研究者がネパールに赴き革命的な研究を多数行った。標高が上がるにつれて、「VO2 max」と呼ばれる酸素の最大消費量が減少することを発見したのは、1961年にエベレスト地域へ遠征したイギリスのシルバー・ハット隊だ。彼らは、多大な情熱と責任感ある活動、そして長期にわたって研究を行う覚悟を持って、非常に洗練された研究を成し遂げた。
スイスインフォ:まだまだやらなければならないことがたくさんあるということでしょうか。
バスニャット:そうだ。急性の高山病が遺伝的な要因によるものなのかどうか、分かっていない。ほかの人と比べて、この病にかかりやすい人もいる。これは遺伝的要因によるものかもしれないが、どの遺伝子が原因かまでは判明していない。脳浮腫についても研究されているが、それがどういうときに起きて、正確には何が起きるのかは分かっていない。
スイスインフォ:遠征隊には、18人の女性が参加していますが、女性の体に対する影響について何らかの発見があるでしょうか?
バスニャット:女性の体に対する影響について面白いデータが出る可能性は大きい。現在までのところ、ほとんどの研究は男性の体に対する影響だ。さらに良いのは、被験者が40人もいることだ。高所医療研究の問題は、通常被験者を集めることが困難なため、数が非常に限られること、寒さにさらされるため低体温症や食欲不振に陥ることだ。従って、チームのメンバーは身体的そして精神的にも屈強でなければならない。私はこの研究が点と点を結ぶ助けになると信じている。
インタビュー:ビリー・ビールリング、カトマンズにて
厳しい選考基準
今回の遠征のために、24人の研究者が約2年間をかけて準備を進めてきた。スポンサーを見つけ、極めて高感度かつ高価な実験機材をテストし、40人の被験者を採用した。それらの被験者のうち半分近くは女性だ。「この遠征に参加できることになって、とてもわくわくしている。高地に登ったときに自分の体がどうなるのかとても興味がある」と答えたのは、適性があると診断された150人の候補者の中から選ばれたドミニク・メイヤーさんだ。
被験者の選抜基準は厳しく、ある程度の登山経験と健全な医療履歴の両方を持ち合わせた成人のみと定められていた。「特定の病を持っている人、ステロイドを服用している人、喫煙経験のある人は採らなかった。肺はこの研究の重要な器官のため、絶対にクリーンな肺を持っている被験者が必要だった」とヘフティ隊長は解説する。
過去1年間、昼夜の区別なく準備に没頭していたのは研究者だけではない。高地で毎日検査を受け、高い峰を登るなどの厳しい任務を与えられる被験者もまた、各々努力をしていた。
「私は半年間訓練を続けた。1週間に2回、25キロ分の石を詰めたリュックサックを背負って地元の山を登った」とメイヤーさんは言う。「身体的な準備は整っている。しかしこの大規模な遠征に対して、精神的にはどう備えればいいのか全く分からない」
複雑な物流管理
今回の遠征における挑戦は多種多様だ。そして調査が唯一の懸案事項というわけでもない。「今回の物流管理は、エベレスト登頂の企画よりもっと難しいと思う」と運営担当者カリ・コプラーさんは語る。コプラーさんは、25年間以上も世界中の高峰の登頂計画をまとめ上げてきた経験を持っている。
「登山のスタート地点まで、1.3トンの物資をトラック6台で運んだ。そこからポーターとラバが標高4900メートルのベースキャンプまでそれらの物資を運んだ」
物資には、作業計、超音波機器、ラップトップコンピュータ、そして割れやすい試験管が何千本も入っている。「ベースキャンプまでのでこぼこ道や、もっと高地のキャンプ地にたどり着くまでの厳しい登山に十分耐えられるよう、検査機器の荷造りにたくさんの時間と労力とお金をかけた」
それらの検査機器の使用には大量のエネルギーが必要だ。これはコプラーさんにとって少々頭の痛い問題のようだ。「ベースキャンプでは太陽光発電を使いたい。もっと標高の高いキャンプでも超音波機器を使いたいが、そのためには、そこまで重さ約8キロの発電機をシェルパに運んでもらわなければならない」
研究者へ酸素を
最も高所にある検査地の標高は約7千メートル。そのような高所で、多数の人間が検査を受けるのは前例にないとヘフティ隊長は考える。
「このくらいの標高で数人が検査を受けたことは過去にあったが、有益な結果を出すためにはもっと多くの被験者が必要だ」
標高7千メートルの高地では、空気中の酸素は、(海抜ゼロ地点の21%に対して)わずか8%しかない。研究者はそこで2泊することになっているため、酸素ボンベをつけて眠る。「酸素吸入をしたことは一度もないが、過去の経験から、高地で明確に思考するためには必要だと分かっている」
山岳ガイドとシェルパは、ヒマラヤ遠征にほぼ欠かせない存在だ。今回は、山岳ガイド8人とシェルパ35人が研究チームをサポートする。「シェルパ無しでこのような登山をすることは不可能だ」とコプラーさんは言う。「彼らはテントを立て、荷物を運び、ロープを張り、被験者の世話をしてくれる」
ぜいたく
長期にわたる滞在期間と順応段階を消化していく間、チームのメンバーは暖房を装備した食堂用のテントで食事を共にする。ほかにも約70のテントがあるが、シェルパはそれらのテントすべてを平らな地面に張らなければならない。「シェルパはテントを張る基盤を作るために4日間を費やした。シェルパを見ているだけでめまいを感じた」とベースキャンプの設営のために先入りしたコプラーさんは語る。
ヘフティ隊長はこの研究により、短期間で飛躍的な大発見ができるとは全く期待していない。スイスに戻ってから、発見事項を審査するために、引き続き被験者に検査を行う予定だ。そのためには、さらに9カ月から1年がかかると見込んでいる。
2007年にイギリスの研究調査隊「英国エクストリーム・エベレスト(British Extreme Everest)」を率いたグロコット医師も、同様の経験をしている。「(遠征の後に)治療を変更したり、入手したデータに基づいて人命を救ったりということはまだ起きてない。しかし私たちは、ついに2007年の発見に直接基づいた治療を患者に施し始めたところだ」
スイス・エクスペドが革命的な大発見をできるかどうかはまだ分からない。しかしヘフティ隊長とチームのメンバーは、小さな発見の一つ一つが集中治療患者の助けになると信じている。
「標高の高い山を登る登山家よりももっとたくさんの病人がいる。もしそうした病人を救うために何かを見つけることができたら、それがたとえ小さなものだとしても、それで我々の任務は達成されたことになる」
(英語からの翻訳 笠原浩美)
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