ゴッタルド道路トンネル開通40年
1980年に開通したゴッタルド道路トンネル。1881年のゴッタルド鉄道トンネル開通から約1世紀が過ぎていたとは言え、当時としては技術的にも前例のない工事だった。しかし皆が開通を好意的に受け止めていたわけではない。40年前の様子を振り返る。
1970年に着工、1976年に貫通、そして1980年に開通したゴッタルド道路トンネル。スイス人がこの山塊を征服したのはこれで2度目だ。1882年6月1日、最初の蒸気機関車がゴッタルド鉄道トンネルを通過してから98年後の偉業だった。
9月5日の開通当時、全長17キロ弱のゴッタルド道路トンネルは世界最長のトンネルだった。片側1車線のトンネル建設費は6億8600万フラン(約805億円)(1キロメートル当たり4100万フラン)。この金額には、第2トンネル用の竪坑と換気システムも含まれ、第2トンネルの建設コストを抑えられる見込みだ(2020~2029年建設予定)。
輸送ブーム
ゴッタルド道路トンネルは、欧州の北と南を結ぶ高速道路網を完成させる最後の場所とみなされていた。だが実際はアルプス以南の国道N2(現在の高速道路A2)がまだ工事中で、新トンネルによる交通量の増加はレヴェンティーナ渓谷のいくつかの自治体に影響を与え始めていた。
影響を受けた自治体の1つ、ファイドの住民らは、公害や振動におびえるだけでなく、安全に道を渡ることさえ難しくなっていた。また、国境の村ポンテ・トレーザへ向かう道路沿にある自治体アグノは、それまで輸送トラックとは全く縁のない村だったが、「窓を開けて広場の空気を良くしよう」と住民がコメントするほど空気の質が悪化していた。
そして数字はこういった実感を裏付けていた。1980年9月、ティチーノ州のゴッタルドルートの交通量(自家用車とトラック)は、前年同月比で100%増加した。この値はこれまでのトンネル開通時の3倍に匹敵すると、高速道路整備の責任者が当時のテレビ番組で伝えている。
ゴッタルドの開通は輸送業にも影響を与えた。もはや雪は障害ではなくなり、ゲッシェンネンとアイロロを結ぶこのトンネルは、アルプスを越える輸送ルートとして好んで利用されるようになった。
一方、同年9月5日~10月5日までのサン・ベルナルディーノの交通量は2割減少。同時にキアッソの税関を経由する交通量は1割増加した。
だがこれはまだ始まりに過ぎなかった。スイス中心部に位置するゴッタルドは、その時点ではまだ交通量が少なかった。しかしブレンナー峠、グラン・サン・ベルナール峠、モンブラン峠と違いトンネル通行料がない上、サン・ベルナルディーノと比べると標高差が500メートル少なく、移動時間も約1時間短縮される。そのため、当時は時間と積載量の制限が厳しかったにもかかわらず、この新ルートを利用するトラックやダンプカーは次第に増えていった。
自動車輸送に幕
かつてゴッタルドを通る貨物列車には、一部に自動車を運ぶ貨車が取り付けられているだけだった。やがて自動車輸送の確立とともに、貨物列車は1950~1979年の間に700万~900万台の車を輸送した。ピーク時の1967年(サン・ベルナディーノ開通前)には約60万台、1979年(ゴッタルド道路トンネル開通前の最後のフル稼働年)には44万7995台の車を輸送した。
現存する5つの自動車輸送線のうち、この数字を上回るのは昔ながらのレッチベルクトンネルのみだ。ここには峠道がないため、夏場も列車の自動車輸送に頼るしかない。
この「レール上の高速道路」の終焉に伴い、アイロロ駅とゲッシェネン駅からは列車とともに職員の姿も消えていった。
前例のない大工事
トンネル工事は10年を要した。1952年に始まった第1次予備調査から選定・入札までの15年以上は、トンネルの実現に向け政治的な労力も費やされた。
1960年、国会は既に高速道路網の概要を立案していたが、具体的な着手は1966年に調査結果が出てからだった。その一方で、トンネルを通過する交通量は、1時間当たり最大350台という予測が上方修正され、ピーク時は2000台に達するだろうと見込まれていた。
入札を勝ち取ったのはエンジニアのジョバンニ・ロンバルディ氏だ。完成までのプロセスは「長く苦労に満ちたもの」であり、全く新しい困難と問題に直面したとロンバルディ氏は述べている。これだけ長いトンネルに適した換気方法を見つけることに始まり、何から何まで従来のモデル通りにはいかなかった。
南部区間には一部、比較的広範囲に「総断面」を発破できた場所があったが、通常は地質に応じ、掘削のたびに最大5段階の発破が必要だった(写真参照)。
南側では鉄道を、北側では道路を利用してトンネル内の作業員と資材の行き来を行った。
(傾斜した)換気用の竪坑は、まず下から上に向かって回転式の機械で掘削し、次に別の機械で上から下に向かって掘削を進めていった。振動が少ない上、爆発性ガスを排出するための換気が必要ないため、作業量やリスクを抑えた技術として活用された。
トンネルの建設には新型の機械が使用されたが、地盤工学的な理由から工事には遅れが出た。もちろん地質は調査済みだが、岩盤や地すべり、変形現象、高圧下での浸水、瓦礫、泥といった障害にぶつかる頻度は予想が不可能だった。これらの遅れを取り戻すために、北側からは補助的な掘削が進められた。
スイス人はわずか1人
1976年3月26日、坑道が貫通する瞬間の生放送準備中、当時のイタリア語圏のスイス公共放送TSIは、現場監督のアルベルト・フォン・ビューレン氏にインタビューを行った。彼は南側の工事現場では唯一のスイス人だった。
記者は、南側に割り当てられた9キロメートルの掘削を完了するのに10年近くかかったのは何故かと尋ねた。100年前の鉄道トンネル建設時には、機械も少なく技術的な知識が欠けていたにもかかわらず、同じ期間でトンネル全長の掘削を達成している。
その答えはトンネルのために掘削された合計距離も関係していたが、(1872~82年の間にトンネル1本が完成。1970~80年の工事はトンネルに加え坑道と竪坑も掘削)配備された人員の数も原因だった。ゴッタルド鉄道トンネルの建設時、スイスの技術者ルイ・ファーヴルが指揮した工事現場には1200~1500人の労働者がいたのに対し、1世紀後の道路トンネル工事に携わっていたのはピーク時で最大250人だった。
また、巨大な山塊を克服した人類の勝利をたたえる報道も、1世紀前とは全く様変わりしていた。1880年にトンネル貫通の瞬間を伝えたのは電報だったが、1976年のスイス時間11時56分には、貫通の瞬間と南北の労働者が喜びに抱き合う姿を世界中の人がカラーテレビの生中継で見届けた。
(独語からの翻訳・シュミット一恵)
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