タイタニック号沈没事故から100年後に、乗客の手紙発見
100年前の1912年4月14日深夜、ニューヨークに向かっていた豪華客船タイタニック号が氷山に衝突。2時間半後に沈没した。
三等客室で眠っていたアントン・キンクさんは、「地震か」と飛び起き、甲板に出た。そのとき、目に映ったのは氷のかけらでサッカーに興じる男たちの姿だった。「氷山に衝突した。だが危険はない。タイタニック号は絶対に沈没しない船だと数人が言った。そこで安心してベットに戻った」と、キンクさんは最近発見された手紙の中で、こう綴っている。
イギリスのホワイト・スター・ライン(White Star line)社が製造したタイタニック号は大西洋横断のための豪華客船。1912年4月14日の真夜中寸前、氷山に衝突し沈没した。
4月10日にニューヨークに向けイギリスのサウサンプトン港を出発。その後、フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄港した。
ニューファンドランド沖南西375マイルの地点で氷山に衝突。およそ2時間半で完全に水浸されてしまったタイタニック号は4000メートルの海底に沈んだ。
船には2200人を少し超える人が乗っていた。これは制限人数をはるかに下回る数だった。なお、このうち乗員は885人。乗客は一等に320人。二等に280人、三等に700人乗船していた。
しかし、こうした乗船人数に対し、救命ボートの数は十分ではなく、半数の乗客だけを救えるものだった。さらに事故当時、各ボートは満載されなかった。そのため、生き残った人の数は3分の1だった。
「救助は女性と子供を優先」の指針により、亡くなった男性の数は圧倒的に多い。女性の生存率が75%なのに対し、男性のそれは20%。子どもは50%。
客室別の生存率では、一等の乗客が61%。対する三等の乗客は24%に過ぎない。
救命ボートで救われた人々は、その後、大型船カルパシア号(Carpacia)に救助された。
1985年に沈没した船体の位置が確認され、その後多くの工芸品などが陸揚げされている。
チューリヒで働いていたがアメリカへの移住を決意したキンクさんは、妻と4歳の娘を連れタイタニック号に乗船。そして幸運にも生き残った。
アメリカのミルウォーキーから事故の2週間後に、キンクさんは切符を購入したバーゼルの旅行会社に対し20ページの手紙を書き送っている。
それが、事故から100年後の今年の、しかもつい最近、タイタニック号に関するスイスの研究者ギュンター・ベブラー氏の手によって発見され、ドイツ語圏の日曜新聞「ゾンタークス・ツァイトゥング (Sontags Zeitunng)」に掲載された。
長い手紙の目的は、その最後に説明されるが、失った持ち物などに対する補償を問うものだった。「船の持ち主、イギリスのホワイト・スター・ライン社から何かしらの補償があるのではないか。また失った持ち物はどうなっているのか。さらに同船していた兄と妹の遺品についても知らせてほしい」
キンクさんはその後、こうした点について関係当局からの対応に満足したのだろうか?残念ながら、ゾンタークス・ツァイトゥング紙上に、それは言及されていない。
孫娘の驚き
「祖父たちはチューリヒで働いていたが、アメリカ移住を決意した。祖父の叔父がミルウォーキーで働いていたためだ。親戚を頼っての移住は当時の典型的な例だった」と語るのは、キンクさんの孫のジョアンヌ・ランダルさんだ。
現在カリフォルニアに住むランダルさんは、「祖父の手紙が新聞記事になり、本当に驚いた」と言う。祖父のことはあまり知らないからだ。
祖母のことは覚えているが、祖父のキンクさんは無事ミルウォーキーで仕事を始めたものの数年後に離婚。故郷のオーストリアに戻り再婚し、その後またブラジルに移住している。
ランダルさんの母親、つまりキンクさんの娘でタイタニック号の事故当時4歳だったルイーズさんは、キンクさんと1930年まで文通を続けたが、その後の消息は知らない。ただ彼が1959年に亡くなったことだけを知っていた。「若いころ、祖父が生まれ故郷のオーストリアで何をやっていたかは知らないが、20代の中ごろチューリヒに移ってからは、倉庫の管理人をしていた」
ところで、キンク家がタイタニック号に乗船したとき、実は前述のように、キンクさんの兄ヴィンツェンツさんと妹のマリアさんも同船していた。またチューリヒ近郊ウスター(Uster)の農夫、アルベルト・ヴィルツさんも一緒だった。兄妹の遺体は見つからなかったが、ヴィルツさんの遺体は発見されている。
「もしかしたら兄と妹が無事に救助されたのではないかと思うこともある。もしこの件について、何らかの情報を伝えて下されば、これほどうれしいことはなく、心から感謝したい」と、キンクさんは書いている。
タイタニック号にはスイスと関係のある人が27人乗船していた。うち12人が生存。
27人のうち7人は豪華レストランの従業員だった。
オーストリア出身でスイスのチューリヒで働いていたアントン・キンクさん(当時29歳)は、妻と娘(両者ともルイーズという)と共に乗船していた。ほかに兄のヴィンツェンツさんと妹のマリアさん、またチューリヒ近郊の農夫、アルベルト・ヴィルツさんも一緒だった。
一行は、バーゼルの旅行会社カイザール社(Kaiser&Co)に乗車券として、大人340フラン、子ども100フランを払っている。
ヴィンツェンツさんとマリアさんはタイタニック号に残り、亡くなっている。ヴィルツさんの遺体は見つかっているが、2人の兄妹の遺体は見つかっていない。
キンクさん一家は、救助ボートから大型船カルパシア号(Carpacia)に救われ、予定通りアメリカのミルウォーキーに到着。
しかし、その後1919年に夫婦は離婚。アントンさんは故郷のオーストリアに1度戻り再婚。再び移民としてブラジルに渡っている。その後1959年にオーストリアのグランツ(Granz)で亡くなっている。
娘のルイーズさんは、1992年に死亡。ルイーズさんの家族は、事故当時の思い出として、ルイーズさんが履いていた靴と体をくるんでもらった毛布を保管している。
カリフォルニアに住むルイーズさんの娘、ジョアンヌ・ランダルさんは4月10日、事故後100年を記念して「タイタニック号の海の墓地」を訪れる航海の旅に出発した人びとの1人である。
救助
三等船室の生存者の中で、家族が全員無事だったのはキンク家だけだった。それは、キンクさんが最後から2番目に出発しようとしていた救命ボートに飛び乗ったお蔭だ。
「船員は、おまえはタイタニック号に残るべきだと私の胸に拳を当てて言った。私は彼と争う代わりに、隙を見てボート内に滑り込んだ」とキンクさんは手紙に書く。
さらにボートにはまだ十分ゆとりがあったとも指摘する。「40人乗りのボートなのに17人しか乗船していなかった。もっと多くの人を救助できたはずだ」
そのボートからは、「2000人もの人々の叫び声が聞こえた」。「その叫び声と、雷のような唸りと共に大洋に飲み込まれていくタイタニック号の中から聞こえる空気の轟音。それらが次第に消えていった」
その後の静けさとの対比はキンクさんの胸を打つ。「霧ひとつない美しい夜だった。星は輝き、海はあくまで静かだった。もしかしてチューリッヒ湖上にいるのではと思うくらいだった」
心の傷
キンク一家は、救助ボートから大型船カルパシア号(Carpacia)に救われる。カルパシア号は、タイタニック号から届く苦悩に満ちた電信に、予定の航路を変更し救助に駆けつけた唯一の船だった。
だが、この船での残りの旅も容易ではなかった。「給仕の態度はひどいもので、彼らがサービスしてくれた食事は食べられたものではなかった。ニューヨークに着く時間を指折り数えた。最後には給仕同士が殴り合いの喧嘩を始め、とばっちりを受けないよう逃げるのがやっとだった」
キンク家は、全員が無事だったという点で、確かに幸運だった。しかしタイタニック号の事故は娘ルイーズさんに心の傷を残したように思える。ランダルさんは、スイスインフォに対してこう語る。
「母は記憶を喪失した。覚えているのは学校時代のことだけだった。チューリヒでの生活も、タイタニック号のことも、そこでの混乱もすべて忘れてしまった。しかし、悪夢にうなされる日々が残った」
(英語からの翻訳・編集 里信邦子)
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