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チーズを核に団結

チーズ同盟はここにも。スキー・スイス代表チームの1992年から98年までのユニフォーム。スイスの名スキーヤー、パウル・アッコラ選手(左)とフランツ・ハインツァー選手がチーズルックの新しいユニフォームを紹介(92年9月28日撮影)
チーズ同盟はここにも。スキー・スイス代表チームの1992年から98年までのユニフォーム。スイスの名スキーヤー、パウル・アッコラ選手(左)とフランツ・ハインツァー選手がチーズルックの新しいユニフォームを紹介(92年9月28日撮影) Keystone / Archiv

スイスチーズ同盟は、1914年から国内外でスイスチーズの調達を担ってきた。その責務を果たすため、生産だけでなく価格もコントロール下に置きながら。

14年晩夏、スイス連邦当局の求めに応じて、スイスチーズ輸出業者組合が創立された。今では一般的に「チーズ同盟(SKU)」と呼ばれている。当時このチーズ同盟に加盟したのは、チーズ輸出業者、牛乳生産者、チーズ生産者の各組合員、それにスイス消費者組合(VSK、現在の小売大手コープ)の組合員となっている消費者だった。

この専売公社の趣旨は、国民へのチーズ調達と輸出の組織作りにあった。ハードチーズの輸出で得た利益は、戦争による物価高騰により牛乳生産でもかさみつつあった出費の補填に充てられた。その甲斐あって、飲料用牛乳の消費者価格は世界市場価格を大幅に下回るレベルに抑えられた。

チーズ同盟が1934年に作成した栄養一覧表(独語)
チーズ同盟が1934年に作成した栄養一覧表(独語) Schweizerisches Nationalmuseum

第一次世界大戦勃発直後に、牛乳の生産者、バイヤー、チーズ輸出業者が今後の共通方針について合意できたことはまったく予想外だった。何しろこの3者はその直前まで、いわゆる「牛乳戦争」の中で争っていたのだから。

争いの発端は20世紀初めにさかのぼり、牛乳生産者が新しく牛乳価格の交渉を始めようとしたことによる。酪農家が牛乳と引き換えに受け取る代金は19世紀まで外国市場が左右しており、一般に輸出業者が輸出ハードチーズで得た収益の12分の1に相当する金額とされていた。

この価格は国内で消費する飲料用の牛乳にも自動的に適用された。しかし、この論理は多くの酪農家にとって正しくもなければ公平でもなかった。こうして、労働者が組合を通じて労働の価値について論じ始めたように、酪農家も自分たちの牛乳の価値をめぐって交渉を求め出したのだった。

酪農家は牛乳のバイヤーやチーズ輸出業者に対する立場を強化しようと、地域レベルや国レベルの連盟を通じて連携を固めた。これらの連盟は価格形成のメカニズムに関する計算能力や知識の収集能力を備えていたため、輸出業者やバイヤーと対等に交渉できた。

「適切な」牛乳価格をめぐる議論は、当時すでに「牛乳戦争」と呼ばれていた論戦で頂点に達した。だが、関係者は同時に交戦だけでなく、一致団結や価格交渉、そして妥協することも学んだ。

これは牛乳市場管理の形成における重要な基盤だった。こうして14年以降、チーズ輸出で利益を確保できるようになっただけでなく、国内でも全国各地、同じ条件でチーズを購入できるようになった。このようにチーズ同盟は14年から解散した99年まで、その規約をシンボル的な意味合い以上に体現した。

1926年頃のチーズ作りの様子
1926年頃のチーズ作りの様子 Schweizerisches Nationalmuseum

第一次世界大戦時の活動の中心は国内におけるチーズ調達だったが、終戦から第二次世界大戦までの間に輸出も次第に促進された。

第二次世界大戦後にはこの活動をさらに拡大し、世界各地の見本市や料理教室、他のイベントでエメンタールやグリュイエール、スプリンツなどのスイスチーズを紹介するようになった。また、専用の広告事務所も数多くの国に置いた。

第一次世界大戦時のチーズの配給切符。1914~1919年
第一次世界大戦時のチーズの配給切符。1914~1919年 Schweizerisches Nationalmuseum

さらに、国内の売り上げ拡大を目指してフォンデュやプロセスチーズなどの新たな「ブランド品」も創った。プロセスチーズはもともと熱帯地域への輸出用に開発されたもので、輸出量全体の5分の1を占める時期もあった。

チーズ同盟は牛乳関連の各連盟とともに、牛乳生産者に対して、チーズ製造業者に納品した牛乳で作られた牛乳製品の一部買い戻しを一時的に義務付けた。特に、俗に「ブロックチーズ」と呼ばれるプロセスチーズは、第二次世界大戦後に国内でも多少人気が上がったにもかかわらず往々にして売り上げが伸びなかったため、牛乳生産者はその買い戻しを余儀なくされた。

しかし、このような形の「強制消費」は、長期的にはおそらくむしろチーズ消費の減少を招いたと思われる。なぜなら、50年代から60年代にかけて育った農家の子供たちは、自分も普段から生産に関わっている良質の牛乳が主にブロックチーズの原料になっていると(誤った)確信を抱いており、買い戻しをそれほど不満に思っていなかったからだ。

ブロックチーズを好んで買う人もいなくはなかったが、全体的にはやはり、「自然の生産物」である牛乳をわざわざ工場で加工した「(不自然な)チーズのみせしめ」というイメージが付きまとった。

チーズ同盟の加盟者数は多かったが、その活動には常に議論がついて回った。80年代から90年代にかけて新自由主義的な秩序意識が台頭すると、チーズ同盟は何よりも「権力乱用やフォンデュに対する反面教師」という解釈が浸透し出した。

それに対し、現在行われている超国家的な歴史研究では、チーズ同盟は栄養政策的・社会政策的な働きをし、時には革新的な販売戦略も実践しているという、当時とは異なる姿が浮き彫りになっている。

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この風刺動画の中では、スイスのコメディアンであり映画監督でもあるパトリック・カルピチェンコさんが、スイスの過ち― 今回はチーズ同盟 ― を謝罪(英語)

独語からの翻訳:小山千早 

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