スイスの「ミスター・コロナ」って何者?
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がスイスに上陸して以来、この顔をテレビで見かけない日はなくなった。ドイツ語圏ではヒーロー扱いだが、フランス語・イタリア語圏では嫌われ役。スイス連邦保健庁感染症班のダニエル・コッホ氏(64)は、スイスのCOVID-19対応の最前線に立つ。
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これまで誰にも知られていなかった人物が、コロナ危機の勃発とともに常にスポットライトの当たる存在となっている。スイスの場合はダニエル・コッホ氏がそれで、「ミスター・コロナ」と呼ばれている。
パンデミック(世界的大流行)の進展を知ろうとテレビをつけるスイス人のお茶の間に必ず現れるコッホ氏。外出できない人々が外界を知る寄る辺であり、ジャーナリストの窓口であり、急増するCOVID-19の患者数・死者数を発表する重責を負っている。
政府の方針を守るために最前線に立つのはコッホ氏だ。パンデミックへの処方箋は、外出の禁止ではなく自己責任とスイス人の市民精神だ。スイスは同じようにCOVID-19が急拡大したイタリアやスペインとも、国境を接するフランスやオーストリアとも異なる戦略を取る。これらの国々は厳しい罰則付きで外出を禁止している。
どの記者会見でも1時間以上にわたる質疑に根気強く答え、「状況は劇的だ」と表明するときですら落ち着いた声色は変わらない。その冷静沈着な姿勢が、ドイツ語圏メディアでは高く評価されている。
▲スイス公共放送(SRF)の新型コロナウイルス特番に登場したダニエル・コッホ氏
ベルンの地域紙は「コッホ氏は禁欲的な瞑想者さながらに、スイス国民全体の脈拍を健康的な水準に押し下げることができる」と評する。ルツェルンの地域紙は「血と汗と涙。コッホ氏はそのいずれも気にかけない。仏大統領のようにウイルスを戦争と比較するようなことも決してない」と書いた。
「もっと酷い現場も見てきた」
乱気流の中でも冷静な頭を保たねばならないと教えたのはコッホ氏自身の経歴だ。ヴァリス州出身のコッホ氏はベルンで医師の資格を取った後、赤十字国際委員会(ICRC)に15年勤めた。
医療コーディネーターとして働き、特に1991~2002年のシエラレオネ内戦で惨状を目の当たりにした。「それは極めて残酷な行いにあふれた残忍な戦争だった。手が刈り取られ、子供たちが兵士に駆り出された」。大衆紙ブリックでコッホ氏はこう回想した。ウガンダ内戦の負傷者の治療にも当たり、1994年にはルワンダの大量虐殺も経験した。
連邦保健庁に移ってからは、02~03年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の対応や鳥インフルエンザ(H5N1)への対応で手腕を振るったが、名を公に広く知られたわけではなかった。コッホ氏は「内戦を経験したのは、落ち着きを保つのに少なからず役立っている」とあるインタビューで答えている。
今後数週間あるいは数カ月、前例のない危機を克服するためにコッホ氏はその経験と知識を総動員するだろう。国全体が機能不全に陥るのを防ごうと、コッホ氏は7人の感染症班員と共に、休日返上で対応に当たっている。
そんなコッホ氏は犬と一緒に走る競技「カニクロス」の愛好家だが、もちろん今は趣味に費やす時間は1分たりともない。ブリック紙によると、飼い犬2匹は状況が落ち着くまで飼育サービスに預けた(1匹はアキラと名付けられている)。2人の娘を持ち、最近孫が産まれたばかり。痩身で疲れ気味に見えるが、ドイツ語圏のスイス公共放送(SRF)で「十分寝ているし十分食べている。痩せているのは昔から」と明言し、視聴者を安心させた。
「大いなる矛盾」
ミスター・コロナの双肩にかかっている重圧は並みの大きさではない。ドイツ語圏では高い評価を受けている一方、フランス語圏やイタリア語圏を抱えるスイス西部では保健庁など政府の一連の対応について批判的な見方が多い。西部では完全な外出禁止を求める声が少なくなく、陳情書を提出するための署名集めまで始まった。
国内で最も感染者数が多いティチーノ州では、スイスがイタリアと同様の措置を取るよう求める声が強い。アスコーナ町の役人たちはダニエル・コッホ氏宛てに手紙を送った。友人5人未満で自宅で夕食を共にするのが可能かどうか、といった疑問点について、コッホ氏のメッセージは不明瞭だと批判。「早急に説明の仕方を見直し、スイス国民に自宅から出ないよう強く促すべきだ」としたためた。
スイスのコロナ対応は国外でも批判の的になっている。フランスではオートサヴォワ県がル・ドリアン外相に対し、この問題についてスイス当局に早急に連絡を取るよう要請。スイスは国境を接するアネ県とオートサヴォワ県の越境労働者を危険にさらしていると訴えた。オートサヴォワ県選出のロイック・エルヴェ国会議員は「国境の向こう側の衛生政策が意図的に緩められているのであれば」、フランス側の努力が水の泡になる、と地元ラジオで話した。「それは大いなる矛盾だ」
「ここは中国ではない」
当局の措置に対する反応の違いには、文化的な差が良く表れている。スイスのラテン語圏は厳格な外出禁止を求めるが、ドイツ語圏では今の「社会的距離」ルールで十分だと捉えられている。「ゲルマン系の文化では、個人の責任が集団の責任につながるとみなされる。これは秩序は上が決めるべき、とする南方の文化からすると異質な考え方だ」。フランス語圏の日刊紙ル・タンで、歴史家のオリヴィエ・ムーリィ氏はこう説明した。
だがコッホ氏が連邦内閣の方針を説明するのに疲れをみせることはない。SRFの番組では「政府の措置はおそらくもう少し厳しくなる。だが外出禁止が最終目的ではない」との見方を示した。コッホ氏はスイス人の自律心を信頼している。「我々が取る措置は我々の文化、社会、そして民主主義と調和していなければならない。ここは中国ではない。全体主義にはなりたくない」
今のところ、ミスター・コロナの言葉は強い説得力を持っている。世論調査会社ソトモが24日発表した調査では、スイス人の63%が危機対応に関して政府を信頼していることが分かった。コッホ氏は4月13日に65歳の誕生日を迎え、定年退職する予定だった。だが隠居生活を送れるようになるのはもう少し先になりそうだ。
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