スイスの職人、「ルティエ」という仕事~ローザンヌ
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スイスの夏は音楽祭や、演奏家を目指す若い音楽家のためのマスタークラスが同時に各地で開催されるため、空港のターミナルや列車の駅などでヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、時にはコントラバスを持ち歩く人の姿を多く見かける季節となります。そんな音楽家たちの大切な弦楽器を陰で支えて守っているのが今日ご紹介する弦楽器職人なのです。
弦楽器職人はイタリア語でリウタイオ(liutaio)、フランス語でルティエ(luthier)と呼ばれ、弦楽器の製作や修復に携わり、音楽を技術の面から支える重要な仕事をしています。イタリアのクレモナは16世紀からアマティ家、グァルネリ家、そしてアントニオ・ストラディバリなどが弦楽器の名器を製作したため、弦楽器製造の中心地、ヴァイオリンの街として今日でも有名ですが、スイス各地にも意外にたくさんの弦楽器工房があります。
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レマン湖北岸に位置するヴォー州のモルジュ(Morges)、ローザンヌ(Lausanne)、キュリー(Cully)には弦楽器職人が6名、弓職人が1名、と合計7名のルティエと呼ばれる人がいて、それぞれの工房で仕事をしています。そのうちの一人、ピエール・マストランジェロ氏(Pierre Mastrangelo)の工房を訪問しました。
ローザンヌ旧市街にあるブール通り(Rue de Bourg)。古い軒並みが続く石畳の通りには、素敵な店頭ディスプレイに思わず足を止めたくなるブティックや東京銀座に進出しているチョコレートの老舗など、おしゃれな店舗が並んでいます。マストランジェロ氏の弦楽器工房はこのブール通りの27番地にあります。
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この工房の前身は、1934年に弦楽器の修理や調整の専門家として国際的に知られたピエール・ジェルベール氏(Pierre Gerber)が開設した弦楽器工房でした。「それぞれの弦楽器が持つ音色の追及を最も大切にする」工房として、著名な演奏家たちに信頼されたジェルベール氏の工房は、開設当時はサン・フランソワ広場にありましたが、約4年後にブール通りに移転します。
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ジェルベール氏に対する尊敬と感謝の気持ちが込められているのか、ブール通りに掲げられたマストランジェロ氏の工房の看板は今も「P. ジェルベール」のままです。エレベーターで3階にある工房を訪れます。入口の扉を開け、工房に一歩足を踏み込むとそこは別世界。ブール通りの華やかさが嘘のようです。時代を取り違えたような錯覚さえ覚える職人の世界に引き込まれます。モダンなインテリアを好む最近のスイスの傾向とは対照的な内装ですが不思議と新鮮さを感じます。
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ドイツのミッテンヴァルトはストラディバリのもとで弦楽器製作を習得したマティアス・クロッツが17世紀にそのヴァイオリン製作技術を導入して発展させた街として知られています。祖父、父ともに画家という芸術家の家系に生まれたマストランジェロ氏は、ミッテンヴァルトにある楽器製作学校に留学した後、ロンドンやパリの楽器工房で修業を重ねました。1971年からの16年間はジェルベール氏のアシスタントを務めて、1987年に工房の後継者となり、現在も創業者の精神を引き継いで工房を運営しています。
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この工房では2人の弦楽器職人が知識と技術でマストランジェロ氏を支えているほか、受付ではマストランジェロ夫人や氏のお嬢さんが親切に対応してくれる温かい雰囲気を持つ工房です。客層はプロの演奏家から弦楽器を学ぶ小さな子供たちまでと幅広い層に及びます。そして、スイスに住んでいる日本人音楽家やローザンヌ音楽院に学ぶ日本人学生との繋がりもあって、マストランジェロ氏は「日本人音楽家は好き」だと言います。
近年、マストランジェロ氏が気がかりにしていることは弦楽器の価格の高騰です。弦楽器を資産として購入するバイヤーによって楽器の価格が釣り上がる傾向があり、若手演奏家にとって自分が本当に好きな楽器で演奏することがむつかしくなっています。日本では日本音楽財団などが楽器の貸与事業を行っていることをマストランジェロ氏は褒めるのです。
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また、弦楽器が国境を越える際の「パスポート」の必要性をマストランジェロ氏は強調します。2012年、ドイツの空港税関で相次いで起こった日本人演奏家のヴァイオリン名器の取り押さえは、欧州連合(EU)諸国でも大きな反響を呼びましたし、車で移動していたパリに住むチェロ奏者が、国境でフランス製のチェロを国外に持ち出すことを禁止されるといった問題も起こったそうです。国際弦楽器弓製作者協会(EILA)の会員であるマストランジェロ氏は、グローバルな活動をする演奏家のためにも、楽器についても「パスポート」を発行する必要性を今、感じています。
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私が工房を訪問した際、マストランジェロ氏は1730年代のイタリア製のヴァイオリンの修復に取り掛かっていました。かなりの修理が必要ですが、このような貴重なヴァイオリンは時間をかけてじっくりと修復する価値があると言います。高価なヴァイオリンの修理は怖くないか尋ねたところ、「ルティエとしての経験を重ねるとともに、貴重な弦楽器を修理する際にも平常心で仕事ができるようになる」とのことでした。
実は、マストランジェロ氏、レマン湖地方に別の工房を持っていて、そちらでヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の製作をしています。週に1日はこの静かな環境にある工房で仕事に専念するのです。仕事熱心なマストランジェロ氏ですが、趣味は夏場にボートで湖を巡ること、冬場はスキー。大自然に身を置くことで次なる製作についての創造的思考を巡らしているのだろうとお見受けしました。
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最後に少々余談となりますが、マストランジェロ氏から思いがけない話を聞きました。それはスイスの1フラン硬貨についてです。その昔、スイスは各州でばらばらだった通貨を統合して正式なスイスフランを制定しました。最初に鋳造された1フラン銀貨のデザインはヘルヴェティア女神の坐像(現在は立像)だったのですが、この銀貨のデザインをしたのがマストランジェロ氏の先祖で、1850年のことでした。
小西なづな
1996年よりイギリス人、アイリス・ブレザー(Iris Blaser)師のもとで絵付けを学ぶ。個展を目標に作品創りに励んでいる。レザンで偶然販売した肉まん・野菜まんが好評で、機会ある毎にマルシェに出店。収益の多くはネパールやインド、カシミア地方の恵まれない環境にある子供たちのために寄付している。家族は夫、1女1男。スイス滞在16年。
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