スイスでマスクを作り続ける日本人
新型コロナウイルス危機下のスイスで、布マスクを作り続けている日本人がいる。自分や周りを感染から守る「優しさのシンボルを届けたい」と200枚を縫い上げ、その輪は欧州、ユーラシア大陸にも広がった。
マスクを作っているのはチューリヒ郊外で弁当販売を営むシュテーリ結子さん(44)。きっかけは、新型コロナ危機によるロックダウン(都市封鎖)が始まって間もない3月下旬、ツイッター上で手作りマスクの写真を多く見かけるようになったことだ。
スイスではそのころ不織布マスクがほとんど手に入らず、1回使っては捨てられる環境への負荷も気になっていた。「それなら自分で作ってみよう」と、近所に住む義母から15年ほど前に譲り受け、しまったままになっていた古いミシンを引っ張り出した。
裁縫は昔、日本にいた時に趣味を兼ねた教室で習った程度だったが、思ったことはすぐ行動に移す性分が背中を押した。インターネット上で見つけた無料の型紙をダウンロードし、日本に住む洋裁好きの母が作った未使用の食事用ナプキンをほどいて第1号のマスクを縫い上げた。「思ったよりぴったりで、これはいいな」と手ごたえを感じた。
高齢の夫婦との出会い
ロックダウン中で店が閉まっていたため、最初は母親の布ナプキンをほどいてマスクを作り、友人たちに配っていた。大きな転機を迎えたのは4月1日、とある高齢夫婦との出会いだったという。
昼前、郵便局の帰りに反対側から歩いてきた高齢夫婦の女性に「そのマスク、どこで買ったの」と尋ねられた。女性はどこを探してもマスクが売っていないと困っていた。そこでシュテーリさんは自宅に戻った後、夫婦のためにマスクを作ってプレゼントした。するととても喜ばれたという。
料金はいらないというシュテーリさんに、女性からどうしてもと手渡された30フラン(約3300円)。人から受けた親切を別の人につなぐ「Pay It Forward(恩送り)」にしようー。次の人のマスクを作るために、そのお金で白地にブルーの花柄の布をネット購入した。
この話を何気なしにツイッターに投稿すると、瞬く間に拡散され、とても驚いたという。
スーパーの帰りにご年配のご夫婦に声をかけられ、どこでマスクを手に入れたのか聞かれたので自分で作りましたと言うと、どこを探してもないっておっしゃるので、作って差し上げることに。
— 結弁当🍱 (@yuibento_ch) April 1, 2020外部リンク
お礼はいりません、どうぞ次の方に優しくしてあげてくださいと言うも、(続く)
こうしてシュテーリさんはマスク制作を本格化し、希望する人にはすべて無償で届けた。くしくも弁当宅配の仕事がロックダウンで休業し、時間に余裕もあった。
出来上がったマスクの写真をツイッターに載せるたび、「私のところにも届けてもらえますか」とメッセージが来る。国外からも注文が舞い込み、シュテーリさんのマスクはフランス、ドイツ、アイルランド、ロシア、日本など10カ国以上に渡っていった。
また、高齢者施設での感染を案じていたシュテーリさんは、義母の知り合いが介護施設で働いていると聞くと、すぐに電話番号を調べてその女性に電話をかけ、作りだめしていた布マスク20枚を施設に寄付した。
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ロックダウンで休校になっていた次男(10)の小学校が再開される直前には、担任の教師に連絡を取り、クラスの児童25人全員と教師の布マスクを作って寄付した。結子さんは「子供たちがマスクをするかしないかは本人の自由。ただ、感染させてはいけないからお互いに近寄らないなど不要な『しんどさ』を感じてほしくなかった」と思いやる。
ほぼ毎日、時間を見つけては自宅作業部屋でミシンに向かい、1日20枚、多い時で30枚を縫い上げた。「人に優しくされたかったら、自分が人に優しくするんだよ」。2人の息子たちにはいつもそう言い聞かせてきた。その言葉を体現する母親を、家族は優しく見守ってくれたという。
優しさのシンボルを増やしたい
これまでに作った布マスクは200枚を超えた。シュテーリさんは「時間も手間もかかるけれど、同じ作業をずっとしているのは苦にならない。むしろとても楽しい時間だった」と笑う。マスク作りを続けるきっかけをくれた高齢の夫婦や、マスクを受け取った人達からのお礼のメッセージも、大きな喜びだったという。
スイスではマスクの着用が義務づけられておらず、感染が他の地域より比較的深刻ではないドイツ語圏では、マスクはまだ少数派だ。
スイスでは4月27日にロックダウン(都市封鎖)の緩和が始まったが、オーストリアなどと異なり、健康な人へのマスク着用は今も義務付けられていない。
政府外部リンクは、感染者と接触する場合やエアロゾル感染のリスクがある場合には、サージカルマスクや微粒子ろ過効率(PFE)94%以上の防護マスクを着用するよう推奨する。美容院など至近距離でサービスを行うところでは、客も従業員もマスクをするよう勧めている。
スイス連邦政府がマスク着用を義務付けないのは、一般人のマスク着用が感染防止に有効という証拠がないのに加え、政府が当初から呼びかける①人と人との距離を2メートルあける②手洗い・消毒などの衛生対策を徹底するーの2つの感染予防対策をまず優先すべきだ、という理由からだ。
会見でマスクを義務付けないのか、という記者の問いに、政府側は「マスクを着けると誤った安心感を与え、この2つがおろそかになりえる」と繰り返している。
ロックダウンが緩和された当時は、マスク着用を義務付けた場合に全国民に十分に行き渡る量を確保できる見通しが立たなかったことも背景にあった。
スイス連邦鉄道(SBB)、スイス郵便が運行するポストバスをはじめとした公共交通機関も政府の方針に倣い、マスクの着用は義務付けず、人と人の距離が2メートルを保てない混雑時に「強く推奨する」という措置にとどめた。
しかし世論はマスク支持に寄っている。5月11日の通常ダイヤ再開後、国内のメディアグループ・タメディアが実施した世論調査(回答者約2万6千人)では、公共交通機関でのマスク着用義務化を7割が支持した。
ただその一方で、マスクを着けて電車に乗ると答えた人は、全体の3割程度にとどまる。鉄道会社の労働組合は独語圏の日曜紙NZZ・アム・ゾンタークに対し、鉄道員はマスクの着用が義務づけられているのに、これでは従業員の健康が守れないとしてマスクの義務付けを訴えた。
こうした動きを受け、スイス連邦鉄道は、マスク着用義務化を視野に入れた乗客の意識調査を始めた。各列車にマスク着用者しか入れない車両を設ける案も浮上している外部リンク。
スイスでは特にドイツ語圏で、マスクを着ける人が少ない。もともとマスクをする文化がないことに加え、マスク自体にあまり効果がないという人もいる。
シュテーリさんは買い物など人の集まる場所に行くときは必ず自分で作ったマスクをしていくが、マスクをしていない人達をとがめるつもりはないという。「マスクは自分ではなく、相手に感染させないという思いやりの表れ。そんな優しさのシンボルを、少しでも増やしていけたら」と話す。
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シュテーリさんは新たに子供たちのマスクを作り始めた。「無償だと逆に遠慮される」ため、今後は有料でネット販売するという。
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