戦時中の「人の運び屋」 英雄として名誉回復
第2次世界大戦中、ナチス占領下のフランスとスイスの国境地帯に広がる大きな森を通って武器やマイクロフィルムやユダヤ人たちを運び、ナチスに抵抗していた若者たちがいる。70年以上が過ぎた今、この「運び屋」たちを讃える記念碑が建てられた。
「手榴弾、火薬、それからたくさんのマイクロフィルムを運んだ」と話すフランス人のベルナール・ブーヴレさんは、ヴォー州のヴァレ・ド・ジュー(ジュー谷)のリズー森で密かに活動していた運び屋の最後の生存者だ。「1942、43年には、人を大勢運んだ。レジスタンス運動の闘士、ユダヤ人など、身を守るためにスイスに行く必要があった人たちだ」
現在90歳のブーヴレさんは1941年、スイス人スパイで家族ぐるみの友人だったフレッド・レイモンさんに、スイス諜報局(Swiss Secret Service)の手伝いをしないかと誘われた。当時ブーヴレさんはたった16歳だった。ドイツに占領されていたことに屈辱を覚えていたため、「ドイツに一矢報いられる」チャンスに飛びついた。
15人ほどの運び屋は、終戦までに何百人もの命を救ったとされる。1942年にヒトラーがヨーロッパ全土のユダヤ人根絶計画に着手して以降、特に活動が盛んになった。運び屋たちは、レジスタンスの闘士、スパイ、ナチスに抵抗したいと思っていた一般市民など、幅広い人々と協力した。
リズー森のそばで生まれ育った若く健康な木こりのブーヴレさんは、敵からは怪しまれない理想的な立場にあった。しかし、昼間は働いているところを「(ドイツ兵に)見られることが大切だった」ので、国境越えの手助けをしていることを隠し続けるのは容易ではなかった。一日の仕事が終わると、ブーヴレさんは夜に、フランスのシャペル・デ・ボワ村の自宅から百メートルも行かないところに駐屯していたドイツ兵の目と鼻の先で国境を越えた。
運び屋たちは、迷路のように入り組んだ小道や、崖から広大な森へ入るほとんど使われていなかった12カ所ほどの入り口を知っていた。それらを利用して、敵の目を逃れつつ、非常に危険な任務を果たしていった。
しかし、いつもうまくいくわけではなかった。「昼間にドイツ兵に止められると身分証明書を確認されたが、夜なら見つかれば撃たれた」とブーヴレさん。「友達は、午前4時に一斉射撃を受けて膝を撃たれた。そして雪の中で死んだ」
スイスに入ってからの難題
多くの場合、運び屋とともに国境を渡ろうとする人々には失うものはほとんどなかったとはいえ、リズー森は安全な隠れ家とはほど遠かった。森の中には腰の高さの石垣が今も走っていて、これが国境になっている。ブーヴレさんによると、この国境を越えてスイスに入ると「少し気が楽になった」そうだ。ただ、スイス国内ではまた別の難題が発生した。
スイス税関の職員は、国境をこっそり越えてきた者を逮捕し送り返せと命令を受けていた。そのため、亡命者はスイスの領土に入り込んだら、国境から少なくとも10キロメートル離れたところまで進む必要があった。そこまでいけば、捕まった場合に不法滞在者として登録され、終戦まで収容所にいることができたからだ。
スイスとフランスでは、亡命者に同情した大勢の人々が連携し、この一連の流れを手伝っていた。ブーヴレさんはその第一歩となる国境越えを担当していた。彼に連れられてスイス国境を越えた亡命者たちは一般家庭にかくまわれ、そこから列車でさらに国の内部へ進んで、ようやく亡命を求めることができた。
ブーヴレさんの秘密の活動は1943年、ついにドイツの秘密警察ゲシュタポに見つかり、終わりを迎えた。同じく運び屋だった父親のジュールさんは既に逮捕されていた。義母が、ナチスに協力していたフランス人工作員にだまされて秘密を漏らしてしまったためだった。幸運にも、義母はブーヴレさんのしていたことを完全には知らなかった。スイスに行っていたことだけは「村の人々にコーヒーやチョコレート、時にはタバコを持って帰ってきたので」知っていたが、「スイス諜報局に協力していたことは知らなかった」。
フランスで尋問を受けた後、父と息子はドイツのダッハウ強制収容所に送られ、1945年に米軍に解放されるまでそこに拘束されていた。
記念碑
運び屋たちの行いはこのように献身的で勇敢に見えるが、彼らは戦後、「手助けの見返りに亡命者から金を徴収した」、「禁制品の密輸で利益を得た」などと非難されたり、村八分にされたりした。(囲み記事参照)
しかし今日、当時は「市民的不服従(civil disobedience)」とされたこの行動への評価が高まっている。スイスは2009年、ブーヴレさんを勧誘したフレッド・レイモンさんを含む戦時中のスイス人活動家100人以上について、罰金や禁固刑を受けたり村八分にされたりしたのは「不当」だったと認めた。
地元で彼らの名誉を回復するため、ヴァレ・ド・ジューの当局はリズー森の運び屋たちの記念碑を建てた。
湖畔のアベイ村で行われた記念式典には、戦争の生存者、ウォルター・リードさんが来賓として出席した。リードさんにとって、森の運び屋たちはまさに英雄だ。しかし、他にも大勢の「献身的なスイスの若者」が同じくらい勇敢に行動し、「安全で快適なスイスの家にとどまるのではなく」、フランスで人命を救ったことも記憶に残されるべきだと考えている。
10代のユダヤ人少年だったリードさんは、1938年に起きた反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」事件で逮捕された後、ナチスの手を逃れてベルギーへ渡った。ドイツがベルギーに侵攻すると今度はフランスへ逃げ、トゥールーズの近くのイル城に、他の子どもたち数十人とともに身を隠した。
現在90歳のリードさんは、何とか米国のビザを取得した後、1941年8月にフランスを離れた。一方、城にいた友達のうち25人が、ナチスの死の収容所送りを逃れてリズー森を抜けスイスへ渡ったことは、1997年になってようやく知った。
「本当の英雄」
リードさんは、仲間たちの命が助かったのは、城にいたスイス赤十字のボランティアの「世話役」たち、特に24歳のアンヌ・マリー・ピゲさんのおかげだったと言う。父がリズー森の森林監督官だった関係でヴァレ・ド・ジューをよく知っていたピゲさんは、その知識と人脈を使って、占領下のフランスとリズー森を通って、8人の子どもたちをスイスへ連れて行ったという。
リードさんはピゲさんを「革命的な」人と形容する。ピゲさんは何度も大きな危険を冒しながら、子どもたちを連れて城から森まで700キロメートルの道のりを旅した。森まで来ると、シャペル・デ・ボワ村のコルディエ家の3姉妹と一緒に国境越えを企てた。
記念碑の立つヴァレ・ド・ジューの湖畔を見渡す山小屋で、リードさんは、ピゲさんやコルディエ家の姉妹のようなスイスの人々が当時の「本当の英雄」だと話す。「リズー森の国境地帯の人々だけでなく、他人の子どもの世話を買って出てくれたスイス人の誰もが英雄なのだ」
不当利益を得たと責められて
ブーヴレさんによると、国境越えの報酬を払った人は「わずか」だったということだが、彼のような運び屋たちは、戦時中に禁制品を売って大もうけをしたと長い間疑われていた。
ブーヴレさんは否定するが、この疑惑をかわすのは難しい。運び屋たちは、捕まった場合にドイツ兵の目をごまかすため、不法な物品を運んでいたからだ。運び屋が何も持っていなかったら怪しまれるが、「チョコレートやタバコを持っているところを捕まれば、密輸人ということで罰金を科されるだけだった」と、若者が高齢者の思い出を聞き、記憶を伝えていくことを目的とした団体「記憶の伝え手(Passeurs de Mémoire)」のジョエル・レモンさんは話す。
この団体は、運び屋たちの功績を公に認めるよう求めてきた。レモンさんは、「戦後、運び屋が反感をもたれた」原因はこれだと考えている。「人々は、運び屋たちが戦時中にこの活動で金儲けをしたと考えた。裏には人命を救うという本物のレジスタンス活動があったのだが、それは知られていなかった」
(英語からの翻訳・西田英恵 編集・スイスインフォ)
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