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スイスでは、ヘロインなどの違法薬物中毒者に対し、行政が犯罪防止などのため薬物を配布している。この政策は他国でも効果的なモデルとして評価されている。中毒者向けの「安全な注射センター」は過去30年で国内8都市に作られた。スイス西部のローザンヌにも新しくセンターができたが、開所に向けてはさまざまな苦難があった。
ローザンヌで先月1日にオープンした「安全注射センター」の受付には、アルミホイル、シリンジ、パイプ、その他の道具一式が入った白いプラスチック製の箱が山積みになっている。
白い壁の一部はライムグリーンに塗られ、四つの机と椅子がある「注射スペース」、円形の金属製テーブルは4人用の「吸入スペース」、さらに「吸引スペース」、ベッド付きの小さなクリニックもある。
この試験的プロジェクトは3年間の事業で、費用は400万フラン(約4億4千万円)。同プロジェクトの実現を後押しした地元のオスカー・トサト議員は、これこそがローザンヌ市の薬物中毒者支援に欠けていた部分だと述べた。トサト氏は、中毒者が抱えるリスクの削減、さらに市内の治安向上につながると期待する。
トサト氏は「ドラッグはいまや公共の場所、トイレ、森林、建物の中庭などで使われている。ここなら清潔な道具が提供でき、訓練を受けたスタッフもいる」と利点を語る。
センターの営業時間は毎日午前12時から午後7時まで。4人のスタッフが常駐し、警備員も付く。1日あたりの利用者見込みは100~150人という。
センターは、静かなヴァロン地区にある目立たないピンク色のアパート内にある。ローザンヌにある低敷居財団外部リンク(ABS)の施設で、同団体は1999年以来、ホームレスやアルコール中毒、薬物中毒者の支援を行っている。
違法薬物中毒者にドラッグを配布するセンターはベルン、チューリヒ、バーゼル、ビール(ビエンヌ)、ジュネーブ、ルツェルン、ゾロトゥルン、シャフハウゼンにある。ローザンヌが8都市目だ。スイスは予防、治療、損害の軽減、抑圧の四つの柱による薬物対策を長らく実施しており、こうした施設はその一環だ。先進的で人道的モデルとしてたびたび話題に上がるこの政策は、1980年~90年代にかけてチューリヒで蔓延した違法薬物問題を受け、91年に導入された。
スイスの元連邦大統領で、現在は薬物政策国際会議外部リンクの代表を務めるルート・ドレイフュス氏は「薬物注射センターは、レベルゼロの介入を意味する。(中毒者である)彼らと接触でき、さらに尊厳を取り戻させることもできるからだ」と強調する。
苦難の歴史
しかし、ローザンヌのセンターの歴史は、実現に向けて動いてきた人たちにとって苦難の歴史でもあった。過去にも同様の施設を作る計画があったが、地元の有権者による投票で否決され、頓挫した。それから気の遠くなるような議論と交渉、(計画の撤回を求める)二度目のレファレンダムの脅威を乗り越え、11年経ってようやく実現した
2007年の住民投票で否決され、トサト氏らの計画は振り出しに戻った。ジュネーブ、ビール、チューリヒの施設訪問、薬物中毒者支援に詳しいパートナー探し、そして多くの事務手続き上のハードルと抵抗を乗り越えなければならなかった。
国の薬物政策をめぐるドイツ語圏とフランス語圏の文化の違いもまた、センターの開所が遅れた要因ともいえる。
ヴォー州ローザンヌ
ヴォー地域(人口約78万人)には禁止薬物のヘロイン使用者が約3500人いるとされる。そのうち2千人がヘロインの代替薬物プログラムに参加している。ヴォー州のコカイン使用者はさらに多く、1万6千人超。地元人口の2.5%に上る。20%が日常的にコカインを使用している(中毒者も含む)。
ABSのマシュー・ロシェ代表はル・クーリエ紙に「1990年代、スイスのドイツ語圏地域は、解決策を見つけるため迅速な対応を強いられた。彼らの強みは文化的に非常に実用的であるということ。薬物利用に対する(ネガティブな)イメージ、道徳上の嫌悪感からどうやったら逃れられるかをよく分かっていた。それこそがリスク削減と支援活動の重要性を認識させるには必要なことだった」と話す。
地元では、政策決定権者と住民に対し、リスク削減の意義、またリスク削減がスイスの薬物政策の重要な柱の一つであることを、数年かけて納得させていった。
政治レベルでは、中道右派がプロジェクトの有用性を次第に認めるようになった。ヴォー州議会は昨年ようやくプロジェクトを承認。反対派も、二度目のレファレンダムを起こす計画を撤回した。
今後の影響は?
この間、別の側面から大きな推進力がもたらされた。ローザンヌの市内中心部、特にリポンヌ広場は最も薬物依存が進んだ人たちの集まる場所だった。あちこちで薬物に絡む光景が見られ、市民と薬物の売人、利用者との間で生じた緊張などが論争を呼び、何らかの対策が必要だという需要につながった。
ヴァロン地区で働く美容師アナヤさんは、このエリアに長く住む人は「(薬物を注入し)まともでなくなっている人を見ることに」うんざりしていたと語った。また注射器や薬品類が路上に散らばり、子供たちが「普通に育つ」環境でないことも嫌だと話した。
トサト氏は、注射センターの開設については地元住民に幅広く意見を聞いたといい、今後も情報提供を続けると話した。地域を見守る警察官も増員するという。
アナヤさんは、住民の大半がセンターを好意的に受け止めているが、今後どのような影響があるかについては注意深く見守りたいと話す。
同地区に整備工場を所有するホセ・マヌエル・カーバルさんは、フランス語圏のスイス公共放送(RTS)に「私は、ドラッグでハイになった人たちがあちこちで問題を起こすより、センターがあった方がいい」と語った。
フランス語圏の反薬物連盟外部リンクの会計担当フランソワ・ロンシャン氏は依然、プロジェクトに反対の立場だ。
同氏は「薬物取引の面では大きな改善は見込めない。一部の売人たちが顧客を探しにセンター付近に移動してくるからだ」と話す。「このようなセンターが薬物中毒者の助けになるとは思わない。ただ単に彼らを中毒の状態にし、安全に注射できるようになるだけで、中毒からは抜け出せない」
熱気のこもったセンター開所式典が行われた後も、ドラッグの利用者が今までと同様、近くの森や路上で薬物を使用し続けるのではないかという懸念は残る。
フランス語圏の中毒研究団体GREA外部リンクのジャン・フェリックス・サヴァリ事務局長は、この新しいセンターによって、ローザンヌが抱える薬物問題がすべて解決するわけではないと指摘する。
同氏はフランス語圏の日刊紙24heuresに「違法薬物の市場にはあまり影響がなく、公共の場で薬物を使用する人たちは依然として存在するだろう。しかし、これがうまく行けば(住民との)共存は改善し、危険な(路上での)銃撃事件もなくなる」と語った。
(英語からの翻訳・宇田薫)
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「タイとミャンマーは、麻薬使用者の健康問題を重視する新たな麻薬政策に門戸を開き始めた。これまで麻薬に対して厳罰主義を貫いてきた両国にとっては、注目すべき進展だ」。国際NGO薬物政策国際委員会の議長を務めるルート・ドライフス元スイス大統領は、東南アジア訪問を終えて、そう語る。
ドライフス氏は、薬物政策国際委員会の議長を2016年から務める。「1971年にニクソン米大統領(当時)の主導で始まった国際的な『麻薬戦争』は、麻薬の不正取引拡大と薬物使用の増加を招いて完全な失敗に終わった」とする報告をもって、同委員会は11年に世界的指導者や有識者によって設立された。
その発足以来、各国では麻薬対策で様々な動きがあった。今回タイ、ミャンマー訪問を終えたばかりのドライフス氏が、東南アジアの麻薬政策動向を語った。
スイスインフォ: タイ、ミャンマー両政府はどの程度まで踏み込んだ麻薬政策の改革を考えていますか?
ルート・ドライフス: 両国では、薬物使用者の間で注射器の共有によるHIVやC型肝炎の感染が広がっており、政府に保健政策を向上させようという意欲が見られる。感染の予防対策として薬物使用者に清潔な注射針を配布したり、社会復帰を促すための出会いや相談の場が設けられたりしている。重症の中毒患者にはメタドン服用治療も始まっている。両国は特に、効果が見られない上に人の品位をおとしめてきたこれまでの厳罰主義を改めようと考えている。
薬物所持・使用への刑罰が厳しすぎると認識されるようになり、タイ、ミャンマーでは、今では麻薬類の所持・使用の罪で死刑は執行されていない。死刑になる犯罪の種類を減らそうという試みもある。また、超過密で犯罪の学校と化している刑務所の現状にも目が向けられるようになった。収監を減らすためにも、刑罰の軽減が検討されることになった。
それから両国は新たな麻薬政策を進めるため、まずキャンペーンなどを通して国民に広く情報が行き渡るよう努めている。50年近く続いてきた、これまでの傲慢で強硬な麻薬禁止政策に慣れた人々が、政府の新しい方針を理解できているとは限らないからだ。
01~06年の間にタイでは、現在フィリピンのドゥテルテ大統領がしているような「麻薬戦争」が繰り広げられていたことを思い出してほしい。裁判を受けることなく警察に殺害された人が数千人にも上った。だが麻薬取引も消費量も減ることはなく、反対に増加の一途をたどった。政府もそれを認めないわけにはいかなかった。
スイスインフォ: 東南アジア諸国連合(ASEAN)の他の国もタイやミャンマーに追随する可能性がありますか?
ドライフス: そもそも、麻薬のない社会を実現することは可能なのだろうか?麻薬撲滅という目標は、スイスの薬物法に今でも記されている。あらゆる薬物から解放された国を目指すASEAN諸国にとっても、麻薬のない社会は目標だ。だが、それを実現できるといまだに信じることができるのだろうか?
私が訪問してきた国々は、麻薬の存在しない社会の実現など幻想にすぎないと理解し始めている。人間は常に、精神を活性する向精神物質に惹かれてきた。気分を良くしたり苦痛を軽減したり、その人の世界観や認識を変えたりする物質に手を出す人を、いったい何の権利があって処罰できるのか?アルコールやたばこ、チョコレートやコーヒー、あるいは医薬品のように精神的な作用を持ちながらも、文化的に受け入れられているものもあるというのに。
人間には向精神物質が必要ないなどという幻想を、どうして国家の暴力で追求しようとするのか?一体なぜ向精神物質の一部は容認されて、その他は生産や所持が規制され、禁止されるのか?
違法薬物を規制する国際協定は、各国がそれぞれの問題に合った対策を立てたり、薬物使用者を処罰しない自由を認めるほか、違法に禁止薬物を入手する人たちにも手を差し伸べる公衆衛生対策を、批准国に対して認めている。だが一方で、合法の向精神物質と同じように、麻薬や薬物の製造や市場を国が管理することを認めてはいない。
スイスインフォ: タイやミャンマーに見られる麻薬政策の転換は、今後他国にも広まると思いますか?
ドライフス: この動きは国際的なものだ。中国やイランのように極端に抑圧された国でも、薬物中毒患者への代替療法や感染症の予防対策などが発達してきた。
一方で、フィリピンのように後退している国もある。日本やロシアのように強硬に禁止の立場をとる国もある。特にロシアは、情け容赦ない麻薬禁止政策をとり続けており、国民に悲惨な影響が出ている。(薬物使用による)HIV感染が拡大している唯一の国でもある。また刑務所内を始めとして、抗生剤のきかない結核症が広まっている。弾圧的な麻薬政策のせいで、薬物を取り巻く環境が非常にリスクの高い闇の中へと追いやられてしまっているからだ。
そうとは言え、多くの国は新しい麻薬政策を模索している。
スイスインフォ: スイスは麻薬政策において、長い間パイオニア的な存在でしたが、今はどうですか?
ドライフス: スイスは、エイズの拡大と薬物乱用の問題に直面して、革新的な麻薬政策に切り替えた。今では多くの国がスイスと同じような政策をとっている。
スイスは効果的に公衆衛生政策を発展させてきたが、今後もさらにその対策と措置を充実させ、必要とする全ての人が衛生サービスを利用できるようにしなければならない。また、新たなリスクを持つ合成麻薬も対策の対象に入れる必要がある。
一方でスイスは、麻薬市場の規制と、麻薬を非犯罪化する点では遅れをとった。麻薬使用に罰金を科すだけにしても、十分な非犯罪化とは言えない。
それから、世界では弾圧的な麻薬取締りは常に恣意的に行われており、とりわけ貧困層や貧しい地域、マイノリティーがその標的になっているということを忘れてはならない。法が恣意的に適用されているようならば、法律を変える必要もある。
だがスイスは、(薬物使用者の)健康と安全や(薬物使用に対する)罰則の均衡にばかり注意しすぎていて、そのような問題が埋もれている。麻薬政策にもっと劇的な改革を求める政治的圧力もいつの間にか消え、政策の見直しを求めるイニシアチブ(国民発議)も国民投票で否決されてきた。そういうこともあり、政党はこの問題を再び議論に持ち出そうとしなくなっている。
それでも、大麻の栽培や市場は(禁止ではなく)管理・規制されるべきであり、禁止は効果がなく無意味だという判断は、国民にとっても多くの点で十分な利点があると考えている。薬物政策国際委員会(Global Commission on Drug Policy)の五つの優先事項
過酷で有害な処罰を伴う禁止政策よりも人々の健康と安全を優先させる。
モルヒネのように合法・違法の両方で使用される薬物を入手可能にする。このような薬物は部分的に使用が禁止されていることから入手が困難になっており、そのために無駄な苦痛を強いられている人たちを救うのが目的。
薬物所持・使用を非犯罪化する。そうすれば刑務所の過密問題も解消できる。
非暴力的でマイナーな薬物使用者ではなく、麻薬密売と組織犯罪の取り締まりを強化する。
タバコやアルコール、医薬品がそうであるように、麻薬市場を規制し政府の管理下に置く。
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