「ハイジ」誕生秘話 制作者がロケ地スイスで語る
1974年に日本で放送されたアニメ「アルプスの少女ハイジ」。故高畑勲さんが演出を手掛け、当時としては異例の海外ロケを敢行した作品は世界中で人気を呼んだ。ロケハンのメンバーで、ハイジのキャラクターを描いた作画監督の小田部羊一さん(82)、担当プロデューサーの中島順三さん(81)が先月31日、物語の舞台マイエンフェルトを再訪し、当時の思い出を語った。
スイス東部グラウビュンデン州マイエンフェルトの中心部を抜け、曲がりくねった道をいくつも通り過ぎた山の中腹に、アルムおんじの家のモデルになった山小屋がポツンと建つ。
霧もやがかかる空の下、くるぶしほどの高さに草が生い茂った斜面を、小田部さんが何かを確かめるようにゆっくりと歩いて上る。「急斜面を上ってくると、突然目の前に小屋がぱっと現れてね。あぁ、こんなところに物語にぴったりな小屋があるって、びっくりしたんですよ」と半世紀前の思い出を懐かしそうに振り返る。
生活を緻密に描く
中島さんと小田部さんは以前にもプライベートでそれぞれマイエンフェルトを訪れており、再訪は数年ぶり。今回は先月30日にチューリヒの国立博物館で開かれたハイジのシンポジウムに登壇するためスイスを訪れ、マイエンフェルトまで足を延ばした。
原作者ヨハンナ・シュピリが実際に物語のモデルにしたとされるハイジの小屋は、現在はレストランになっている。ロケハン当時は民家だったといい「中に入らせてもらってね。そしたら2階に長細い箱があって、中に麦わらが敷いてあったの。そこにシーツを敷いて寝ていると聞いて、気持ちよさそうだと思ってね。そんなものも参考にして。見るものすべてが珍しくてね。何でもスケッチして、そこからイメージを膨らませました」と小田部さんは話す。
ハイジのTVアニメ化は、制作会社ズイヨーを立ち上げた高橋茂人社長の悲願だった。原作の存在を知っていた高橋さんが「世界に売り込めるアニメを作りたい」と高畑さんに声をかけ、企画がスタート。演出・高畑さん、画面構成・宮崎駿さん、作画監督・小田部さん、担当プロデューサー・中島さんの4人が、1973年7月、実際にスイスとドイツを訪れ、約10日間のロケハンを行った。
1つの物語を各30分、52話に分け、毎週1回、1年間放送する。テレビ映えするオーバーなアクションは、この物語には存在しない。視聴者を飽きさせないためにはどうするか。高畑さんが行き着いた答えが「日常生活を丁寧に、緻密に描くこと」だった。
しかし、マイエンフェルト滞在はわずか3日弱。それまで海外へろくに出たことのない人間が、限られた時間で52話分のイメージをつかまなければいけない。小田部さんは、持参した2冊のスケッチブックに窓際の小物や靴、ありとあらゆるものを描き込んだ。
中島さんは「ロケハンは夏の間の10日くらいだったけれど、物語は春夏秋冬ある。冬はどのくらい雪が降るのか、秋にもみじがどう色づくのかは実際に見ることができない。(作り手の)3人がスイスの空気を吸って、感じて、見て、それを作品にどう反映させるか、ということに尽きたと思います」と振り返る。
「おじいさんをまっすぐ見つめるハイジを」
小田部さんがスイスに行く前に描いたハイジは、長いおさげ髪の少女だった。だが、スイスの図書館の館長にその絵を見せると「山の上に住む5歳の女の子がおさげを結えますか。ましてや気難しいおじいさんが」。そう言われ、短い髪の少女に描き直したという。
ハイジのキャラクター像を確立させたのは、ほかでもない高畑さんだった。小田部さんは「僕はかわいいハイジを描きたくて、ちょっと科(しな)をつくるような絵ばかり描いていたんです。そうしたら高畑さんから一言だけ『おじいさんをまっすぐ見つめるハイジを描いてください』って言われて」。愛らしさの中に、気難しいおんじにものおじしない強さを秘めたハイジが完成した瞬間だった。
TVアニメはスポンサーやTV局側の意向が絡むため、制約も多かった。シュピリの原作に出てこない犬のヨーゼフは、実はキャラクターグッズを売り出すためのアイテムとして出来た、と中島さんは苦笑交じりに明かす。また、原作にあった宗教色をアニメでは極力排除したのも「1つの宗教が良い、みたいな描き方はTVとしてはダメだったんです」という。
コップ1つを取る動作も丁寧に表現するため、1話分で書いた絵は多い時で通常のアニメの倍の8千枚近くに上った。毎週1話放送という過密スケジュールで、特に高畑さんは絵コンテのチェック、アフレコ(録音)の立ち合いなど、自宅に帰ることすらままならない生活だったという。
高畑さんも今回のシンポジウムに出席する予定だったが、昨年4月、肺がんのため82歳で死去。中島さんは31日のシンポジウムで「ロケハンをこれだけ画面に反映できた監督は高畑さん以外にいない」と故人をしのんだ。
ロケハンメンバーの宮崎さんは新作映画の制作中で来られなかったが「マイエンフェルトの風景と人々は私の大切な思い出です」という直筆メッセージを小田部さんらに託した。
スイスの放送局は扱わず
「アルプスの少女ハイジ」はその後、ドイツをはじめ世界中で放送された。ドイツ国営テレビZDFは1977年、イタリアでは翌78年に放送。同番組はその後も何度か再放送されている。
しかし故郷のスイスでは、当時唯一の放送局だったスイス公共放送がこのアニメを放送することはなかった。ドイツ語圏のスイス公共放送(SRF)の広報担当者はスイスインフォの取材に「当時、国際共同制作していた実写版ハイジの放送と重なったからではないか」と推測する。アニメは当時低俗なものとみなされていたなど、理由は諸説ある。
それでも、スイスでは隣国のテレビ放送が映ったため、子供たちはドイツやイタリアの放送局を通して「アルプスの少女ハイジ」を見ていた。これが日本で作られたと知らずに見ていた人も多い。
最近では日本のハイジをリバイバルしたCGアニメ(Studio100外部リンク制作)が、スイスを含む世界160カ国で放送されている。
小田部さんは「僕は日本で、スイスでもちゃんとハイジを見て、それを肯定してくれているらしいということを聞いた。うれしいというよりも本当なのかという気持ちが先でした。海外の映画で日本人の登場人物が出てくると、こうじゃないって日本人は拒否反応を起こすじゃないですか。スイスでも同じように言われるのではと思っていたんです。受け入れてもらえたのは、ロケハンがあったからですよね」とほほ笑む。
苦労して作ったかいがあった
ハイジの舞台マイエンフェルトにある観光スポット・ハイジ村外部リンクには今も大勢の観光客が訪れ、地元の重要な観光資源になっている。31日、ハイジ村では2人の歓迎セレモニーが行われ、地元メディアも取材に訪れた。
高畑さんと宮崎さんは「ハイジ」の後、映画「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」を製作。スタジオジブリの監督として、高畑さんは「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」、宮崎さんは「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」など数多くの傑作を生み出し、長編アニメ映画の巨匠として不動の人気を得た。
小田部さんも任天堂に入社後、スーパーマリオブラザーズやポケモンのキャラクターをデザインするなど日本を代表するアニメーターに。中島さんも数々の著名なアニメを手掛けた。
心血を注いだ「ハイジ」の成功が、若き4人にとって大きなターニングポイントになったことは言うまでもない。
小田部さんは「僕は絵を描く人間ですから、ここはもっとこうすればよかったという部分がいっぱいあるんですよ。でも一生懸命やろうとしてた気持ちが画面の中にあるので、否定はしない。ハイジを楽しんでくれる人がたくさんいるということは、苦労してよかったなと思います」と話す。
中島さんも「制作チームで以前集まったとき、1人が言ったんです。『ハイジの仕事ができたから、まだアニメの世界で働いている』と。僕もその1人。そのくらい大きい存在」と話した。
チューリヒにあるスイス国立博物館では10月13日まで、「日本のハイジ外部リンク」展が開かれている。当時のロケハンチームがマイエンフェルトで撮影した写真や、作画監督の小田部羊一さんが描いたスケッチ画、アニメのセル画など、「アルプスの少女ハイジ」ができるまでの過程を貴重な資料とともに紹介。スイス人作家ヨハンナ・シュピリがハイジを執筆した机も展示されている。
「アルプスの少女ハイジ外部リンク」は、1974年に日本で放映されたTVアニメ。全52話。ズイヨー制作。ヨハンナ・シュピリ原作の物語を元に、高畑勲(演出)、宮崎駿(画面構成)、小田部羊一(キャラクターデザイン・作画監督)、中島順三(担当プロデューサー)が当時としては異例ともいえる海外ロケを行い、アニメ化。ハイジがアルプスの大自然の中で成長していく姿を描いた。アニメは翻訳版が世界各国で放送され一躍人気に。舞台となったグラウビュンデン州マイエンフェルトにある観光スポット・ハイジ村には、今も大勢の日本人観光客が訪れる。2019年、アニメ放送開始から45周年を迎えた。
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