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絶滅危惧言語「パトワ」、古い言葉に新しい息吹を

パトワは今から70年前、ヴァレー/ヴァリス州のサヴィエーズ(Savièse)で日常的に話されていた RDB

「Binvinyête(ようこそ)」。これは、ビュル(Bulle)の町で開催された「国際パトワ話者フェスティバル」の入り口の看板に書かれていた言葉だ。普通、こんな歓迎の言葉はスイスのどの町でも見られない。しかし、これは普通のイベントではない。

 国際パトワ話者フェスティバルは4年に1回開かれる祭典だ。今年8月にはスイス西部のこの小さな町に、フランス、イタリア、スイスの他地域から参加者が集まってきた。彼らは「パトワ」として知られる言語を話す、あるいはかつて話していた地域の人々だ。ホールに並んだスタンドでは、パトワの歌のCDやパトワの辞書、パトワについての本などが売られていたが、周囲で話されているのはフランス語が中心だった。

 パトワを、言語学者はフランス南部の「フランコ・プロヴァンサル語」と呼び、一部の話者は「アルピタン語」と呼んでいる。このパトワは長年衰退の一途をたどっている。

 今日パトワが最も盛んなのはイタリア北部。公認の少数言語の一つとなっているが、そこでさえ「苦戦」状態だ。

 また、ほぼどの地域においても、高齢の人以外パトワを母語とする人はいないほど、パトワは衰えてしまっている。一部地域では、教師は子どもに対し、学校だけでなく家庭でもパトワ使用を禁止しなければならなかった。フェスティバル参加者の多くは、祖父母がしばしばパトワを恥じていたことを思い出して残念がる。

外からの圧力

 イタリアでさえ、パトワは苦難の歴史を歩んできた。フロラン・コラダンさんが1960年代にヴァッレ・ダオスタ州で学校に通っていたころ、イタリアは好景気に沸いていた。

 「私の世代は、イタリアという国家の枠組みの中で生きなければならなかった。支配的な言語はイタリア語だった。私の親世代は、子どもが社会で成功することを望み、学校でイタリア語に苦労する羽目にならないようあまりパトワにこだわるなと子どもに言った」

 農村から都市への人口移動も逆風だった。

 祖父母といつもフリブール州の一方言で会話していたベルナール・パポーさんは、自分の子どもたちはパトワに興味を持っていないと認める。「子どもたちの周りにはパトワを話す友達がいなかった。私が昔住んでいたトレイヴォー(Treyvaux)とラロッシュ(Laroche)ではパトワが広く話されていたが、引っ越した先のコルパトー(Corpataux)では事実上絶滅していた」

フランコ・プロヴァンサル語はラテン語系の言語。その意味ではフランス語と関係はあるが、別の亜族に属する。

フランス中央部のリヨンから現在の仏語圏スイス(ジュラを除く)と、伊北部のヴァッレ・ダオスタ(Aosta Valley)とピエモンテ(Piedmont)の一部にかけての地域で話されていた。

伊南部のプーリア(Apulia)地方にも話者の小集団がいる。おそらく傭兵の子孫と考えられている。

この言語には標準化された綴りが一度も存在しなかった。多数の話し言葉の方言に分かれており、方言同士では大体理解できる。

この言語を多くの話者は通常「パトワ」と呼ぶが、フランス語ではこの言葉には軽蔑的な意味がある。パトワをプチ・ロベール仏語辞典で引くと、「周囲の標準語話者よりも文化や文明レベルの点で劣ると見なされる、しばしば農村部に住む少数の話者によって話される方言」と定義されている。

近年ではアルピタン語(Arpitan)という名称を用いる話者も出始めた。また、例えば綴り方を標準化するなどして、種々の方言をまとめようとする動きもある。

総話者数の推計にはかなりの幅がある。ハワイ大学の絶滅危惧言語プロジェクトのウェブサイトに掲載されている最新の数字では、2010年の母語話者が10万600人となっている。

2000年のスイス国勢調査では、仏語圏におけるパトワ話者の総数は約1万6千人。1990年から4分の1以上減少している。

英国の人権擁護団体「マイノリティー・ライツ・グループ・インターナショナル(Minority Rights Group International)」は、ヴァッレ・ダオスタの話者数を約6万6500人と推定している。

フランスの国立人口学研究所(Institute national d’études démographiques)の2002年の報告書によると、フランスでフランコ・プロヴァンサル語の知識を次世代に伝えている人の数は1万5千人に満たないという。

新しく学び始める人々

 母親の膝でパトワを覚える人はほとんどいないが、パトワに関心を持つ人は増えている。特に高齢の人々だ。

 「もうすぐ定年退職なので、その後時間ができたらパトワを教えてくれとたくさんの人に頼まれる」とパポーさん。

 このような学習者の1人がニコール・マルゴーさんだ。マルゴーさんの祖父はヴォー州のパトワを話していたが、両親は話さなかった。マルゴーさんは退職してから初めて本格的に学習を始め、大好きになった。

 「かなり流暢に話せるけれど、もっと上手になりたい。例えば今は、よくフランス語の単語を交えてしまう。それに文法の間違いもたくさんする。それでも話すことが大切だと思う」とマルゴーさん。

 アラン・ファーヴルさんは、仏サヴォワ県の県庁所在地、シャンベリ(Chambéry)在住だ。祖父母と父親がパトワを話すのを聞いたことはあったが、真剣に教えてもらうようになったのは大人になってからだった。今はシャンベリでパトワを話すのは自分しかおらず、出身の村の方言はほとんど絶滅してしまったと考えている。

パトワの未来

 このような状況に対するファーヴルさんの取り組みは、パトワの生き残りにとっての重要な問いを提起する。順応するか絶滅するかという選択を迫られて前者を選ぶとすれば、パトワが文法のめちゃくちゃな継ぎはぎ言語にならないためには、どうすればいいのだろうか。

 「自分の言葉の基本的なところは保ちつつ、国際化している」とファーヴルさんは説明する。「私が話すのは私独自の言語だ。4分の3は自分の地域のパトワだが、知らない言葉や自分のパトワに存在しない言葉は、主に伊ヴァッレ・ダオスタ州など、他の地域から借りてくる。ヴァッレ・ダオスタのパトワはとても豊かだから」

 もし自分1人しか話者がいなければ、他に手段がない場合、かなり自分の裁量でその言語を形作っていくことになる。ファーヴルさんよりさらに変わり種なのはジョエル・リヨさんで、1920年代に絶滅したヌーシャテルのパトワを、熱心な研究の結果、独力で生き返らせ、自分の子どもたちにそれで話しかけているという。現代の単語についてはファーヴルさんと同じく、「他のパトワから言葉を借りてくる」そうだ。

 「問題はののしり言葉だ」とリヨさん。「残念ながら、私が用いた資料が収集された19世紀末には、今のように性的な事柄などについて話すことができなかった。だから(そうした言葉を含む)ののしり言葉は他のパトワから借りてくる。今ではかなり集まった。それでも、私ほど礼儀正しいパトワ話者はスイスでも珍しいだろうね!」

 熱心な学習者が、逆にパトワに影響を与えることもある。ヴァレー/ヴァリス州のサヴィエーズ(Savièse)のパトワを研究するジャック・ムニール(Jacques Mounir)さん(パトワで表記すると「Dzakye Monire」さん)は、研究を進める中で、存命中の母語話者が忘れてしまっていた単語を発見した。

 「私の語彙は1960年代のものだ。1950年代には人々はまだパトワを母語としていたが、学校が始まるとフランス語一色になった。それで今、こういった人々はパトワに自信が持てず、フランス語の単語を使う方が楽という状態になっている。『本当はこう言うんだよ』と教えてくれる前の世代がもういないので、フランス語の単語がパトワの単語に取って代わっている」

 ムニールさんが挙げた例の中には、「bócóu」という単語がある。「たくさん」という意味の言葉で、明らかにフランス語の「beaucoup」の影響を受けており、昔使われていた「prou prou」という言葉に取って代わった。ムニールさんはこの語は「実に醜い」と評する。

保全

 パトワは極めて少数の話者が広域に散らばり、さまざまな方言が存在するため、生き残りのためには、古きを維持しつつ新しきを取り入れるという綱渡りをしていかなければならない。

 イスラエルの国語であるヘブライ語は、19世紀後半に古典ヘブライ語をもとに復興された言葉だが、他国で生活するユダヤ人が話していた多様な他言語の影響も取り入れている。この例は、絶滅寸前の言語でも生き返り繁栄することができるのだと、多くのパトワ話者に希望を与えている。

 「自分のルーツに立ち戻ることはとても大切だ」とマルゴーさんは言う。「しかし、パトワが生きた言語であり続けることも重要だ。だから、時には祖先が話していた言語そのままではなくなることもある」

 マルゴーさんや一部の人々は、さまざまな方言の話者が一堂に会することが望ましいと考えている。パトワ話者は既にたくさんの語彙を共有してはいるが、そういう場では、特に現代の話をする場合はフランス語の単語を用いることが役に立つという。

 しかし別の見方をする人もいるということ、そして自分の方言を守ることをより重視する話者もいることは認めている。

 ヴァレー州のナンダ(Nendaz)に住む現在60歳のヴァレー州のモーリス・ミシュレさんは、子どものころにパトワを習った。パトワの友連盟(Valais Federation of Friends of Patois)の事務局長を務めている。ミシュレさんは、今回のフェスティバルが方言間に「新しい相乗作用」を生み出す機会だったと語るものの、マルゴーさんのように楽観的ではなかったようだ。

 「私の谷には、個人主義的で、自分のパトワに愛着を持っている人が多い」

 ミシュレさんはナンダ方言を教えているが、若者は興味を持つことはあっても、それ以上深く知ろうとする人は少ないという。

 つまり、パトワは消滅する運命にあるということだろうか?

 「そう思う。そんなことを言うべきではないのかもしれないが、嘘はつきたくない。あと何世代もつだろうか?1人でも話者がいるうちは、言語は死なないと言われるけれど」

(英語からの翻訳 西田英恵)

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