行って得する美術・博物館 -2- フランス印象派ならラングマットへ行け
スイスの輝く光をまとった邸宅で、今まで世に出なかったルノワールやモネ、ドガ、ゴーギャンの作品があなたを待っている。
世界的多国籍企業の創業者、シドニー・ブラウン氏はフランス印象派に囲まれた邸宅で余生を過ごした。最後に残った息子ジョンが死去し、フランス印象派ではスイスで最もまとまりのあるコレクションと噂された貴重な作品群が一般公開されている。
ラングマット美術館は温泉地で有名なバーデンに位置する。チューリヒから特急で15分だ。昔からバーデンはチューリヒのお金持ちが保養に来たり家を持ったりしていたため、駅から美術館に続く道は豪華な邸宅の名残のある建物がずらりと並ぶ。
牧草地に家を建てよう
美術館の向かいに構えるのはアセア・ブラウン・ボベリ社(ABB)。現在、世界100カ国以上に10万人以上の従業員を持つ電力技術の大手だ。この会社の創業者として欧州の鉄道電力化を担い、大成功を収めたシドニーは、イギリス人とスイス人の両親を持ち、芸術にも深い造詣があった。
迎えてくれたのは館長のルドルフ・フェルハーゲン博士だ。博士によると、シドニーは自分の邸宅を近所の豪邸のようにはしたくはなかったという。英国紳士の伝統にのっとって、「田舎の暮らし」を理想としたのだ。このためラングマットはりっぱな邸宅ながらも、温かみを持った建物だ。
「ラングマット(Langmatt)」は直訳すると牧草地(lange Matte)だが、「このような名前だったからこそ、ブラウン夫妻はここに住もうと決めたのです。花が咲き乱れる牧草地を想像してみて下さい。ここは美しい、美しい場所で、当時は庭園もこの2倍はあり、妻のジェニーが愛した花が庭園にあふれていました」。まるでこの目で見たかのように、フェルハーゲン博士は「美しい」という言葉を思い入れたっぷりに繰り返した。
勇気ある買い物
シドニーはジェニーと精力的にパリなどを廻ってフランス絵画や18世紀の家具を集め、若い芸術家たちのパトロンとなった。セザンヌを最初にスイスに持ち込んだのは夫妻である。この時の作品、『テーブルクロスの上の桃と水差しのある静物』は、今でもここの客間にかかっている。
同じ頃、ブラウン夫妻はマチスやゴーギャンも購入したが、今では芸術の本流をいっているような画家でさえも当時は一般的に受け入れられておらず、夫妻は「ずいぶん勇気のある買い物だ」とあちこちから言われたものだった。夫妻にはたぐいまれな先見性と芸術的センスがあったのだ。
ジェニーは画商にこんな手紙まで書いている。「新しく世に出てきた印象派と称する絵画は、まだ下の客間に下ろしていません。毎夜私は二階の仕事部屋でこの作品群を眺めつつ、友人たちになんて説明したらよいのか、頭を悩ませているのです」
しかしなんといっても夫妻が情熱を注いだのはルノワール、ピサロ、セザンヌだ。特にルノワールの作品は22点もある。こんなに美しい絵画を眺めながら過ごす日常というのは、一体どのようなものだったのだろう。当時ルノワールはまだ自分のスタイルをはっきり確立しておらず、実験的な絵にもいろいろ挑戦している。そのような貴重な作品もここで見ることができる。世界的に有名な美術館から貸し出しの依頼が殺到しているほどだ。
ジェニーはパリの友人にこんな手紙も残している。「私たちの愛する印象派の絵に囲まれて過ごすことは大変な喜びです。毎日、急ぎ足でその傍に行ってうっとりと眺めてしまうほどです」
世界的にはまだあまり知られていません
フェルハーゲン博士は言う。「この邸宅には、1987年まで実際にシドニーとジェニーの息子、ジョンが住んでいました。ここで実際に生活していた幸福な家族に思いを馳せながら観て廻って頂きたいのです。ラングマット美術館は、訪問者がここに住んでいた人々の息遣いを感じられるような雰囲気を大切にしています。ここは美術館としては日がまだ浅く、貴重なコレクションが豊富である割には、まだ世界的にあまり知られていません」
絵画の他にも、シドニーが愛した銀食器や中国陶器の豊かなコレクションも邸宅のあちこちに展示されている。フランス印象派のコレクションが最も充実しているが、イタリア絵画だけを扱った部屋もある。しかも絵画と同時に買い集められた18世紀のフランスの家具やシャンデリアが当時の生活のまま邸宅全体に配置されている。絵画が入っている額縁も18世紀に作られたオリジナルで貴重なものだ。
夫妻には3人の息子がいたが、いずれも跡継ぎが存在せず、1987年に最後の息子、ジョンが亡くなると貴重なコレクションの行く手がなくなる可能性があった。
ジョンの世話を最後までしていた従業員のポール・ゲルマンさんの説得が実り、ジョンは死の直前に邸宅ごとコレクションをバーデン市に寄付することを決意する。
美術を堪能した後は
館内から庭に出ると、当の本人、ゲルマンさんが長靴姿で庭の手入れをしていた。彼はジェニーが亡くなる前に敷地内に家を建ててもらったが、ジョンが亡くなったときに全てを返したそうだ。「お子さんが文句を言いませんでしたか」と世俗的な質問をすると「何てことするんだと結構怒っていたけどね、財産をもらうために長年ここで働いてきたわけじゃないからね」と笑った。
ラングマット美術館はここで働く人々の愛がいっぱい詰まっている。ゆっくり美術を楽しんだ後はサンルームを改築したカフェでお茶を楽しむのをお忘れなく。カフェに入ると、窓が開いているわけでもないのに、小鳥の楽しいさえずりが聞こえてきた。太陽がさんさんと注ぎ、庭にはジェニーが愛したバラ園とバルコニーが広がる。お勧めは手作りのチーズケーキだ。
当時を彷彿とさせる英国風ランチ・バスケットを持って庭の芝生でランチをすることも可能で、1人20フラン(約1900円)から。予算によってはシャンパンが付いた豪華な食事も楽しめる。バラの香りのする芝生でこのバスケットを広げるお昼は大人気で2、3週間前から予約がいっぱいだ。
swissinfo、遊佐弘美(ゆさひろみ)
シドニー・ブラウン氏はスイス生まれ、スイス育ち。母はスイス人で父はイギリス人。
妻のジェニーはスイス人でヴィンタートゥール出身、同じく富豪の家庭で育った。
‐1987年に息子のジョンが死去した後、90年にラングマット邸の一般公開が始まった。
‐開館期間は4月1日から10月31日。年間1万人の入場者が訪れる。
‐月曜日休館。火曜日から土曜日:午後2時から6時、日曜日は午後10時から12時、午後2時から6時まで開館。
‐入場料:10フラン(約900円)。
‐団体は事前に連絡が必要。
‐ラングマット美術館のあるバーデンはドイツ語で「お風呂」の意味。古代ローマから続く温泉地だ。
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