バーゼルが輩出したエレキギターの生みの親
20世紀初め、カール・シュナイダーとアドルフ・リッケンバッカーは従来の弦楽器をハードなサウンドを奏でるステージ用電子楽器へと進化させた。
この記事はスイス国立博物館のブログからの転載です。2023年6月8日に公開されたオリジナル記事はこちら外部リンクでご覧いただけます。
1960年代のポップミュージックブームは、エレキギターの存在なくしては考えられない。マーシャル社製アンプから流れる大音量の豊かなサウンドがなかったら、レッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズのあの音色は生まれていなかっただろう。米フォーク・シンガー、ボブ・ディランもまた、エレキギターの魅力から逃れられなかった。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、彼はアコースティック・ギターを隅に置き、(エレキギターの)フェンダー・ストラトキャスターを弾いた。観客からはブーイングが起こり、コンサートは一時中断する事態に陥った。だがこの日を境に、シンガー・ソングライターであるディランは次第にロック、ポップミュージシャンへと変貌していった。
ボブ・ディランのエレキギターによるパフォーマンスはファンの反発をかった (Youtube)
ポップミュージックのルーツは、約100年前のアメリカにある。サウンドフィルム、レコードプレーヤー、ラジオといった技術的進歩も手伝って、ローリング・トゥエンティーズと呼ばれた1920年代外部リンクに新しいタイプのポピュラー音楽が急速に広まった。アメリカでは「黒人」のジャズ、「白人」のポップスからビッグバンドによるスウィングが生まれ、世界的に人気となった。ウェスタン、カントリー、ハワイアンミュージックなどのジャンルも生まれた。そして技術の進歩は音楽の普及だけでなく、ステージ演奏にも変化をもたらした。
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米テキサス州出身のギタリスト、ジョージ・ビーチャムはエレキギターの発明者として知られる。ビーチャムはビッグバンドでも存在感を発揮できる大音量ギターの開発に取り組んだ。ピックアップという装置でスチール弦の振動を交流電圧に変換し、真空管アンプを介してどんな音量でも出せる仕組みを作った。これがエレキギターの基礎となった。
エンジニアのアドルフ・リッケンバッカーは、アメリカでは「エレキギターの父」として知られる。リッケンバッカーのルーツはスイスにある。受洗者名簿に記載された名前はアドルフ・アダム・リッゲンバッハー。1887年、バーゼル旧市街のゲムスベルク7番地で貧しい大工の家庭に生まれた。一家は1891年、3人の子どもを連れてアメリカに移住した。若きリッゲンバッカーはロサンゼルスで会社を興し、1931年半ばにはその形状から「フライパン」と呼ばれる世界初のエレキギターを市場に送り出した。翌年に申請した特許が米国当局から認められたのは1937年のことだった。同社は時を待たずして「リッケンバッカー」と名の冠したギターを全米の楽器店に供給し始める。同社は今もカリフォルニア州サンタアナで操業している。リッケンバッカーがギブソン・ギター・コーポレーションと競合するようになったのは1936年のことだ。ギブソンはエレキギターを大量生産し、市場に供給した。
アメリカ初のビッグジャズバンドは第二次世界大戦前、ヨーロッパ主要都市のコンサートホールやクラブにも登場した。リッケンバッカーが生まれた町からほど近いバーゼル旧市街で、楽器店「ムジークハウス・マイネル」の若きバイオリン職人カール・シュナイダーは、初めてアメリカのエレキギターを目にした。その技術と豊かなサウンドに魅了されたシュナイダーは、ピックアップを使って自ら試作に乗り出すようになる。以来、エレキギターが彼のライフワークになった。
出発点はバイオリン職人
シュナイダーは1905年、ドイツの都市ハイルブロンで生まれた。父親の職業はブラウマイスター(ビール醸造職人)で、一家は各地を転々とした。ハイルブロンからフランスのミュルーズ、スイス・ジュラ州のポラントリュイ、そして再びドイツのオッガースハイムへ。居住地や言語が絶えず変わることは、3人の子どもたちの教育には不利だった。1918年に父親が労災で亡くなると、一家はスイス国境に近いレーラッハ・シュテッテンに移る。子ども時代のシュナイダーは技術に関するあらゆることに興味を持ち、エンジニアになることを夢見た。だが学校の成績や家計の状況から学業を続けることはできなかった。ベルンでコンサートチェリストとして働いていた叔父は、シュナイダーの職人としての適性を見抜き、バーゼルの著名なバイオリン職人パウル・マイネルへの弟子入りを進言した。
シュナイダーは1923年に見習い期間を終え、1928年にマイネルが亡くなるまで、ここで働き続けた。マイネルの娘婿で楽器商フーゴ・シュミッツがシュタイネンヴォルシュタットで事業を引き継ぎ、バイオリン製作工房を拡張して楽器店「ムジークハウス・マイネル」を開業した後も、シュナイダーはここの唯一の楽器製作者であり続けた。
1930年以降の恐慌下、弦楽器の需要はこれ以上ないほど落ち込んだ。シュナイダーは新たなビジネス分野を求めギター製作に乗り出した。コンサート、ジャズ、ハワイアン用ギターのモデルを設計し、ムジークハウス・マイネルで製作。上司が手掛けるブランド「グランド(Grando)」の製品として販売した。
1930年代末、あるアメリカ人ギタリストがスイスのバーゼルで、壊れた自身のエレキギターの修理先を探していた。その修理を手掛けたのがムジークハウス・マイネルだった。シュナイダーは、修理の過程でアメリカ製ギブソンES-155と思われる楽器の構造や技術を学んだ。その後まもなくギブソンモデルに似たグランド初のエレキギターが店頭に並ぶようになる。バーゼル発のこのモデルは、商品化されたエレキギターとしてはヨーロッパ初のものだと言われている。
シュナイダーは試行錯誤の末、しだいに独立する決意を固めていった。1945年、ついにリーエンに「K.シュナイダー楽器製作所」を設立した。若き起業家はアコースティック・ギターとエレキギターの幅広い製品ラインを精力的にデザインし、新ブランド「リオ(Rio)」を作って世に送り出した。「グランド」は元上司のものであったため、今まで通り使い続けることができなかったのだ。
シュナイダーはモデル改良を重ね、高技術・高品質な製品作りを追求した。リオのジャズギターは、ネックがスチール弦の張力に耐えられるよう金属製ロッドを搭載していた。
新会社の商業的成功はその後も続いた。リオのギターはスイス全土と近隣諸国の楽器店に並んだ。戦後、楽器の販売にはまだ贅沢税が課されていたが、シュナイダーの製作所が手掛けるギターの需要は急速に伸びた。自身のビジネス、そして家族に十分なスペースを確保すべく1945年、リーエン郊外に住宅兼商業ビルを建てた。そして1947年、初の従業員を雇い入れた。
戦後ヨーロッパでポピュラー音楽が普及すると、エレキギター事業はいっそう栄えた。ハワイアン、カントリー、ウェスタンといったアメリカ発の新たなジャンルがヨーロッパで流行した。バーゼルではジャズ、ハワイアンバンドがいくつも誕生し、エレキギターの大音量サウンドがクラブや公的なイベントを沸かせた。その一例でもある「フラ・ハワイアンズ」は、シュナイダーが手掛けたギターやウクレレを使ったバンドとして成功した。ジャンゴ・ラインハルトなどの有名なジャズミュージシャンも、時折リオのエレキギターを弾いた。
創業後しばらくは事業の拡大に伴い、事務所の改装が重ねられた。1960年代になると、楽器の生産本数は年間1000本に達した。音楽のスタイルが変化するにつれ、リオのギターも変わっていった。シュナイダーは最新のトレンドに合わせて色や形状を変え、特殊な要望にも常に耳を傾けた。例えば、ミンストレルズのヒット曲「Grüezi wohl, Frau Stirnimaa」にはリーエンで作られたギターが使われている。
ミンストレルズもカール・シュナイダーの楽器を愛用した (Youtube)
1973年のオイルショック後、スイスの楽器業界を取り巻く経済状況は厳しさを増した。アジアから安価な他社製品が流入したことに加え、ギター製作に欠かせない熱帯木材も値上がりした。シュナイダーは機械を導入し生産の合理化に努めたが、利ざやは減少していった。シュナイダーは1982年まで、リーエンでギター製作を続けた。
娘夫婦に会社を譲った後、シュナイダーはバイオリン製作に復帰し、1998年に生涯を閉じるまで製作を続けた。ただそれは、自宅内にこしらえた小さな工房で、小規模なものだった。
Andrej Abplanalp外部リンク は歴史学者、スイス国立博物館広報部長。
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独語からの翻訳:井部多槙、校正:宇田薫
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