AIに強いスイスの新スパコン、科学向けに正式運用を開始
世界最高レベルの性能を誇るスイスの新スパコンAlpsが運用を開始した。優れたAI対応インフラで、宇宙、気候、医療、新材料、創薬など、多様な分野の科学研究を強力に支援する。
スイスの新しいスーパーコンピューター(以下、スパコン)「アルプス(Alps)」が9月、正式運用を開始した。2013年から運用している「ピッツ・ダイント(Piz Daint)」の後継となる。人工知能(AI)計算に強いインフラを持ち、宇宙のマッピング、氾濫する健康情報の真偽判定、より精度の高い気候モデリングなど、幅広い分野での利用が期待される。だが民間企業に門戸を開く予定は今のところないという。
Piz Daintはこれまで、スイス気象台(メテオ・スイス)、連邦材料試験研究所(Empa)、パウル・シェラー研究所(PSI)などの国内の大学・研究機関を中心とするユーザーに、様々な科学研究プロジェクトの大規模計算リソースを提供してきた。
これに代わるAlpsは、正式運用開始後も拡張が進められ、最終的な計算処理能力はPiz Daintの20倍(0.5 exaflops)に達する見込みだ。
Alpsの性能は既に世界最高水準にある。今年5月発表のスパコン世界ランキングでは、米国(3機)、日本(1機)、フィンランド(1機)に次ぐ6位をマークした。スイスは世界のスパコン競争に遅れをとっていたが、Alpsの開発で息を吹き返した。
科学研究プロジェクトに限定
Alpsは4カ所(スイス3、イタリア1)に本体を置く分散システムだ。利用者数は、Piz Daintが約1800人だったのに対し、Alpsは現時点で約1千人。計算処理能力の向上に比例してユーザー数を単純に増やせるわけではない。
Alpsを開発・運用するスイス国立スーパーコンピューティングセンター(CSCS)長のトーマス・シュルテス教授はswssinfo.chに対し「このシステムは100万人の利用者には提供できない」と回答した。約1億フラン(約173億円)のAlps本体と年間運営費3700万フランは全て公的資金で賄われている。「CSCSの組織とインフラは補助金で運営されており、補助金の規模は変更されない。インフラの使い道は厳しく限定せざるを得ない」とシュルテス氏は説明する。
Alpsは、主に自然科学を対象とする国内ならびに国際的な研究プロジェクトでの利用を前提としており、民間向けの商用利用は想定していない。
民間企業はスイスの大学との共同研究が目的なら利用申請できる。使用料の支払いも必要だ。
また、連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)の一組織であるCSCSは、連邦工科大学・研究機関の統合組織「ETHドメイン」の一員として、大学の研究成果を商業化しスタートアップの立ち上げを目指すいわゆるスピンオフ企業に、3年間のスパコン利用を認める義務を負う。民間企業と同様、使用料はスピンオフ企業が負担する。
スイスのデジタル技術革新を推進する連合組織「デジタルスイス(digitalswizerland)」は、Alpsの商用利用について「CSCSと協議中だ」と回答した。だが内容や進展状況の詳細は明らかにしなかった。
堅守すべきデータの質
CSCSが利用者の範囲を大きく広げない理由は他にもある。
スパコン上のデータの質を保つことはCSCSの重要な責務であり、データ選別が不十分なプロジェクトによって汚されることは阻止しなければならない。
シュルテス氏は「ガリレオの時代から、自然科学分野には不適切なデータを選別する方法がある。こうした方法を人文科学、営利企業、社会にも浸透させるのに役立ちたい」と話す。
データの質の強化は、AIの存在感が増す時代において極めて重要だ。より強力なコンピューターがどんどんデータを吸い込み、自ら学習するようになる。間違ったデータや虚偽の情報がAIシステムに使われれば、誤りやバイアスが複製され、悪影響を及ぼしかねない。
例えば、連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)で開発・公開されている医療用の大規模言語モデル「メディトロン(Meditron)」の学習にAlpsが利用されている。収集された高品質の医療データで「教育」されたMeditronは、高度医療インフラが不足する国で、医師がより正確な診断を行うのに役立つ。
EPFLでMeditronの開発に携わるイェール大学医学部のマリー・アン・ハートレイ助教は「このような方法で質の高いデータを活用することで、怪しい民間療法ではなく、エビデンスに基づいた治療を患者が納得して選択できるようになる」と話す。
ウソの健康情報を排除
ハートレイ氏は、9月13日にチューリヒで開催されたAlps会議でこう発言した。「情報は決定的に健康を左右する。一方、世の中には多くの虚偽情報が流れている」
「低資源国には患者のセーフティネットがない。私たちが何か間違えば、深刻な結果が生じる。私たちは可能な限り堅牢な最高水準に合わせなければならない」
この先10年間にAlpsがどのようなプロジェクトや機関に利用されるのかを予測することは難しい。コンピューター・サイエンスや様々な分野にAIが今後どのような影響を与えるかわからないからだ。
CSCSのシュルテス氏は「機械学習やAIが今後どう発展するかは予測不能だ」とし、「新規プロジェクトの採択・支援方法がAIによって大きく様変わりする可能性もある」とコメントした。
多様な利用形態に対応
未来の様々な可能性に対処できるように、AlpsはPiz Daintよりも柔軟なインターフェースを備えている。クラウド型のシステムで、ユーザーは各プロジェクト固有のニーズに合わせてインターフェースを変更できる。
「従来のハイパフォーマンス・コンピューティング(HPC)のインターフェースは画一的で、ユーザーがそれに合わせるしかなかった。私たちは今回初めて、様々な利用形態をサポートできる環境を用意した。それぞれの研究コミュニティの目的に応じてインタフェースをカスタマイズできる」とシュルテス氏は説明する。
世界最大の超大型電波望遠鏡「1平方キロメートル電波干渉計(SKA)」天文台もAlpsを利用するプロジェクトの1つだ。世界各地に設置された何千もの電波アンテナから収集したデータを使った高精度マッピングにより、宇宙の進化や重力・磁場などの様々な未解決問題の解明を目指す。
スイスと欧州の気象情報サービス機関とも協力し、より詳細かつ正確な気候予測モデルを構築する計画もある。
Alpsの利用申請はこれまでと同じ方法で審査される。利用希望者は研究課題を計算時間(見積り)と合わせて申請する。まずCSCSが計算の準備状況・効率性などの技術面の評価を行う。これを通過した申請課題について、国際的な科学者による審査委員会が科学的重要性や計画の妥当性などの観点から評価し、採択課題を決定する。
グーグルやアマゾンなどの巨大テック企業は自前でスパコンを構築し、自社の研究開発やビジネスの拡大に利用している。
これに対してAlpsは、AI計算に強いリソースで科学研究を支援する。
ETHZのクリスティアン・ヴォルフルム副学長は昨年12月、スイスAIイニシアチブの発足式でこう発言した。「科学こそが、このような将来を見据えた分野で先導的役割を担うべきだ。一握りの多国籍企業に任せてはならない。それが、研究の独立性とスイスのデジタル主権を保証する唯一の道だ」
編集: Veronica De Vore/ac、 英語からの翻訳:佐藤寛子、校正:宇田薫
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