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小熊と暮らした聖人

バーゼル発ポラントリュイ行き鈍行電車の車窓には、ジュラ州都ドゥレモンを過ぎた辺りから、より牧歌的な風景が映り出す。トンネルを抜け、山間部に入ると、遙か下に見える川の畔に沿って僅かに開けた平地が見える。その小さな土地に肩を寄せ合う古びた茶色の屋根屋根は、まるで中世にタイムスリップしたか、はたまたファンタジーの世界に飛び込んだかと思わせる。

ドゥー川にかけられたネポムクの聖ヨハネ橋は旧市街へといざなってくれる。リピーターの一人でもある、カナダ生まれのイラストレーター、ジョン・ハウ(John Howe)氏は、この橋や旧市街からインスピレーションを受け、映画「ロード・オブ・ザ・リング」に登場する都市を描いた swissinfo.ch

 この地方はクロ・ドゥ・ドゥー(Clos du Doubs)、直訳すれば「ドゥーの囲い」と呼ばれる。フランスを水源とするドゥー川が国境を越えて流れ込み、ぐるりと180度折り返してフランスへと戻る地点であることから名付けられた。

 深い山と澄んだ川に挟まれ小ぢんまりとまとまって息づく古都サン・トゥルザンヌ(St-Ursanne)は、クロ・ドゥ・ドゥー最大の町といえども人口僅か870人。規模的には「村」と言っても良いが、中世に形成された旧市街が現存していれば、人口数にかかわらず「町」というそうだ。

聖ウルサンヌの庵がある山から見下ろした旧市街 swissinfo.ch

 この町の住民達は、決して静寂な日常に埋没しているわけではない。町ぐるみで協力し合い、かつ周辺地域の協会と合同で、文化(音楽フェスティバル、芸術展示)、歴史(中世祭り)、スポーツ(自動車や自転車レース)など、様々なイベントを定期的に開催するという、その物静かな佇まいからは想像し難いパワーを秘めている。

 こうしたイベントの告知が一年中ほぼ絶え間なく地元マスメディアを通じて流れるため、この中世都市に注目しない年は皆無だ。また、この地方は、旧市街訪問、野山の散策、夏の川遊びやバーベキューなど、バラエティに富んだレジャーで楽しめる、ジュラ州きっての観光地でもある。

この付近の山を散策していると、ふいに、ぽっかりと空いた洞窟に出くわす。石器時代にここで人間が生活を営んでいたのかと想像の翼をはためかせてみるのも楽しい swissinfo.ch

 サン・トゥルザンヌは、コレジアル教会の基礎になった小さな修道会を中心に7世紀から町の原型が成されていったが、現在に至っても当時の面影を色濃く残し、時には「ジュラの珠玉」と褒め称えられる。毎年数多くの観光客がスイス各地やフランスから訪れ、熱心なリピーターも多いこの町の魅力は、1ページやそこらではとても語り尽くせない。

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 今回は、教会ができるずっと以前にこの場所に辿り着き、集落の人々に聖人と崇められ、死後、その名を町に残した修道士ウルサンヌ(Ursanne)に注目してみたい。

 ウルサンヌは6世紀半ば、アイルランドに生まれた。カトリックの修道士となってヨーロッパ大陸に渡り、フランスのルクスイユ(Luxeuil)の修道院でコロンバン(Colomban)の弟子として労働と祈りの生活に打ち込んでいた。

 しかし、師のコロンバン、ザンクト・ガレン市(及び州)の起源となったガルス修道士同様、ウルサンヌもその場所に根付くことなく、まもなく福音の旅へと出発した。

 ウルサンヌは、ノルマン王後継者という身分を捨てて修道士となったフロモン(Fromont)、道案内人のジュラ出身修道士イミエ(Imier)と共に現在のスイス領土内で布教活動をして回った。そして610年頃、一行はドゥレモンから険しい山を上ったところにあるレ・ランジエ(Les Rangiers)と呼ばれる頂上付近に到着した。

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 そこで3人は相談し、「ここで別れよう。自分の杖を投げ、それが落ちて指し示す方向にそれぞれ進もう」と決めた。結果、フロモンは北西のアジョワ地方へと進み、フランス国境近くのボンフォル(Bonfol)村で庵を結び、盗賊に襲われて命を落とすまで福音を説いた。イミエは南に下り、現在のSt-Imierで町の基礎を作った。

 ウルサンヌがレ・ランジエからそう遠くない、山間の河畔を選んだのは、既に老齢であったからだという理由だけではない。

 山に囲まれたその集落は、少なくとも紀元前9000年頃から人間が住み始め、狩猟や釣り、採集をして暮らしていただけではなく、切り石加工工房やナイフ製作所が営まれていた。考古学調査で分かったことだが、数十km離れた集落から原石輸送経路を確保していたことなど、いわゆる中石器時代に於いても文明の光は届いていた。

 この地域は5世紀よりフランク王国の勢力下に収まっていたが、496年のフランク王クロヴィスの改宗以来、キリスト教が広まりつつあった。定住して活動をしたいウルサンヌにとっては絶好の場所でもあった。

 ウルサンヌは他の修道士達と協力して福音活動に励むだけでなく、身につけていた教養と新しい農業技術で、農民達を援助し、心の支えとなった。彼らの慈愛に満ちた働きぶりは地元民を惹きつけ、数多くの信者を得た。

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 晩年、ウルサンヌは、川を見下ろせる洞穴に庵を結んで隠遁生活に入ったが、彼を訪れてくる人は絶えなかった。

 ウルサンヌには、潰瘍や帯状疱疹など皮膚病を治癒させる能力があり、それを聖人が起こす奇跡と信じた人々が彼を敬い、頼りにした。

 隠遁生活中のウルサンヌが一緒に暮らしていた小熊は、木の根っ子やハーブ類を採集し、里に降りて人間の食べ残しを集めるなど、ウルサンヌの食料を調達する役割をしていたそうだ。そのことに関して伝承がある。

 もともとこの熊は森に住んでいたが、ある日、森から出てきてたまたま出くわしたウルサンヌ所有のロバを食べてしまった。それを見たウルサンヌが、罰として亡きロバの代わりに自分に仕えるよう命じると、熊はおとなしく従うようになった。また、ウルサンヌが焚き火に必要な木を根こそぎ倒すように頼めば、その通りにしたという。これらの言い伝えから、サン・トゥルザンヌの町の紋章には杖を持った熊が描かれることになった。

 620年、ウルサンヌが68歳で亡くなった後、偉大な聖人を慕う何人かの修道士達がウルサンヌの墓の傍に住み始めた。彼らが墓の上に建てた小さな教会は、後のコレジアル教会へと建て増しされていった。

ポラントリュイ城内、現在裁判所として使われている建物の玄関ホールに描かれた紋章の数々。各市町村の特色を表すものが多い。上段左から3番目がサン・トゥルザンヌ swissinfo.ch

 これまで名を挙げてきた修道士は皆、死後、「聖人」と呼ばれているが、ローマ教皇庁によって列聖されたわけではない。列聖されるには、迫害に遭って殉教したことや、存命中に起こした奇跡の証明、死後も遺体(の一部)が腐敗しなかったことなど、様々な「事実」が必要となり、まず、司教区で、それから教皇庁により、厳密に調査される。通常は死後何10年、時には何100年とかかる。

 列聖されているか否かは別として、どの聖人も存命中の行いや伝えられている奇跡、死の原因などによって、その「専門分野」の守護聖人とみなされる。

ネポムクの聖ヨハネ像。この像は1973年製の複製で、1731年製作のオリジナル作品は、コレジアル内の石碑博物館(Musée Lapidaire)にある swissinfo.ch

 例えば、1383年、ボヘミアの司教だったネポムクのヨハネは、ボヘミア王の怒りを買って拷問を受け、挙句の果てに袋詰めにされて橋の上からモルダウ川に投げ込まれたが、死後、列聖されて橋の守護聖人となった。有名なところではチェコのカレル橋など、世界各国数多くの橋の上にネポムクのヨハネ像が建っている。

 しかしながら、異国の有名かつ列聖された聖人より、地元に寄与していたと言い伝えられる聖人は身近に感じるせいか、ジュラの聖人信仰は日常生活に溶け込み、素朴さに満ちている。先に述べた帯状疱疹などの皮膚病は、この地方で「サン・トゥルザンヌの病」と呼ばれ、患った時はこの聖人に祈ると快方に向かうと、古来より信じられていた。

 信仰の有無にかかわらず、ヨーロッパの歴史を深く知る上でキリスト教文化は避けて通れない。ヨーロッパで教会や歴史的建築物内に描かれた聖人を見つけたら、自分なりにその生涯を調べてみると、また違った角度からその地域や国を見つめ直せるかも知れない。事実か単なる伝説か、その境界は定かではないとしても、当時の人々の生活ぶりや精神世界が実感を伴って垣間見えてくるのではないだろうか。

マルキ明子

大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。

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