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人道法の歴史に名を残した6人のスイス人

1949年のジュネーブ4条約は陸海上で負傷した戦闘員の処遇、捕虜の扱い、民間人の保護を改善することを目的としていた
1949年のジュネーブ4条約は陸海上で負傷した戦闘員の処遇、捕虜の扱い、民間人の保護を改善することを目的としていた KEYSTONE

1949年のジュネーブ4条約は12日、締結から75周年を迎えた。1864年から2024年にかけ、同条約のような国際人道法を推進した6人のスイス人を紹介する。

ジュネーブ4条約は1949年8月12日にジュネーブで締結。国際人道法の基礎、戦争法としても知られる。

武力紛争が生じた場合に、傷者、病者、難船者及び捕虜、これらの者の救済にあたる衛生要員及び宗教要員並びに文民を保護することによって、武力紛争による被害をできる限り軽減することを目的とした以下の4条約の総称。日本は1953年4月21日に加入し、1953年10月21日に発効した。

1.戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関するジュネーブ条約

2.海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関するジュネーブ条約

3.捕虜の待遇に関するジュネーブ条約

4.戦時における文民の保護に関するジュネーブ条約

同条約は戦時における民間人、医療関係者、傷病兵、捕虜の保護を目的とする。ジュネーブ4条約はすべての国が批准している。スイスは寄託国だ。

ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナの紛争、シリア内戦、ミャンマー内戦などでジュネーブ4条約のルールがほぼ無視されている今、この条約の存在意義が薄れているように見えるかもしれない。

だが赤十字国際委員会(ICRC)は、ジュネーブ4条約が何百万人もの人命を救ってきたと強調する。そして、戦争による苦しみを和らげることで、平和への復帰を促せると訴える。

ジュネーブ4条約はスイスの多くの著名人が長年、その発展と擁護に尽力してきた。ここでは、そのうちの6人を紹介する。

創立者アンリ・デュナン(1828〜1910年)とギュスタブ・モワニエ(1826〜1910年)

1863年2月17日、5人のジュネーブ人(ギュスタブ・モワニエ、ルイ・アッピア、ギョーム・アンリ・デュフール、アンリ・デュナン、テオドル・モノアール)が、ICRCの前身となる5人委員会を結成した
1863年2月17日、5人のジュネーブ人(ギュスタブ・モワニエ、ルイ・アッピア、ギョーム・アンリ・デュフール、アンリ・デュナン、テオドル・モノアール)が、ICRCの前身となる5人委員会を結成した KEYSTONE

アンリ・デュナンはジュネーブの宗教家の家に生まれた実業家だった。仕事で北イタリアを訪れた際、ソルフェリーノの戦い(1859年6月24日)の惨状を目の当たりにする。4万人もの負傷兵が苦しんでいるのを見たデュナンは自ら志願して救援に向かい、地元の人々と救援活動を組織した。

3年後、ジュネーブに戻ったデュナンは「ソルフェリーノの思い出」を出版し、紛争の犠牲者を保護するための国際条約制定を呼びかけた。また、戦傷者を助けるための援助組織の設立も提唱した。この2つの案は、当時は画期的なものだった。前者はジュネーブ条約を、後者は赤十字運動を生んだ。

提唱者はデュナンだが、同じくジュネーブ出身で弁護士のギュスタブ・モワニエの存在なくしては実現には至らなかっただろう。5人委員会が誕生した翌年の1864年に最初のジュネーブ条約が成立したのは、モワニエの法的知識と実務能力のおかげだった。

特にモワニエは、戦時に尊重されるべき制限規則を定めたこの最初の条約の調印に先立ち、欧州中を駆け巡った。この条約には、医療従事者の保護のほか、負傷者への尊厳ある治療も盛り込まれた。

モワニエはICRCの初代総裁となった。一方、実業界で失脚したデュナンはスイス北東部の小さな町に隠棲した。

マックス・プティピエール(1899〜1994年)、人道的活動に尽力したスイス閣僚

1949年8月12日、ソ連首席代表ニコライ・スラウィン将軍(中央)にジュネーブ条約の署名場所を示すスイス連邦閣僚マックス・プティピエール(右)
1949年8月12日、ソ連首席代表ニコライ・スラウィン将軍(中央)にジュネーブ条約の署名場所を示すスイス連邦閣僚マックス・プティピエール(右) keystone

ヌーシャテル出身の法学者で弁護士のマックス・プティピエールは1945年、第二次世界大戦が終結する数カ月前にスイス外相に就任した。大戦の惨禍を繰り返さないためには国際法の改正・強化が必要だった。

4年後、プティピエールはジュネーブで自身が議長を務める国際会議を開いた。これが機となり、1949年にジュネーブ4条約が締結され、民間人の保護が確保された。

プティピエールはスイス閣僚を16年務めた。スイスの積極的中立政策の発展やジュネーブの「平和の首都」としての位置づけに影響を与えた人物として知られている。

ジャン・ピクテ(1914〜2002年)、現代人道法の父

ジュネーブ4条約50周年にあたる1999年8月12日、ICRC、国連、スイス連邦の代表者に囲まれるジャン・ピクテ(右から2人目)
ジュネーブ4条約50周年にあたる1999年8月12日、ICRC、国連、スイス連邦の代表者に囲まれるジャン・ピクテ(右から2人目) Keystone

ジュネーブ出身の弁護士ジャン・ピクテは第二次世界大戦中から戦後にかけ、ICRC総裁マックス・フーバーの右腕として、大きく傷ついた国際人道法の整備と刷新に重要な役割を果たした。戦後、1949年のジュネーブ4条約の採択につながる準備作業を行った。

この歴史的な条約の起草に参加しただけでなく、1977年に採択された追加議定書の交渉にも携わった。人道性、公平性、中立性、独立性といった赤十字の基本原則に貢献したピクテは「現代国際人道法の父」と呼ばれる。

ICRCでの長いキャリアの中で、ピクテは事務局長と副総裁を歴任した。

エリザベート・デュクレ・ヴァルナー(1953年生) NGOジュネーブ・コール創設者

2005年の「ノーベル平和賞に1000人の女性を」プロジェクトは、ベルンで同年開催されたイベントで、エリザベート・デュクレ・ヴァルナー(右)ら5人のスイス人女性を推薦した。
2005年の「ノーベル平和賞に1000人の女性を」プロジェクトは、ベルンで同年開催されたイベントで、エリザベート・デュクレ・ヴァルナー(右)ら5人のスイス人女性を推薦した keystone

理学療法士の訓練を受けたエリザベート・デュクレ・ヴァルナーは、対人地雷禁止を求める運動を長年続けてきた。1997年、対人地雷を禁止する国際条約がオタワで調印されたとき、ジュネーブ州政府の一員だったデュクレ・ヴァルナーは、地雷を敷設しているのが国家ではなく武装集団である以上、条約は何の役にも立たないことに気づいた。

そのためNGOジュネーブ・コールの設立を決意した。2000年以来、このNGOは武装集団と対話し、戦争法などに関する意識啓発を行い、ICRCの使命を補完している。

デュクレ・ヴァルナーは15年以上にわたって同NGOの代表を務め、コロンビアからシリアまで世界中を飛び回り、多くの国がテロリストのレッテルを貼る反政府武装勢力に、国際人道法の遵守を約束させようと努めてきた。

「善人とだけ話しても世界は変わらない」と2016年に仏語圏日刊紙ル・タンに語った。レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(2023年)、ジュネーブ財団賞(2016年)など、いくつかの賞を受賞している。

ミリアナ・スポリアリッチ・エッゲー(1972年生)、ICRC初の女性総裁

2023年、ジュネーブでの記者会見に臨むミリアナ・スポリアリッチ・エッゲー
2023年、ジュネーブでの記者会見に臨むミリアナ・スポリアリッチ・エッゲー Keystone / Salvatore Di Nolfi

2022年10月、ミリアナ・スポリアリッチ・エッゲーがICRC総裁に就任した。女性総裁は161年のICRCの歴史の中で初めてだ。

ウクライナ、スーダン、ガザでの戦争に象徴されるように、就任後の2年間は決して楽なものではなかった。特にウクライナ政府とイスラエル政府からの批判に直面し、以前に増して誤解されつつあるICRCの中立性と役割の擁護に奔走した。何年にもわたり拡大してきたICRCは、昨年、前例のない予算危機に直面し、縮小を余儀なくされた。

(敬称略)

編集:Imogen Foulkes、英語からの翻訳:宇田薫、校正:大野瑠衣子

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